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第2章 ジェンス――撃ち抜かれた瞬間(後編)

 モルフォドの民は裸馬に乗ることで知られているが、ジェンスも鞍なしで馬に乗るのが得意だ。これだけはハッチェリにも勝てる。

 昇る朝日の方角へ栗毛を走らせる。地平線では金色がかった赤い色をしていたが、今や黄色にまぶしく輝いている。


 ふとジェンスはまばたきした。太陽の真ん中に黒い点がみえたのだ。なぜかそこから目を離すことができずにいると、突然馬がいなないて前足をあげ、棒立ちになった。


 ジェンスはとっさに馬の首にしがみついた。さっきまで太陽のあったところにまがまがしい黒い渦がある。呼吸する間もなくその渦はジェンスの方へ迫ってくる。渦の中心から蛇の頭のようなものが伸び、べちゃりと黒い飛沫が飛んできた。

 とっくにパニックに陥っていた馬が後ろ足を跳ね上げるようにして方向を変えた。あの黒いものから逃げようとしていたのだが、それはジェンスも同じだった。


 全速力で走り出した馬の首にしがみつくが、まがまがしい気配はジェンスのすぐ近くにあり、馬もそれをはっきり感じとっている。魔物。そうにちがいない。傭兵はときおり魔物の危険にさらされるから、エオリンの団員には退魔師もいる。だがジェンスが魔物に遭遇するのはこれがはじめてだった。


 馬の首に必死でつかまったまま視線をうしろにやると、馬の尻の上でまがまがしい影が首をもたげた。それが飛びかかってきたとたん、ジェンスの意識は暗黒に飲みこまれた。





 次に目をあけたとき、ジェンスが最初に見たのは青だった。透明で明るい、澄んだ青色だ。

「気がついた」

 見知らぬ少年がジェンスを見下ろしている。白いひたいの上に垂れかかった髪が朝日をうけて金色に輝いている。ジェンスが見た青はその下の眸の色だった。


 なんて色だ。思わずじっとみつめると相手はまじまじと見返してきたが、いきなり手をあげてジェンスの頬を打った。

「痛ッ」

「痛い?」

 少年がそういったとき、横からぬっと太い腕が伸びてきた。


「おい、おまえはいま何をやった! あの稲妻はなんだ! 魔物は?」


 叫ぶようにいったのはハッチェリだ。彼はすぐさま少年の襟首をひっつかんで立たせ、するとジェンスは体を起こせるようになった。どうやら少年はジェンスの上に乗っていたらしい。


 周囲には人だかりができ、集まってきた人々が口々になにか言い立てていた。傭兵もいれば街道脇の野宿者もいる。

「あれはなんだったんだ」

「白い光で……」

「いったい何が起きた?」

「魔物なら大神殿に知らせを!」

「うるさい、黙れ!」


 クエンスの大音声が響き渡り、人々はいっせいに話すのをやめた。傭兵団長の横から退魔師のアルコンが顔をのぞかせる。ハッチェリは金髪の少年の襟首をつかんだままで、アルコンは少年の正面に立った。

「おまえ、いま何をやったんだ? ジェンスにとりついていた魔物は?」

「魔物……」

 金髪の少年は口ごもった。

「魔物……そうか、魔物……」

「なんだおまえ、わかってないのか? 退魔師でもないのにあれをやったのか?」


 少年はとまどった表情でアルコンを見返している。ジェンスより一回り小さく、身に着けているのは野宿者同様のそまつな服だった。痩せた顔のなかで眸だけが青い宝石のようにきらめいてみえる。


 どういわけか、心臓の奥を撃ち抜かれたような気がした。少年はただそこに立っているだけだというのに。


 ジェンスは地面に座りこんだまま、少年の襟首を押さえている傭兵を見上げた。

「チェリ、馬はどうなった?」

「馬ぁ?」

 ハッチェリは呆れはてた顔をした。

「馬の心配ができるなら正気ってことか? ジェンス、おまえわかってんのか? 魔物に喰われかけたんだぞ! そしたらこいつがおまえに飛びかかって、そして――」

「その者から手を離しなさい」


 鋭い声がハッチェリをさえぎった。


 一瞬のどよめきのあと、人だかりが左右に割れた。あらわれたのは純白の長衣をまとった男だった。痩せて骨ばった肩から布が重たげに垂れ、朝日を浴びて輝いている。

「神官さまだ!」

 人だかりの中から声があがった。紫の眸が傭兵たちを見下ろす。


「わたしは大神殿のフィシス。そこの傭兵、手を離しなさい。わたしの祈りがたった今、その者を通じて魔物を払いのけたのだから」


 ハッチェリはパッと手を離した。だが少年は動こうとしない。神官がちらりとジェンスをみる。

「落馬したな。痛むか?」

 ジェンスはとっさに返事ができなかった。アルコンがかわりに答えた。

「うちの治療師に手が負えなければ連れていきます」

 神官は重々しくうなずいた。

「他に害がおよばず何よりだった。ユーリ、帰るぞ」


 少年がそろりと足を踏み出した。彼の名はユーリというのか。


 神官は少年の手首をつかみ、大股でその場をあとにした。野宿の巡礼たちが遠巻きにしながらついていく。立ち止まったまま、膝をついてうやうやしく見送る者もいる。


「……あの神官がやったって? あいつを通じて? そんなことができんのか?」

 ハッチェリは神官から目をそらし、疑わしそうにいった。

「大神殿の神官は格が高い。祈りの力も強いらしいからな」

 アルコンが答え、ジェンスに手を差し出した。

「立てるか?」

「大丈夫」


 太陽はまだ東の空にある。一日は始まったばかりなのだ。

 駐屯地へ戻るとトラクスが血相を変えていたが、ジェンスは初めて見たかのように神殿都市ライオネラをふりあおいでいた。

 彼――ユーリというあの少年は、この都市のどこにいるのだろう?




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