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第2章 ジェンス――撃ち抜かれた瞬間(前編)

 その日ジェンスが目覚めたのは、いつもと同じ未明の時刻だった。


 傭兵団エオリンの一日は夜明け前にはじまる。いつもジェンスは、メルクがテントの外を歩く足音で目を覚ます。メルクはエオリンの古参団員で、誰よりも早く目覚めるのだ。


 養父のトラクスはまだ眠っていたが、ジェンスはすばやく身支度をすませてテントを抜け出した。まだ誰もいない水場でポンプを動かし、冷たい水で顔を洗う。


 神殿都市ライオネラの門前に滞在してしばらくになるが、ここの水は他の土地よりもあたりが柔らかい。来たばかりのころハッチェリにそう話したら「何を上品なこといってんだ、ご婦人かよ」とからかわれた。でもこの土地の水は格段に味がいいのだ。おまけにいくらでも汲ませてもらえる。


 それもあってジェンスは今朝ものんびり桶にかがみこんでいた。と、いきなり背中をバシッと叩かれた。

「よう、坊主」


 一、二年前なら、これだけで水に顔をつっこみそうになっていたものだ。だが最近のジェンスはハッチェリの不意打ちをものともしないようになっている。

「おはよ、チェリ」

「ち、つまんねえ。ちょっとくらい驚けよ」


 ハッチェリはエオリンでもっとも小柄なのに、副団長に張り合う腕利きで、体術の達人でもある。乱暴なあいさつは親愛の表現だ。赤ん坊のころ養父に拾われたジェンスは、傭兵団の古参全員にとって息子か弟のようなものだった。


「ジェンス、親父さんは起きてるか?」

「まだ寝てる。用でも?」

「塗り薬ができたって、ユティラの伝言だ。朝のうちに塗ってやれ。調子が悪いんだろ?」

「わかった」


 ジェンスの養父、トラクスには右足がない。ふつうの傭兵なら引退するところだが、当時の団長はトラクスを引き留めて会計係にした。少々剣の腕が立つくらいの傭兵はいくらでもいるが、トラクスには一瞥しただけで計算ができる才能があった。


 もしトラクスがエオリンを辞めていれば、ジェンスは今ごろここにいなかっただろう。ジェンスは傭兵団がラコダスに滞在していた十六年前、トラクスに拾われた。ラコダスは帝国皇帝に自治を認められた都市で、名家による共同統治が行われているが、たまに内紛が起きると傭兵団を雇う。


 自分の生まれについてジェンスが知っているのはこれだけだ。各地を転々としながら、トラクスはジェンスを実の息子のように扱い、ジェンスは歴戦の傭兵たちに仕込まれて育った。おかげで十六歳でもそのあたりの新兵希望に負けないほど剣や馬術の腕はあるし、身長もこの一年のあいだにハッチェリを追い越した。

 とはいえジェンスは稽古で彼に勝てたことは一度もないし、そもそもエオリンの正規団員ではない。入団の誓いを立てていないのだ。


 あたりがだんだん明るくなってくる。ジェンスはユティラを料理人のテントでつかまえた。彼女は治療師で、一年ほど前から傭兵団と行動を共にしている。


「チェリに聞いたけど、おやじの薬ができたって」

「ええ、これ。面倒くさがらずに塗るようにいってね」


 ジェンスは薬の容器をふところに入れた。先に自分の朝食をすませてから、父親の食事をテントに持っていくと、トラクスは義足をはめようとしているところだった。

「父さん、薬を塗るよ」


 父親は無言で手をとめ、義足を置いた。太腿の半ばで切断され、切り株のようになった右足にジェンスは薬を塗る。子供のころから見慣れているから何とも思わないが、父親は今もときおり、失った足の痛みに苦しんでいることがある。


「ひどい匂いだ」

「効くんだろ? ユティラが泣くよ」

「ふん」


 トラクスは傭兵団でも口数のすくない方で、酒を飲んでいるときも他の団員のように羽目をはずしたりしない。だがジェンスはこの数日、父親が輪をかけて無口になっているように思えてならなかった。それも自分がいる時にかぎって黙りこんでしまう気がする。

 このあとは馬たちの世話が待っている。薬を塗りおえてジェンスは立ち上がった。

「ジェンス、今日はおわったら団長のところへ行け」と父親がいった。

「わかった」



 外に出ると東の地平線に朝日が顔をのぞかせていた。ジェンスが馬の囲いへ向かうあいだにも、じりじりと丸い輝きをあらわにしていく。

 この春からジェンスが馴らしている若馬が柵のそばへ寄ってきた。俊足で怖れを知らないモルフォドの血統で、ひたいに白い星がある栗毛だ。


 傭兵団エオリンの名は、馬の育種で定評のあるモルフォド生まれの創設者に由来する。歴代団長はモルフォドの民とつながりを絶やさないようにしてきたから、エオリンは常に良い馬をそろえることができた。


 囲いをあけて馬を出していると、早朝に出立する傭兵が自分の馬を連れにやってきた。

「どうしたんだ、ジェンス。うかない顔だな」

「俺が? まさか」

「団長に若すぎるっていわれたからか? 悪ぃが俺も同感だ。それにおまえはトラクスの息子だからな」


 ジェンスは肩をすくめた。傭兵はその反応をどう思ったか、からからと笑いながら自分の馬を連れていった。


 傭兵団エオリンで、会計係であるトラクスの地位は高い。昼間は団長のテントで仕事をしていて、多くの情報に通じている。片足であることは何の瑕疵にもならない。物を知らない新兵がうっかり見下した言葉を吐いて、中堅の傭兵たちに袋叩きにされたこともある。

 その新兵は団長が早々にクビにしてしまったが、出ていくとき「弱小のくせに偉そうにしやがって」と捨て台詞を吐いていた。


 たしかにエオリンの規模は弱小の部類で、仕事は交易商や巡礼の護衛がほとんどを占める。だが二十年前はそうではなかった。今の数倍の団員がいたのに、帝国軍の地方反乱制圧で捨て駒として使われ、あやうく全滅するところだった。トラクスが右足を失ったのはその時だ。


 ジェンスはこの話を父親ではなくメルクから聞いた。二十年前は斥候兵だったメルクはいまだに現役で、エオリンを離れようとしない。多くの傭兵の夢は現役のうちに金を貯めて土地と家を買い、残りの人生を安泰に暮らすことなのに、メルクはエオリンを終の棲家と決めているらしい。


 ジェンスは物心ついたときから、エリオンに加わっては去っていく、さまざまな傭兵をみてきた。ジェンスにとって、いずれ自分も誓いを立ててエオリンの正規団員になりたいと考えるのはしごくあたりまえのことだった。


 だが現在の団長のクエンスは新兵希望者を厳しく選別していて、ジェンスは傭兵になるには若すぎるという。そもそも父親のトラクスがジェンスの入団を望んでいなかった。


 傭兵団で育ったのに計算や読み書きを父親から教われるなんて、おまえはなんとラッキーなやつだ。ハッチェリにもそういわれたが、ジェンスはテントに閉じこもって紙をにらんでいるより、馬を馴らしたり稽古をする方が好きだった。読み書きはともかく計算が苦手だったから、ますますそう思う。まちがえると父親が横でイライラしているのがわかって、うんざりする。


 団長のところへ行けというさっきの命令も、きっと父親の手伝いをさせられるのだろう。こんなふうに晴れた日は馬を走らせていたいのに。


 とりとめもなく思いをめぐらせていると、袖を馬につつかれた。走りたくてうずうずしているのだ。これまで馴らした馬のなかでも、この栗毛はジェンスと特に気があっていた。


 すこしだけだ。

 ジェンスはたてがみをつかむとに馬の背に飛び乗った。




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