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第1章 ユーリ――夜明けの邂逅(後編)

 世界は七本の枝をもつ大樹、聖地ヘルレアサにそびえる世界樹によって支えられている。はりめぐらされた根と風にそよぐ枝葉からいきわたる恵みが、闇の亀裂から侵入する魔物を追い払い、人々を生かしている。


 聖地ヘルレアサの丘には大神殿が築かれ、ここを中心に神殿都市ライオネラが発展した。ライオネラは皇帝によって神殿の統治を認められ、住民は昼間、丘にそびえる世界樹の影で時刻を知る。ヘルレアサの丘の北東側には世界樹から分かれた木々が聖なる森を形づくり、都市の北側を流れる大河の岸辺にも、聖なる森が広がっている。


 俺が生まれたのはへんぴなところだったから、ライオネラについて知っていたのはこの程度だった。


 故郷のシャロヴィ村には年に一度、いちばん近い町の神殿から神官がやってきた。町の神殿には世界樹と根をおなじくする聖なる森の木が植えられ、神官はこの枝を持って魔物除けの祈りをおこなうのだ。災難が続いた場合や、魔物が出現したあとも、神官は聖なる木の枝を手に祈りを捧げる。


 ずっと昔、神殿が町にできる前は、魔物が出れば退魔師を呼んで追い払ってもらっていたという。シャロヴィ近辺には今も退魔師がいて、町の神殿へ申し出るほどでもない災難は、退魔師に処置してもらうのが普通だった。


 でも神官は退魔師にいい顔をしなかった。彼らが奉じる七枝神は邪神で、退魔師はいずれ闇の亀裂に堕ちるというのだ。いまどき退魔師が堂々と働いているのはシャロヴィのような辺境くらいだと、村長に話しているのを聞いたこともある。


 俺にとっては、神殿も神官も彼らがふりまわす世界樹の枝も、退魔師も似たようなものだった。辺境では昔からほんものの魔物があらわれるのは数十年に一度、村人のほとんどは魔物に直接出くわしたこともない。遠くの村で魔物が出たと聞いたときは、こっちに万が一魔物がきたら、神官だろうが退魔師だろうが追い払ってくれればそれでいいと考える。他の村人もおなじように思っていたんじゃないだろうか。


 これが俺の生まれた世界だった。奇妙なことに、俺は物心ついたときから、ここがほんとうに自分の故郷なのか、ふと不思議に思うことがあった。それでもこれが俺の世界だったのだ。

 十六歳になるすこし前、あの退魔師が村にやってくるまでは。





 大神殿ではいまごろ夜明けの礼拝が行われていて、神官のフィシスもきっとそこにいる。今のうちにできるだけ距離を稼ごう。

 そう思ってふりむいたとき、街道の先で馬のいななきが聞こえた。俺は目を瞬いた。太陽がどす黒い影に覆われているように見えたのだ。


 また瞬きすると影は消えた。すると今度は太陽を背にして馬が一頭、狂ったような勢いで駆けてくるのが見えた。何かに追い立てられている――どころか、尻に火がついているような勢いで、まっすぐこっちへ向かってくる。


 突然のことで俺の体はこわばって、街道の隅に立ちつくしていた。馬はとんでもない速さでこっちへ近づいてくる。首に乗り手がしがみついているのに、狂ったようなめちゃくちゃな走り方だ。それも道理、馬の尻にぬちゃりとした黒いものがくっついているのだ。みるまにそれは飴のように伸びて、乗り手にとりついた。


 ドサッと音がした。乗り手がいなくなった馬はいななきながら道を突っ走っていく。街道の真ん中で誰かがもがいている。あの黒いものが顔にぺたりとはりついていて、それがみるみるうちに頭から首、肩へと広がっていく。


「魔物だ――ジェンス?!」


 街道の向こう側から誰かが悲鳴まじりに叫び、指笛をふいた。長く伸ばしたそれは何かの合図だったのか、傭兵団のテントのあたりでブオオオオオ……と不吉な音が呼応するように鳴り響いた。


 きっと、体が動き出したのはその音のせいだ。俺は飛び跳ねるように駈け出していた。道に放り出された乗り手は俺より大柄だったが、体つきは俺と同じくらい若く思えた。もう胸のあたりまで黒いものに覆われてしまっている。俺は痙攣するように手足をばたつかせている乗り手にまたがると、両手で顔を覆う黒いものをひっつかんだ。


 ――そのとたん、世界が影に覆われたように薄暗くなった。


 見えるもの聞こえるもの感じるもの、光や風や匂いや音、それまで俺の五感がとらえていたものがぐるりとひっくり返って、得体のしれない不気味なものに変わった。その黒いものに触れるそのときまで世界に俺を開いていたはずの感覚が、そこから受け取ったあらゆることが、ほんとうはおぞましくおそろしいものだったのだという理解が一瞬で腹の底に落ちて、頭の中が名づけられない恐怖でいっぱいになる。


「やめろ、手を離せ!」


 遠くで誰かが叫んでいるが、俺には何の意味もなさない。

 俺は薄闇の不気味な世界を見渡し、なぜ自分はここにいるのかと思った。俺の手がつかんでいるのは薄闇の世界を形づくる膜で、この膜は俺を包みこみ、侵食し、この一部にしてしまうだろう。だがそれは、いま俺の頭をいっぱいにしている恐怖にくらべれば、なんということもない。


 だがそのとき、この膜の下に誰かがいた、という記憶が疼くような痛みとともに心の片隅に浮かび上がった。

 その誰かのために、俺はここへ来たのだ。

 そうだ。


「引きはがせ!」

「アルコンはどこだ? 手遅れになる――」


 次の瞬間、薄闇の世界は白い稲妻に引き裂かれた。





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