夜更けに寝床を抜け出したのに、東門の近くにたどりついたときは空が白みかかっていた。薄闇の中に木立ちが浮かびあがり、俺は誰にもみられないように、木々のあいだを壁まで走る。向こう側は神殿都市ライオネラの街区で、その先の東門は日の出前にひらく。
「どうした?」
斜め上から声が聞こえてビクッとした。警備の兵士だ。俺は壁に背中をつけ、息を殺した。
「木の間で何か動いた」
「鳥じゃないか? そろそろ夜明け鳥が飛び立つ」
兵士がいった、その直後だった。目の前の木立ちから小鳥がいっせいに飛び立って、羽ばたきながら空に舞った。白みがかった空を大きな渦を描くようにぐるりと回り、大神殿の方へ飛んでいく。
「やっと交代だ。行こう」
羽ばたきに混じって兵士の声がかすかに聞こえ、俺はほっと息をつく。
大丈夫だ、まだみつかってない。俺にわかっているのは、丘のこっち側の森が聖なる森と呼ばれていること、ここを下って壁を越えれば近くに門があること、それだけだ。
大神殿を抜け出すのもそのあと真っ暗闇の中を下っていくのも、簡単ではなかった。俺の心臓はさっきからどきどきしっぱなしで、この音が誰かに聞かれてしまうんじゃないかと思うくらいだ。
神官のフィシスは俺がいなくなったことに気づいただろうか。フィシスでなくても、誰かが気づいたにちがいない。同じ部屋にいたのは十歳かそこらの子供たちばかりだから、十六にもなる俺がいなくなればすぐわかる。
でも俺が抜け出したときは誰も追ってこなかった。だいたい神殿の連中の中で、俺の名前を覚えていそうなのはフィシスくらいだ。二日前、ライオネラに着いてこの丘へ連れてこられたとき、いわれるまま下働きの列に並ぼうとしたら、フィシスが俺を呼びとめていった。
(おまえ、名はなんという)
(ユーリ)
(わたしはフィシス。来なさい。おまえの場所はそこではない)
ところがそのあとフィシスの姿は一度も見かけず、食事を運んできた連中は俺を見て不思議そうな顔をしていた。俺が同じ房にいた子供たちとはぜんぜんちがったからだろう。年齢だけじゃない。他の子供たちは晴れ着のような白い服を着ているが、俺が着ているのはボロも同然だった。親が死んでひとりになって、何年も奴隷みたいに村でこき使われて好き勝手されたあげく、厄介払いするみたいに神殿に差し出されたのだから、当然だ。
だからやっぱり、逃げ出さなければならなかった。たまたまとはいえ、やっとあの村長の家を出られたのだ。何もかも取り上げられて奴隷首輪をはめられてしまったら、もうどこにも行けなくなる。村で耐えた日々も無駄になってしまう。
今しかない。ユーリ、しっかりしろ。
俺は自分自身にいいきかせ、壁に手をかけてよじのぼりはじめた。兵士たちがいなくなったのをたしかめてから、体を低くして壁の上を走る。
「何だおまえ! おい、そこの坊主」
東門の近くでライオネラの街区に飛び下りたとき、誰かがそう叫んだ。俺は全速力で走って小路を曲がり、ひとけのない路地に出た。フードを深くかぶって辺りを見回し、誰も追ってこないことにほっと息をつく。そのとき、開門を告げる銅鑼の音が響いた。
空にはまだ鳥たちが舞っていた。銅鑼が鳴り終わると、羽ばたきの音にまじって足音がザッ、ザッと響きわたる。
俺は目を丸くして路地の陰から大通りをのぞいた。列をなしてやってくるのは門の外で野宿していた巡礼者たちだ。粗末な服を着ているところをみると、貧しくて宿に泊まることもできなかったのかもしれない。
そのまま巡礼の列をながめていると、通りぞいの巡礼宿からもっとましな服装の人々があらわれて加わった。俺は彼らに逆行して東門へ向かい、出たり入ったりして荷物を運んでいる行商人にそしらぬ顔でついていった。
門の外は青空市で、焚火の煙にまじって食べ物の匂いが流れてくる。朝食の粥だろうか、立ったまま木の椀に顔をつっこんでいる人たちがいて、それを見たとたんぐうっと腹が鳴った。
俺はぐっと腹に力をいれ、背中の荷物から水筒を出して一口含んだ。こっそりとっておいたパンがあるし、靴の底には貨幣を隠しているが、早く街道を歩きはじめた方がいい。太陽は昇りはじめたばかりだ。
「いつ出発するんだ? 護衛は?」
あそこで粥を食べながら話しているのは旅商人だろうか。故郷のシャロヴィにも、年に何度か、あんな風体の男たちが品物を積んだ馬車でやってきた。
「そこの、エオリンという傭兵団で雇った。去年の傭兵はラコダスに移ったらしい。名家のひとつで騒動が起きているそうだ」
「エオリン? おい、あのエオリンか? 昔、皇帝陛下の部隊と共に戦ったという……」
「そんなごたいそうな部隊なのか? 馬をそろえているとは思ったが、弱小だろう。評判はいいらしい。帝都に戻る途中で何かあったらかなわんからな」
俺は突っ立ったまま聞き耳を立てた。この商人も帝都へ行くのだ。
ライオネラから街道をさらに東へ進めば、帝都サウロにたどりつく。故郷のシャロヴィから俺を連れて行った神殿の男もそういった。そいつは俺を神殿の下男にするつもりだったらしく、他の子供たちは積荷みたいに馬車で運ばれるだけだったのに、俺は馬の面倒を見たり、車輪が嵌ったときは馬車を押したりして、いいように使われていた。
あのとき逃げ出さなかったのは、この男についておとなしくライオネラまで行った方が、帝都が近くなると思ったからだ。
といっても、帝都にあてがあるわけじゃない。アラステン帝国の首都はひとつの国ほどもある大きな都市で、人間もたくさんいると聞いたから、そこまで行けばどうにかなるんじゃないかと思っただけだった。
だけど今考えると、大神殿へ連れていかれる前に逃げ出した方がよかったかもしれない。
街道に向かって歩き出すと、その向こうの原っぱに大きなテントがいくつも並んでいるのが見えた。ブーツを履き、胸当てや脛当てといった兵士の装備を身に着けた男たちが馬の手綱を引いている。胸当てには印があったが、ライオネラの兵士がつけているものとはちがった。ひょっとして、商人が話していた傭兵団だろうか。
東の空を昇る朝日がまぶしすぎて、俺は神殿の方をふりむいた。壮麗な大神殿の真上に世界樹がそびえている。大きな翼をもつ鳥たちがはるか高くにある梢めざして、懸命に羽ばたいている。