*
――帰らなくてはならない。
いつのころからか、そう思っていた。生まれ育った村にいて、目の前に両親がいるにもかかわらず、ここは自分の属する場所ではない気がした。見たこともないどこかへ帰りたかった。
俺が生きるべき場所はどこだ。
すべての出来事は記憶にすぎない。通り過ぎたあらゆる悲惨、遭遇したすべての歓喜は、ばらまかれたカードのように混ざりあう。この世に生まれたときからの記憶と、ここではないどこかの記憶。
いま起きていることはかつてあったこと。混ざりあった記憶は未来を告げる。
ずっとそう思っていた。
*
「ユーリ! 気をつけろ」
背中でジェンスが怒鳴った。剣を突き出しながらよく叫べるものだと、ユーリは場にそぐわない感想をもつ。危機一髪の状況を茶化してしまうのは悪い癖だ。ユーリのつま先には青い深淵が口をあけていて、骨のように白い根が犠牲を待ちかまえている。
この世を支える世界樹の根はつねに飢えていて、満足を知らない。ユーリとジェンスが神子を奪ったから、根は怒りを抱えている。虹の神子、異界から降臨した救い主によって完全な存在になる夢を断たれて。
黒髪黒目の少年はいまごろ神殿の階段を駆け上がっているはずだ。ユーリとジェンスはぎりぎりで間に合った。世界樹の枝葉は神子の味方で、神殿に囚われた根の鬱屈を知らない。地下を脱出しさえすればあとは彼らが助けてくれる。きっと安全な場所へたどりつける。
ユーリは青い深淵に集中する。ひたいの前で両の手首をあわせ、指を組みあわせる。ユーリの脳裏で深淵に沈む根は透きとおった虹の七色に分解される。それらはもつれてからみあい、たがいに締めつけあっている。繊細に、だが素早く、ユーリは指を組みかえ、するともつれがすこしずつ解けていく。
根はユーリを不完全なものとみなしているが、根の方こそ知らないのだ。神官の祈りが何をしているか。
神官? ユーリはふと苦笑する。とっくの昔に「元神官」だろう?
称号は本質とは無関係だ。神殿の一員でなくなってもユーリの異能は消えず、ジェンスの剣の冴えも変わらない。
ユーリは背中で剣戟の音と神殿兵の呻き声を聞く。こんなときに背中を預けられる男がいるのは奇跡だ。おかしなものだ。夜明けの道で最初に会ったとき、俺はこの未来を知っていたか?
未来は思い出すものだ。
ユーリの指は踊る人のようにはるか下の青い深淵に影を落とす。いつのまにか心がすっかり根に囚われている。こうして神官はみずからを世界樹にあけわたしていくのだ。祈りは危険な行為だと思いもせずに。
どこかで叫び声が響いた。
「剣士ではない、そいつの向こうだ! 早くやらんか!」
ひゅんと風を切る音がして、右肩に衝撃が走った。虹の七色の調和がかき乱されたとたん、根はたちまち飢えた本性を思い出す。骨のように白い根がユーリの腰に巻きつき、淵に引きずりこまれるまで一瞬で事足りる。
「ユーリ!」
ジェンスの声が聞こえたが、ユーリはもう落ちていた。深淵に一直線に、これまで犠牲に捧げられた神官たちと同じように。
「ユーリ、いま行く――」
落ちるのは一瞬だと思っていたのに、ジェンスの声がまだ聞こえた。馬鹿なことはやめろとこたえようにも、白い根が口をふさいでいる。なぜか時間がとてもゆっくり流れている。きっと幻影にちがいない。結んだ黒髪、浅黒い肌、射るようなまなざし。
早く行け、とユーリは頭の中で念じた。俺のことはほっておいて、あの子と行くんだ。それなのにまた聞こえた。
「俺はおまえの双翼だ」
*
いつか聞いたことがある。どうしておまえ、俺と来たんだ?
そうするべきだったから、とジェンスは答えた。
すべての森が目覚める夜明けに、気がついたらおまえがそこにいた。
信じられないほど明るくて青い、おまえの目。そのときわかったんだ。これさえあればいい。
おまえにはいつだって現在しかないんだな、ジェンス。
この先どうするかなんて、一度も考えたことがないのかもしれない。
こんなにも正反対なのに、おまえといれば大丈夫だと思っていた。何がどう大丈夫かなんて、誰にもわかるはずがないのに。
深淵の底は不透明な青だ。一直線に落ちていくあいだ、記憶のカードが知らない光景をつきつけてくる。これはいつの未来だろう。ばらばらになった世界樹の枝から森が分離し、まばゆい光の中で伸びていく。だがそれもつかのまのことで、不透明な青い膜がぺたりとはりついたと思うと、光も森も覆い隠してしまった。
何もかもが青く塗りつぶされようとしているのに、まだジェンスの顔は見えている。記憶のカードがひらめいて十六歳の少年の笑顔を差し出したのだ。ふたりとも十六だった。
――ああ、そこが……
俺の帰っていく場所だったのか。おかしいな。
おまえとはずっと一緒だったのに、いまここで恋に落ちるなんて。
そして何も見えなくなる。深淵の底は不透明な青。