「もう、何百年も前のことだけれど、私はこの森の向こう側にある都市ティファレトで生まれた」
ティファレト。リアンは知識を辿る。現在は魔王ノワールの支配下にある都市の一つで、自然豊かな美しい土地だと聞く。リアンの故郷ケセドと一二を争う田舎都市で、住民が少なかったため、魔王侵攻の際もほぼ無血で開かれたと聞いた。
故にノワールに占拠された今も他の魔王軍の占拠地に比べ、元の美しい姿を保っているらしい。
リアンは行ったことはないが、いつか行ってみたいと思う場所だった。セフィロートの宝箱と言われるほどの場所だ。花色を纏うフェイによく似合う場所なのだろう。
「ええ。ティファレトはとても美しい場所だった。それは今も昔も変わらない。自然もそうだけれど、人の心も、美しかった。私を育ててくれた人々も、皆」
フェイは懐かしむように夜色の目を細め、遠くを見つめる。森の緑がちらちらと星のように瞬く瞳が神秘的に見えた。
「私はその人たちに感謝している、今もずっと。だから守りたかったのだけれど……その人たちは死んでしまったわ」
「なんで?」
暗く翳った瞳を覗き込み、リアンは問う。すると、フェイは白い手を土の地面につけた。白い手を通じてその土に温かい色の光が注がれる。しばらくして、フェイが手を離すと、そこにはひょっこりと、鮮やかな新緑色の芽が顔を出していた。
「これが私のダート」
フェイが紡いだ言葉にリアンがはっとする。
「私は植物を操るダートを持つ者として、ティファレトに生を受けた。けど、今のようにセフィロートを滅ぼそうとする者もいなかったし、本当に平和だった世界に生まれたから、ティファレトの人たちは私のダートを隠しつつ、普通の子として育ててくれた」
リアンは意外そうに目を丸くする。
彼はダートがあると知れるなり、ケセドから大都市ゲブラーへと送られた。ダート使いの英雄を多く輩出している場所で、一人前のダートの使い手になって、セフィロートを救ってほしい、と送り出された。
生まれてからダートの使い手として育てられたリアンにはダートに関わらない[普通]の生活というのが想像もつかなかった。
「私は生活であまりダートを使うことはなかった。時々、なかなか芽生えない農作物を育てる手助けをしたり、気まぐれに花を咲かせてみたり。ダートを使うのは、楽しかった。多分きっと、私があの頃咲かせた花の子孫たちが今もティファレトで咲き誇っているでしょう」
きっと幸せだったのだろう。懐かしげに語るフェイの顔は優しく綻んでいた。
「今に比べたら、随分と幸せな時代だったと思うわ。でもね、そう長くも、続かなかったの」
陽光の笑みは消え、フェイの表情が曇る。きゅ、と先程リアンを拭いていた布が握りしめられる。
「私が齢、十を越えた頃だったかしら。セフィロートの各都市で日照りが続いて——かつてない大飢饉が訪れた」
「飢饉?」
耳慣れない言葉にリアンが首を傾げる。
「食べる作物がなくなって、たくさんの人が飢えてしまうことを言うの。今はもう、馴染みのない言葉だろうけど」
フェイが説明しながら、先程生やした芽に手を翳す。芽はするするとリアンの目ほどの高さまで伸び、白い花を咲かせた。
「この力は、この飢饉を乗り切るためのものなのだと、ティファレトの人たちは気づいた。優しいあの人たちは私の力を独占しようとはせず、すぐ他の都市に明かした。私も、それでいいと思った。苦しんでいる誰かの助けになれるのなら、それ以上のことはないわ」
「うん……」
リアンは静かに頷いた。彼はできることなら今でも、人々のために戦いたいと思っている。森を守りたいという気持ちの方が強いだけであって、人のことだって守りたい。
そんなリアンは、なんとなく、話の行き先に想像がついた。
「でも、私の存在を明かしたとき、ティファレトの人たちに浴びせられたのは、問答無用の罵詈雑言の数々だった」
思い出すと胸が痛む。……と、フェイはきゅ、と胸元で手を握りしめた。
今でも一言一句違えずに思い出せる、ティファレトの人々や自分に向けられた、罵詈雑言の数々。
ある者が言った。
「お前たちはダートの子供を隠し、自分たちだけ恩恵を得ようとしていたんだな!」
ある者が言った。
「そんなお前たちの浅ましさに神がお怒りになってこのような飢饉を起こしたのだ」
ある者が言った。
「お前たちのせいだ!!」
ある者が言った。
「お前たちのせいだ!!」
ある者が言った。
「お前たちのせいで我々の父や母や子どもたちが飢えに喘ぎ、死んだのだ!!」
ある者は言った。
「お前たちのせいだ!!」
浴びせられた言葉を忘れることができない。あのときはただただ辛かった。ティファレトの人たちは何も悪くないのに、自分のことで責められている。それが辛くて仕方なかった。
「私の力を独占しようとする人が現れないように私の存在を隠していたのに。これじゃだめだ、と手を差し伸べたら、責められる……やりきれなかった。きっと、私以上にあの人たちがやりきれなかったはずです。でも、その後のことはどうすることもできなかった。私たちは弱かったから」
植物を操るダートの存在を隠していたティファレトの住民に対し、怒り狂った他都市は一斉に攻撃した。統括された部隊を持つ王国都市マルクト、人間魔物問わず猛者たちが集う英雄都市ゲブラー。剣の栄えるネツァクと魔法の栄えるホド。大都市たちが手を組んでティファレトの地を焼いた。ティファレトの人々を虐殺した。
ティファレトは元々農耕を営む都市。作物を紡いで長閑に暮らしていただけのティファレトの住民に、他都市の武力に対抗する力などあるはずもない。
「私はティファレトの人たちに守られながら、彼らが殺されていくのを見ていることしかできませんでした。やめてと叫んでも、草木の壁で阻んでも、他都市の人々はティファレトを焼き払い、そこに住む人を殺しました」
凄惨な光景は目を閉じれば今でもありありと思い出せる。逃げろ、君だけでも生き延びろ、と叫ぶ人、フェイに襲いかかろうとしていた者を羽交い締めして止めていたが、何事でもないかのように、投げられ、飛ばされ、ぐちゃりと頭が潰れた人。フェイを狙って放たれた矢を庇って胸が射られた人。フェイは瞼の裏に浮かぶ人たちに、いつも懺悔する。ダートを持っていたのに、貴方たちを救えなかった、と。貴方たちは私を守ってくれたのに、私は貴方たちを守れなくて、ごめんなさい、と。
「挙げ句、ティファレトで虐殺の限りを尽くした人々は私に言いました。[自害しろ]と」
「……え?」
リアンは話が飲み込めず、訊き返す。フェイの夜空色の瞳はどこを見ているのかわからなかった。ただ、繰り返す。
「私に[自害しろ]と。[ダートを持つお前が死ねば、神はそれを贄として、許してくださるだろう][神の力なのだ。正しく振るわれなかった力はその御許に還るのが道理だ]と」
「そんな!」
なんて、残酷なことを——リアンは言葉を失った。フェイは変わらずどこを見つめているのかわからない視線で夜色は森の緑もリアンの湖も映さず、虚空を見据えている。
リアンは思わずフェイの手を掴んだ。枝ではない、白い肌の人間の手。でないと、フェイがここではないどこかに行ってしまうような気がして。
フェイ自身の手は、リアンがはっとするほどの温もりを持っていた。
リアンの手を包むようにもう一方の手を重ね、フェイは微笑む。リアンは光の灯ったその夜空を見つめ、問う。
「それから君は、どうしたの?」
フェイは夜空の瞼を閉じ、ほろ苦く笑う。
「逃げました」
やけにあっさりと告げられた事実に思わず目を白黒させるリアン。フェイは苦笑を深めながら、続ける。
「逃げました。私一人では戦うことなどできなかった。守りたかったティファレトの住民もほとんどが死に絶え、私の心の支えはなくなった。だから、何も考えず、ただ逃げて——ここに着きました」
フェイは大樹を見上げた。リアンもつられ、見上げる。茶色く力強い幹の向こうには緑が覆い繁り、天まで昇らんとしているかのような雄々しい大樹がそこにあった。
「森に逃げれば、誰も追ってこないと思ったんです。この森は人間がただ通るにはあまりにも深い。昔から迷いの森と呼ばれるほどなのですよ」
フェイは案の定、迷ったらしい。ここがどこかもわからないまま、惹かれるように、大樹の前に辿り着いた。
「主様は傷ついた私を見、[生きたいか]と問いました。私は頷きました。生きて、守りたかった。誰に知られなくてもいい。悲しい世界を止めたかった。だから私は主様に頼みました」
そっとリアンから手を離し、幹に触れて呟く。
「もうこの先、人々が飢えることのないよう、守ってください、と」
フェイの言葉にリアンは目を見開いた。
守るために手を差し伸べた人々に[死ね]と言われたフェイ。そんな彼女が大樹に捧げた祈りが、自分を突き放した者たちが苦しまないように、というものだなんて。
リアンの視線にフェイは悲しげに眉をひそめる。白い手が再び、リアンのそれと重ねられた。
「リアン、貴方が思っている以上に、ダートは無力なの。私は守るための力がある貴方が羨ましい」
「でも、僕は!」
リアンは切なげなフェイの瞳から視線を外し、喘ぐように告げた。
「僕は、守りきれてないっ……リヴァルを何度も追い返してはいるけれど、そのたびに木々は燃えてる。ダートで火の熱が消えても燃えてしまったことまで消せない。ケテル付近の森だって、後手に回った。ソルだって、死なせてしまった。あのとき冷気のダートをすぐに使えていれば、間に合ったかもしれないのに。……僕は、僕はいつも、守りきれてないんだ!」
吐き出した思いにリアンは肩を震わせる。涙は流さない。顔も無表情だけれど、本当は泣きたいのだと、フェイにはわかった。
「いいの」
フェイは再び言い、握る手にきゅ、と力を込める。
ぱきぱき、と硬い音がした。
リアンがはっとし、フェイと繋がれた手を見る。霜の降りたフェイの手は赤くなっていた。
「フェイ、放し」
「いいの」
リアンの言葉を遮り、繰り返すフェイは、唐突に手を引き、リアンを自分に引き寄せた。
リアンが感じたのは、久方ぶりの、人の温もり。
「フェ、イ?」
「いいの、リアン」
仄かに冷たい体を抱く。空いている手をリアンの頬に優しく当てる。
「私だって、悔しかった。本当は守れたんじゃないかって、もっと別な手立てがあったんじゃないかって、色々考えて、それでも、考えても、戻ってくるわけじゃなくて、それが悔しくて、虚しくて──主様の中で、たくさん泣いたわ」
フェイも人間だったのだ。リアンと同じくらいの年の少女だったのだ。[死ね]と言ってきた人々に、大切な人たちを殺した人々に、憎しみがなかったわけではない。人々を救うための決断に迷いがなかったわけではない。
その抱えきれない思いたちをただ涙で流しただけで。
けれど、それだけで幾分か、フェイは救われた気がした。
「だから、リアンも泣いて、いいの。いいんだよ……」
柔らかく放たれた声、と身を包む温もりにリアンの中の何かが次第にほどけていく。
「ぼ、くは、守れ、なかった、のに」
掠れる声がフェイに問う。
「いいの、かな? 守れなかった、僕なんか、泣い、て」
「いいの。いいんだから」
フェイが頬に置いていた手をリアンの背中に回す。リアンはその肩に顔を埋めて、静かに嗚咽を漏らした。
「……ああ、あああ……」
ぽたぽたと大樹に温かい雨が降り注ぐ。
フェイはリアンの背を撫でながら、ほっと肩を撫で下ろした。
樹木を操るフェイのダートは陽の光に通じる、温もりの力を持つ。
リアンの冷気を打ち消して、そっと泣かせてあげられる。
このダートはそのための力だったのかもしれない、と思えるほどに、フェイの心は満たされ、無力と称したダートに感謝した。
今一度、リアンに囁く。
「貴方は、無力なんかじゃないよ」
と——