ソルの腕に括られていた一筋の銀糸は、ふわりとリアンの手の中に収まる。しかし、触れた瞬間、それは冷気の結晶となって砕け散った。
リアンは自分が今、どんな顔をしているか、わからなかった。ただ、ソルが、最たる友がいなくなったという事実が身を苛み、うまく、ダートを操れない。失ったのは、自分のせいだ。
ソルに庇われた。ソルを救えなかった。自分は何度も救われたのに、それを返しきれないまま、ソルは死んでしまった。
魔王四天王とダートの使い手。本来なら敵対すべきなのに、ソルはそんなこと気にする必要ない、と言って、笑ってリアンと契りを交わした。
リアンが首から下げる小瓶がからん、と揺れる。土の欠片が入ったそれはソルの体の一部だったものだ。土の民にとって、肉体である土とは、己を司る全てであり、己の体が崩れゆくのは土に宿る神の力が降す裁きなのだという。正しくない行いをした者は土に還る。ただそれだけ。
土に還るということは死ぬということではなく、元に戻るということだ、とソルは語っていた。元々このセカイに土の民など存在せず、神が気紛れに作った粘土細工のようなものが存在するだけ、と。土に還れば、凝り固まった正しさも、苦しみだけの切望も、全てセカイと一つになって、まっさらな心でまた生まれることができる。だから土の民は死を恐れないのだ。また生まれられることを知っているから。
だから……ソルは笑っていた。
ゆらり立ち上がると、ソルが消えた向こうには双つの剣を携えた炎の勇者の姿があった。土の巨人が消えゆく様に呆然としていたが、リアンと目が合うと彼は再び目に焔を宿した。
「次はお前だ、リアン!」
ゆらゆらと刃のない剣を構えたリアンにそう宣告し、リヴァルは疾走する。リアンは無表情でそれを見、無言で柄をかちゃりと持ち上げる。
リヴァルはリアンに迫りながら、違和感を覚えていた。——何故リアンはダートを使わない?
柄は先程のような太刀にも、先日のような細身の剣にもならなかった。冷気での妨害もない。身体強化に回している様子もないため、リアンに戦う意志がないのか? と疑ったが、構えたのだからそれはないだろうと思い、リヴァルは双剣を振るう。
ガチィッ
片方は鍔の部分で受け止められた。まずい、と思ったリヴァルだが、何故このとき「まずい」などと思ったのか、リヴァルにはわからなかった。因縁の宿敵を遂に倒せる絶好の機会が到来したというのに。
そんな思考がちらとよぎった次の瞬間、リアンに感じた違和感が確信となり、慄然とする。
ザシュ——
もう片方、下から斬り上げた刃は捌かれることなく、リアンの脇腹を抉った。
何故? ——リヴァルはまず疑問を抱いた。これまで、リアンとは幾度も刃を交えてきた。それこそ数えきれないほどに。だから、こうも簡単にやられる相手ではないと嫌というほど思い知っていた。自分はいつも負けてばかりなのだから。
リアンに勝ちたいと思いながら、リアンが負けることなど、一切想像できないまま、リヴァルは目の前をゆっくりと流れていく現実を凝視していた。
とさり。
信じられなかった。地面に倒れ伏すリアンの姿が。
おかしい。何を思っているんだ? 自分は。ずっと倒したかった相手じゃないか。何を戸惑っているんだ。やっとリアンに勝てた。それでいいじゃないか。
リヴァルは自分を呑み込もうとする疑問を無理矢理保留にして、倒れたリアンに止めを刺そうと今一度剣を振りかざす。
そのとき、リアンを覆うように氷の壁が生まれ、リヴァルは弾かれる。状況がわからない。リアンにまだ意識があるのか?
考えながらも再度近づき、氷壁を見てぞっとした。間違いなくリアンのダートを感じられるその氷壁は向こう側が紅く透けて見えたのだ。
リアンのダートは氷を生み出すわけではない。空気中の水分に冷気を当てることによって靄にしたり、氷にしたりするのである。空気には塵も混じっていて、純粋な水というのは存在しない。だから靄が白かったり、氷壁が透明でも、壁と目で認識できたりする。
それが今は紅い。つまり、ただの水ではないものを冷気で固めたということになる。
紅い、液体。
その正体に気づくのは、あまりにも容易だった。
「な、んで」
リヴァルはもう一度、今度はゆっくりとリアンに近づく。
「なんでお前はそこまでして」
ぴしっ。不意に氷壁にひびが入る。リヴァルが一度歩みを止めるが、それはほんの一時で、構わず進んだ。
「そこまでして、守るんだよ!?」
やるせない思いを叫び、リヴァルが駆け出す。
すると、氷壁は更にひび割れ、ぱりん、と砕ける。しかし、砕けた氷片は地に落ちることはなく、まるでそれ自体が意志を持つかのように、リアンに迫るリヴァルに向かって飛んだ。
矢弾のごとく飛びくる氷片を双剣でさばきながら、リヴァルはじりじりと後方に退けられているのを感じた。一つ一つは小さい氷片だが、威力は易しくない。
「くっ」
見るにリアンの意識は確実にない。つまりはダートはリアンの意思とは無関係にダートが発動しているのだ。自らの主たる宿主を守りたいがために。
力が持ち主を守る——それがどれだけ異様な事態か。けれどそれはリアンが自らのダートにそれだけ愛されているということ、ダートの使い手として、祝福されているということ。
セカイを滅ぼさんとする魔物と戦う道を——「セカイを救う」道を選ばなかったはずのリアンが何故——?
理不尽だ。こんなことってないだろう。何故いつもいつもお前ばかり優遇されるんだ。リヴァルは氷の欠片を剣で弾きながら、ぎり、と歯軋りをした。
リアンは正しくないはずなのに、リアンばかり、才能にも環境にも恵まれて。魔物なんかと心を通わせて、リヴァルと仲間たちを上回るような絆を持って。
「っつ」
考えているうちに、氷片の一つがリヴァルの頬を掠めた。頬にできた紅い筋からたらりと液体が流れ落ちる。けれどリヴァルを守るために、リヴァルのダートが自動発動することはない
リヴァルは苦汁を飲み、撤退を決断した。
圧倒的な力量だけではない差から目を背けるためのものでもあった。
リヴァルが立ち去り、そこには力なく倒れ伏すリアンだけが残された。
ほどなくして、リアンの後方にある大樹の陰から少女が一人、現れた。淡い桜色の髪に緑色の花を咲かせ、手足は人のそれではなく、枝が絡み合って形を成している。
そんな姿の人外の少女はリアンに歩み寄り、その側にそっと膝をつく。夜空を映したような瞳が悲しげにひそめられる。
「リアン——」
そう言った少女——フェイはリアンの脇腹の紅い傷口にそっと手を当てる。すると、絡み合って手の形を成していた枝が消え、中から人間の、白い肌の人間の手が現れる。
白い手は柔らかな光を放ち、傷口をどんどん消していく。やがて、ぱっくりと割れていた傷は嘘のように消え、紅い血の跡だけが残った。それを確認すると、フェイの肘の辺りから枝がにょきにょきと伸びてきて、白い手を覆い尽くす。
詠唱した様子はない。——ダートということか。
「わがままを、ごめんなさい。主様」
フェイは大樹に振り向き、眉を八の字にひそめ、謝る。大樹は答えない。ただ風の吹くままにその葉をさざめかせるだけだ。
フェイはリアンに向き直り、リアンを濡らす血溜まりにちょん、と枝の指先で触れた。
血溜まりはみるみるうちに収縮し、地面にぽつんと紅い点を残す。その点から、紅い芽が生え、するすると伸び、蕾をつけ、紅い花が咲いた。茎も、葉も、花も、全てが紅い植物がそこに生まれた。
「ごめんなさい」
フェイが花を見て呟く。その言葉は、誰に向かって放たれたのだろうか。
フェイはリアンを抱き起こす。目を覚ましてしまわないようにそっと起こして、自分に引き寄せる。ぐったりとしているが、華奢なリアンは人外とはいえ少女であるフェイでも楽々と抱き抱えられるほど、軽かった。
重みのない体に、消えてしまうのではないかと不安を抱いたフェイはその体をきゅ、と少し強く抱きしめた。彼の体はいつものとおり、少し冷たかった。冷気の影響を受けた体とはいえ、その冷たさは生気を感じさせず、フェイの不安を更に煽る。口から零れる静かな呼吸だけが、リアンが生きているとわかる唯一の証だった。
いつの間にか瞑っていた目を開け、フェイはリアンを背負い、大樹の側に運んだ。本当は大樹のうろの中で休ませたいけれど、うろの中では自分は動けない。
フェイは大樹にリアンを寄りかけると、ほっ、と一息吐く。隣に腰掛け、眠る横顔を見た。——リアンは、寝顔まで無表情だ。
なんだか、徹底しているように思えて、くすりと笑みをこぼそうとしたが、やめた。無表情な頬を一筋、水滴が伝っていたのだ。
フェイはなんとなく、それを見なかったことにしたくて、立ち上がる。近くに小川が流れていたはずだ。
フェイは森の緑をくぐり、さらさらという水音を探る。小川に近づくとより空気が澄んで感じられ、フェイは好きだった。本当は、リアンを連れてきたいけれど、できない。彼のダートは、川を凍らせてしまう。
彼はいつも、森を守ろうと懸命だから、ダートを張り巡らせているのだ。それは誓いの固さを示すように氷を生み出す冷気で、けれど流れていく川の息吹きを止めてしまうことに、彼はいつも悲しそうにしていた。水と相性のいいはずなのに、彼は川や湖には寄らなくなった。
心を研ぎ澄まして、静かに——
冷気を操る訓練の際に、リアンが時折口にする言葉だ。そうして、彼は流麗な氷の太刀を生み出す。研ぎ澄まされた刃で、森を守るために駆けるのだ。
全ては、森を守るために……リアンはそのためにどのくらい心を、と思うと枝の絡み合った腕が軋むほどにフェイは手を固く握りしめた。
フェイは小川のほとりにかがみ、水面を見つめる。
リアンは、いつも心を研ぎ澄ましている。森を守るために。けれどフェイにはその[心を研ぎ澄ます]という行為が彼の心を削っているように見える。本当はぼろぼろに傷ついているのに、傷口を凍らせて、誤魔化してしまっている。
いくら誤魔化したって、傷ついた事実は消えないのだ。繰り返し続ければ、いつか、倒れてしまうときが来る。フェイはずっと、それを恐れていた。それが今日、現実になってしまった。だから、あんなに傷ついてしまった。
「草木よ、繁り、形を成せ」
フェイは地面に手をつけて、そっと言の葉を紡ぐ。すると、手の側から蔦が生え、ぐるぐるとひとりでに編まれていき、籠となる。できた籠を手に取り、フェイは小川の水を掬って入れた。隙間なく蔦で編まれた籠から水が零れることはない。
籠を抱えて元来た道を戻る。
フェイはリアンのことを思った。森を守りたい、という彼の気持ちは痛いほどわかる。恩返しのために、というのも。
フェイもかつてはそうだったから。この森に来る前、人間だった頃は。自分は大樹の使徒という形を取っているから、簡単に死んだりはしないのだけれど。
リアンは人間だ。その心を壊してほしくない。……死んでほしくない。
そう考えていると、ゆら、と籠の中の水面が揺らぐ。ぴし、と少し水面が凍った。地面も先程より冷たい。フェイははっとして顔を上げた。
冷たい風が頬をなぜる。大樹に寄りかかる少年が湖の瞳を開いていた。
「リアン!」
フェイは名を呼び、駆け寄る。リアンはその声に顔を上げた。
「フェイ、リヴァルは?」
第一声はそれだった。自分が傷ついたというのに、まだ彼は戦うつもりのようだった。
フェイは首を横に振り、答える。
「逃げていったわ。それより、あまり動かないでね。傷は塞いだけど」
「う、ん」
リアンはぎこちなく頷いた。
「草木よ、温もりをもたらせ」
フェイが唱えると、凍っていた籠の中が溶け、水に戻る。
フェイは隣に掛け、リアンの顔を拭く。リアンはされるがままだった。
「ねぇ、フェイ」
唐突にリアンが口を開く。なぁに? と静かに応じると、リアンは覇気のない声で訊ねた。
「ソルは、死んでしまったの?」
放たれた問いにフェイはリアンの顔を拭く手を下ろし、顔を俯けて、小さく頷く。
「アミドソルは、土に還りました。……またいずれ、新たな土の民として生まれてくるでしょう」
土に還り、土より出る。それが土の民という一族の仕組み。故に土の民は死んでも、年月こそかかるが、生き返ることができる。
——こんなことを言っても、リアンには何の慰めにもならないだろう、と思いながら、フェイはそう答えた。
「そっ、か」
リアンをちらりと見やると、彼は透明な瞳で虚空を見つめていた。
泣けばいいのに、とフェイは思うが、彼が泣けない理由を知っているため、口には出さない。
リアンはダートで涙すら凍らせてしまうのだ。故に泣けない。
これは魔力にも言えることだが、ダートという力は殊更感情と深い繋がりがあり、感情を昂らせれば、よりその能力が強く発揮されるのだ。だから泣こうと思えば思うほど、リアンは泣けなくなる。
こんな不器用で簡単に泣けない少年が、傷だらけで自分たちを守ってくれているのに、彼のことは一体、誰が守るのだろうか。
「フェイ、僕、ダートの使い方がちょっと、わからなくなった。だから、極端に冷たかったり、熱かったりするかもしれない。しばらくは。——心を、研ぎ澄ませば、いいんだろうけど」
「いいの」
フェイはリアンにそっと触れる。枝の指先に白く霜が降りる。
「フェイ、だめだよ」
「いいの」
フェイの手を払おうとして、リアンがひゅっと息を飲む。
「少し、昔話を聞いてもらえるかな?」
そう言ったフェイの手は、枝が消え、白い人の手になっていた。
見れば、足も裸足の白い肌になっている。
リアンの知らない、完全に人間の姿をしたフェイがそこにいた。
おそらく、その昔話に関係があるのだろう——リアンがこくりと静かに頷くと、フェイは語り出した。
「私が人間だった頃の話よ」