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第3話 風の賢者に魅入られて

 木々が犇めき、緑に囲われた森。その中でひときわ目を引く大樹が座す場所がある。

 他より拓けたその中に佇む氷色の少年。

 腰に鞘も刃もない柄のみの剣を吊るしている彼は雪のように白い靄を両の手から出していた。

 さわさわ。囲む木々が風に揺れる。それと同じく、纏う靄と同じ色の髪もさらさらと靡く。

 しばし、静けさがその一帯を支配する。少年は手を包む白い靄を湖のごとく静かな眼差しで見つめ——唐突に、腰の柄に手をやり、柄を掴んだのと反対の手はそこにないはずの鞘を抑えるように添えられて。

 しゅっ

 氷の刃が沈黙を切り裂いた。

 抜き放たれた少年の柄の先には先程まではなかった透明な刀身が現れていた。色のないそれは金属ではなく、少年と同じ白い靄——冷気を放つ氷の刃だ。

 拓けた場所で振るわれた透明な刃は特に何も斬ったわけではないはずだが、紅いものを細く滴らせていた。

 気づき、少年は一ミリほど眉をひそめ、腰に添えたままの手を見た。

「やっぱり痛いな」

 顔はほぼ無表情だが、声色には僅かながら悩ましげなものが滲んでいる。

 湖の瞳が見つめる先には小指の付け根付近から人差し指と親指の間までにさっくりと入った切り傷。あまり深くはない気がするが、じわじわと痛みが浸透してきている。傷口からは少々血が流れていた。

 少年はあまり気にした風もなく、興味なさげに傷口を注視する。すると白い靄が傷口を覆い、手の表面が薄く氷結する。血は止まった。

「よし」

「よくないよ」

 少年独特の応急手当に非難の色がまじった声がした。声の方を向けば、花色を纏う人外の少女。ちょんちょん、と枝が絡み合って形を成す指先でリアンの肩をつつく。心配そうな眼差しを向け、少女は続けた。

「リアン、また怪我したの?」

「またって、フェイ……僕そんなに怪我したことあった?」

 氷色の少年リアンは花色の少女フェイに訊き返す。するとフェイは懐かしむような、けれど苦々しげな笑みを浮かべた。

「強くなるためにって、昔アミドソルとよく取っ組み合いして痣だらけになっていたでしょう? それに氷の太刀での抜刀の練習って、いつも同じところに切り傷作って、ダートで覆ってごまかしてた。リヴァルが来たとき、木を守るために体を張ったって木の民たちから聞いたときは、心臓が止まるかと思ったわ。リアンは火傷をしないからいいかもしれないけれど、普通なら死んでいるのよ?」

 指折り数えるようにフェイはリアンの過去の所業を並べ立てる。リアンの表情は動かなかったが、その無表情さに不自然さが漂った。

 全くもってそのとおりすぎてぐうの音も出ない、とリアンは心中で苦笑しながら凍らせた手を見つめた。

 体表を凍らせて血止めするのがリアンの応急手当だ。しかし、あまり良い方法ではない。

 元々冷気を操るダートを持つためか、リアンは凍傷を起こしたりはしない。ついでにいえば、熱気を操ることもあるので火傷もしない。熱関係の耐性は強いのだが、それとこれとは別な話だ。きちんとした治療をしなければならないことに変わりはない。

 だが、凍傷も火傷もしないとは言えど、この方法は体に悪影響をもたらす。例えば、血流が悪くなる、とか。まあそれを生かして止血を行っているのだが、何度も多用すれば体によくないのは確かだ。

 特訓だ、稽古だと称して無茶をする節のあるリアンの傾向を把握してか、リアンが怪我をするとフェイはすぐ駆けつけてくれる。セフィロート一の大樹であり、生命を司る樹木の神の使徒である彼女は傷を癒す魔法に長けているのだ。

 フェイはリアンに歩み寄り、枝の手で傷ついたリアンの手を取る。リアンはフェイを気遣い、手に施した凍結を解くと、じわり、と血が滲み出した。凍結を解いたのがすぐであったため、実際のところ、血は止まりきっていなかったのだろう。

 それを見て、困った人、と一つ苦笑いすると、フェイはまじないの言の葉を唱えた。

「朽ちた葉は落ち、新たな芽吹きの助けとならん」

 鈴のように澄んだ声音が言の葉を紡ぐと、柔らかな橙の光がフェイの手からリアンの手へ注がれていく。常は冷気を纏ってばかりの手に心地よい温もりを感じ、リアンは肩の力を抜く。


「樹木を紡ぐ生命よ、この人に癒しを」


 フェイの唱えたこれこそが、セフィロートの魔法の基礎としてとてもわかりやすい詠唱だ。

 セフィロートの魔法は必ずこの詠唱が必要である。使用する属性のものに対し、呼び掛け、命令、もしくは懇願する、という形式。すると、その言の葉に応じて、属性のものが詠唱者の魔力を言の葉の通りに具現化させるのである。

 見れば、フェイが手を当てたところからみるみる傷が消えて、やがて最初からなかったかのように元のリアンの白い肌となる。

 昔からこのフェイの治癒が好きだ。フェイの想いが温もりとなって伝わってくるから。

 本来冷気を操る自分にその温もりを受ける資格などありはしないのだが、とリアンは少々自嘲気味に思う。人間の裏切り者でもあるし、ダートを持つ者であるくせに、その役目を放棄した自分なんて、構わなくてもいいのに、と。

 けれども、そんなことは関係ない、傷ついたままの貴方を見ているのは苦しい、といつも治してくれる彼女の気遣いが嬉しかった。

「ありがとう、フェイ」

「どういたしまして」

 リアンの感謝に花のような笑みで答えるが、すぐにその表情は翳った。

「どうしたの?」

 リアンがその表情変化を訝しく思い、訊ねる。すると、少し悩むように目を泳がせてから、躊躇いがちにフェイは本題を切り出した。

「実はね、困ったことが起こったから、リアンを呼びに来たの」

 彼女は来て、とリアンの手を引く。リアンは頷き、氷の刀身を消して柄を腰に戻した。

「主様が呼んでいるの」

 フェイは歩きながら説明する。

 彼女の主様とは、彼女の人間だった体と一体化した森の大樹にしてあまりセフィロートでは有名ではないが一柱の神だ。リアンは直接声を聞いたことはないが、大樹そのものにも意思があり、言葉を話すらしい。といっても大樹の声は一体化したフェイにしか聞こえないようで、いつもフェイを介してその言葉を聞く。

 フェイの先程の癒しも大樹の力だというから、その礼も言わなくては、と思い、歩いていると、自分の手を引くフェイが止まった。リアンも止まり、目の前の巨木を見上げた。

 フロンティエール大森林の木は大抵が人の胴ほどの幅を持ち、十メートルから三十メートルほどの高さなのだが、この木は格が違う。周辺の木々が二、三本は入るのではないかという大きなうろを持ち、雲の上まで突き抜けていて、高さは果て知れない。これこそがフェイの主である大樹である。

「主様は直接お話ししたいって。だから、うろに」

「わかった」

 リアンはうろに足を踏み入れる。フェイも一緒だが、うろに入った途端、彼女の体は力を失い、リアンに寄りかかってくる。

 リアンはそっと彼女を抱き止め、うろの上方を見た。

 その先にはフェイと全く同じ容姿の少女が手足を枝に絡まれた状態ではりつけられていた。


 倒れたリアンの腕の中のフェイと入れかわるように囚われたもう一人のフェイが目を開く。夜空色の瞳がリアンを見下ろした。

「来たか、氷の叡知を持つ者よ」

「お初にお目にかかります、アルブル様」

 フェイの声で放たれた、しかしながら厳かな一言に、リアンは膝を折り、頭を垂れる。

「ほぅ、我が名を知るか。そなたはなんという?」

「リアンです」

「良い名だ。固くならなくてもいい。それよりも森の守護者たるそなたに火急に頼みたいことがある」

「頼み、ですか」

 これにはリアンも目を丸めた。というのもフェイの姿で喋る大樹、アルブルはフロンティエール大森林においては最高神とされる生命を司る神にも近しい存在なのである。そんな人物が自分に頼みとは、というのはリアンでなくとも思うだろう。しかも、普段ならフェイを介せばいいだけなのに、わざわざ直接話さねばならないとは。

「ケテルは知っているな?」

「はい。ケセドの隣にある都市ですね」

 ケテルはセフィロートの中でもマルクトと対を成すほどの大都市である。それに引き換えリアンの故郷であるケセドはこじんまりとした田舎都市であるため、ケセドはケテルの一部と勘違いされているほどだ。

 そんな故郷に隣接する大都市をリアンが知らないわけもない。リアンは主にケセド付近の森の守護に当たっているが、時折リヴァルはケテル方面に現れたりもするため、ケテルの名を出されると、またリヴァルか、という懸念が高まる。

 しかし、樹木神アルブルが告げたのは意外な一言だった。

「その付近の森を荒らす者がある。そなたがいつも戦っている炎の叡知を持つ者ではないようだが、我々木の民は抵抗する術を持たぬ故、同胞の多くが命を落としている。ケセドの森よりもそちらに行ってはくれまいか?」

 するすると枝が伸びてきて、うろの内壁にかりかりと地図を描く。ケテルなら隣であるから、半刻ほどで行けるだろう。

 相手がどんな者かはわからない。アルブル曰く、風使いのようだ。リアンとしては炎の使い手よりやりにくい相手はいないと思っていたから、承諾した。

「なるべく早く戻ってきますし、氷壁を張って行きますが……もしリヴァルが来たら」

 懸念はそこだ。木の民——樹木に宿り、時折魔力を行使して顕現する魔物は先にアルブルが言ったとおり、攻撃の手段を持たない。自然の中に大きく組み込まれているため、魔力の質に破壊の要素がなく、フェイの行使した治癒魔法や、操れてもせいぜい身体強化などの補助魔法といった系統しか使えない。炎のダートを持つリヴァルが来れば、成す術もなく全て焼き払われてしまう。

「心配ないだ。リアンのいねぇ間はおらが守るだ」

 リアンの懸念に答えたのはアルブルではなかった。うろの外からの声。独特なイントネーションの一言一言と高くも低くも聞こえる不思議な声の持ち主をリアンはをよく知っていた。だから、普段の無表情しか知らぬ人物が見たら目を疑うほど、満面の笑みを浮かべ、うろの外に顔を出す。

 土の中からズズズ、と音を立てて、土塊の巨人が現れる。人間とは違うごつごつとした歪な体だが、顔の部分にある紅玉のような目は、自分の半分ほどの身の丈のリアンを優しく見つめた。

「ソル!」

「久しぶりだぁ、リアン」

 三メートルに及ぶ土塊の巨人、彼こそがフロンティエール大森林の守護者にして、現在は魔王ノワール四天王と称される土の民アミドソルである。

「リアン、ありがとだ。森、守るの頑張ってくれてただな」

 かくかくした大きな手でアミドソルはリアンの頭を撫でる。剛健さが伺える手だが、その手はリアンの頭を潰すことはなく、人間よりも優しく繊細に撫でた。

「ううん。それよりソル、魔王の方は大丈夫なの?」

 リアンは冷静に訊ねる。笑顔は既にいつもの無表情に戻っていた。

「ノワール様は心配ないだ。おらが故郷の森が心配だ言ったら、快く送り出してくだすっただ」

 言いながら、どすどすとうろの中に入ってくる。アミドソルもアルブルを見上げ、軽く挨拶した。

「うむ。アミドソルがいれば、百人力だよ。すぐ連絡も取れる。[土の友]の力があるからな」

 アルブルが言う。リアンも頷いた。

 土の友、とは土の民特有の能力で、先程アミドソルが出てきたように、土を介してならどこにでも瞬時に移動できるものなのだ。

 その上アミドソルは魔王ノワール四天王の名を冠する魔物。リアンに戦い方を教えてくれた師の一人でもあるから、リアンはその強さをよく知っていた。

 この森で暮らすようになってから、リアンに体術を教え、基礎体力を鍛えてくれたのは他でもないアミドソルだ。共に鍛練を重ねた日々はリヴァルと共にいた日々よりも目映く尊いものかもしれない。

 魔王軍においても、体術戦闘においてアミドソルの右に出る者はいないと言われている。セフィロート最強戦力の一角といっても過言ではないだろう。それに人が歴史を書物に刻むより遥か昔から、アミドソルはこの森を守り続けてきているという。

 アミドソルが傍にいると、温かい気持ちになるし、安心する。守ってあげなきゃいけない儚く華奢なフェイのことも安心して任せられる。

「確かに、ソルがいるならきっと大丈夫ですね。では、いってきます」

 リアンはフェイをアミドソルに託し、アルブルに一礼して、うろの外に出た。

 冷気を森中に広げ、氷壁を張りながら駆けていく。

 目指すはケテルとの境の森だ。


 リアンが森を駆け抜ける。

 常人より遥かに速い速度で疾走する彼はダートの冷気を纏いながら走っていた。

 ダートは人智を越えた力。魔法の存在するこの世界でも讃えられる異能だ。

 ダートというのは魔法と同じようにも見えるが違う。その決定的な相違点は、ダートの使い手は魔力を行使していないということである。リアンとリヴァルの戦いで見た通り、リアンもリヴァルも詠唱など一切せず、それぞれの力を行使していた。無詠唱で魔法を発動させることはできない。つまりダートは魔法ではないのだ。

 これがダートが叡知と呼ばれる所以である。しかし、ダートとて無敵の力ではない。魔法でも相反する属性であれば相殺できるし、何よりダートを持つ者は潜在的に保有する魔力が魔法を行使できないほどに少ない。ダートの使い手は魔法を使えないのだ。

 けれどいちいち詠唱しなければ発動しない魔法より圧倒的に使い勝手がいいのは確かだ。特筆して挙げられるのはリアンやリヴァルは冷気や炎を操るだけでなく、身体能力も底上げもダートで簡単にできてしまうことだろう。

 故にリアンはダートを発動しながら走り、普通なら徒歩で半日はかかる道程を半刻ほどで走り抜ける。

 目的地に近づくにつれ、リアンは森を害する者の存在を感じていた。

 身体強化のために発動させていた冷気が微かに揺らめいている。自然ではない風が、吹いていた。

 敵は風使いということだから、近いのかもしれない。

 そう思い至り、改めて気を引き締めると、不意に視界が拓けた。

 リアンは立ち止まり、言葉を失う。

 森だったはずのそこには繁っているはずの樹木が一切なかった。代わり、千々に切られた木の残骸がそこかしこに舞う。

 細切れの樹皮を友とし、そよぐ風がリアンの頬を優しく凪いだ。

 この現場を作り出した人物はすぐに見つかった。ふよふよと更地と化した中央に浮かんでいる、深緑色のローブについたフードを目深に被った人間。浮いているのは、さしずめ風魔法の効果といったところだろう。

「あら、お客さん?」

 落ち着きと、どこか気品のある女声がリアンを見て言った。

 部外者という意味でなら、お客さんは女の方だが。

 リアンは音もなく腰の柄に手をかけ、女を見上げた。その眼差しには温度がない。道端の石でも見るような興味も好奇も感じられない無。

「まあ! 挨拶もなしに物騒な。まあ、殺り合うのは嫌いじゃないけれど」

 女はそう言ってフードから唯一見える口元を緩ませる。リアンは柄に手をかけたまま、ゆっくりと女に歩み寄る。無表情だが、纏う冷気が濃くなり、白い靄状のそれが女にもまとわりつく。女はぞくりと一瞬身震いする。

「これをやったのは、貴女か?」

 リアンは無表情のまま、色のない声で問う。丁寧な言葉を選んではいるが、声は限りなく冷たい。鼓膜をも凍らせてしまうかのように。けれど答えぬことも許さないような強制力が感じられ、女はこくり、と一つ唾を飲むと、そうよ、とリアンに返した。

「なら——」

 リアンは柄を取り、自らの眼前に掲げる。刃のないそれに女は虚をつかれたように力を抜くのを見つつ、リアンは空いた手を刃のあるべき場所に添える。そこにないはずの鞘を握るように。

 すっ——

 白い冷気を纏った手から柄が離されていく。正確には、鞘たる手が刀身を晒すために抜かれていく。すると、先程まではなかった光を返す刃が現れた。そこに色はない。しかし柄のみだった剣は見る者を魅了する輝きを持つ太刀となった。

「挨拶はこれで充分だ」

 たっ、とリアンは女の手前で踏み切り、跳躍する。跳躍した勢いをそのままに躊躇いなく、その氷の刃で斬り上げた。

 女は咄嗟に動くこともできず、しかしはらり、と切り裂かれたのはフードのみ。その下から顔が露になる。薄く笑みを浮かべた唇、木々についた葉の色よりも濃い碧の瞳は二重で、絵画の女神像のように艶然とした微笑みを湛えている。黒い髪は肩口で結わえられ、それを脇に垂らしているのがまた妖艶。

「氷の剣を生み出す少年……なるほど、貴方がリヴァルの言っていたもう一人のダートの所持者ね。フードだけ切り払うなんて、予想以上に器用な子」

 ひとまずの目的を終え、地面に降り立つリアンに女が言う。リアンは興味なさげな表情で女を見上げた。表情の変化こそないものの、彼女がリヴァルの名を口にしたことには引っ掛かりを覚えていた。

 つまり、この女はリヴァルの仲間ということか。

 静かにそう断じた。

「素敵な挨拶ありがとう。では、あたしも」

 女はリアンを見つめ、言の葉を紡ぐ。

「風よ、来たれ。吹き荒れよ」

 風魔法の詠唱である。

 その言の葉にはっとしたリアンは咄嗟に冷気を操り、氷壁を作る。それは己の身を守るものではなく、木々がなくなり拓かれたこの空間を隔離するもの。

 直後、荒ぶる風がリアンを襲う。形のない風の刃がリアンの頬を、肩を、足を薙ぎ、傷つけていく。見えない刃を避けることは叶わず、見る間に小さな切り傷が増えていく。

 それでもリアンは表情を変えず太刀を構えるが、ダートでの血止めもできぬ現状に、たらりとこめかみを汗が流れる。

 焦っていた。何故なら吹き荒れる風に氷壁がぴしり、という音を立て、ひび割れ始めていたからだ。ダートの力を加減などしていない。人間を見捨ててまで森の守護者の道を選んだリアンが森を守るために全力を尽くさないわけがない。

 つまりは女の風魔法による鎌鼬が相当に強力ということである。基本的な能力値の高いダートと渡り合えるほどに。

 そう余裕はないと断じるや否や、リアンは地面を蹴る。空中に漂う女に肉迫、太刀を横薙ぎに振るう。

「きゃっ」

 太刀で峰打ち、しかし強かに脇腹を打たれた女は耐えられず地に落ちる。

 それでも鎌鼬は止まない。氷壁が限界に近いことを悟り、リアンは起き上がりかけた女の首に氷の切っ先を突き付ける。

「術を解け、風の魔女」

 地を這うような声で命じると、ふっ、と風が止む。

 けれど、何かがリアンの中で警鐘を鳴らした。

「あたしを……」

 女が碧の瞳でリアンを睨む。

「あたしを、魔女と呼ぶなぁっ!!」

 女の叫びと共に、先程とは比べ物にならない風刃が吹き荒れた。


 バキィッ

 先程より威力を増した鎌鼬に氷壁が割れ、その欠片がばらばらと崩れる。

「風よ、氷と共に吹き荒べ!」

 女が言の葉——魔法を発動させる詠唱を唱えるのを聞き、リアンは急ぎ、滅多に使わない熱気のダートで氷を溶かそうとする。だが、その前に氷片がリアンの脳天めがけて飛んでくる。

 リアンは回避が間に合わないと断じ、氷の太刀を打ち付け、破砕した。氷片は粉々に砕け散ったものの、太刀にもぴきりとひびが走る。素早くひびに手を添え、冷気で修繕、だがその間に細かく鋭い氷片を孕んだ鎌鼬がリアンに襲いかかる。

「くっ」

 リアンは太刀を一払いし、氷片に熱気を当てることで難を逃れる。その代わり、氷の刀身が溶け、鋭かった刃は丸みを帯び、水を滴らせるなまくら刀へと変わる。

 冷気を扱うダートでありながらも熱気をも操ることのできるリアンのダートの欠点だ。対極にある力のため、併用がままならない。

 纏っていた熱気を収め、再び白い冷気を纏いつつ、リアンは女の方を見た。

 女の碧眼には底知れぬ怒りの炎が宿っている。おそらく、リアンの言った[魔女]という呼び名が盛大な地雷となったのだろう。

 ふと、知識を巡らせ、思い当たってリアンは問う。

「貴女はもしかして、ケテル出身?」

「そうよ!!」

 その返答にリアンはちら、と考える。そういえば、ケテルには[魔女]という存在を[悪女]として捉え、蔑視する風習があると聞いたことがある。自分の言った[魔女]は単に[女の魔法使い]という意味だが、彼女がケテル出身なのなら、それで琴線に触れてしまったにちがいない。

 魔術師としての能力、魔力が共に高いこの女性。詠唱が短く、それでも莫大で的確な威力の魔法を放てるのは魔力が高い証だ。人間も魔法を使えるが、人間が保有できる魔力量は魔物が保有できる量と比べたら微々たるものでしかない。魔力とは闇の女神が司るものであるため、生命の神が生み出すものとの相性が悪いのだ。それでも稀に魔力を多く持つ人間が生まれる。運悪くケテルに女として生まれた彼女が[魔女]と謗られる姿は容易に想像できた。

「呼び名がまずかったなら、謝る。ごめん」

 無表情ではあるものの、リアンは誠心誠意の謝罪を述べる。

「貴女の名前を教えてほしい」

 次いで放たれたリアンの言葉に女はきょとんとする。それに伴い、鎌鼬が止む。

「名前を知って、どうする気? あたしはリヴァルの仲間よ? 貴方の敵なんだけど」

「別にどうも。ただ、魔女以外の呼び方を教えてほしい。森を傷つけてほしくもないし」

 女の問いに淡々としながらも正直に答える。

 女はそれを鼻で笑った。

「ふん。本当に礼儀を知らない子ね。他人に名を訊ねるなら、まずは自分が」

 ひゅっ

 まずは自分が名乗るべき、と言いかけた女の台詞を鋭く戻った氷の切っ先が止める。ひんやりとした冷たい刃は女の喉笛に突き付けられていた。

 女は顔をひきつらせ、冷たいリアンの無表情を見つめながら、両手を上げて降参の意を示す。

「わかったわ。名乗ってあげる。あたしは風の賢者リュゼ。これでもセフィロートでは五本の指に入る魔法使いなんだけど、完敗だわ」

 素直に敗北を認めるリュゼだが、その口端は吊り上がり、余裕の笑みを浮かべている。

 そんなリュゼの様子にリアンは不穏なものを感じた。

 次の瞬間、

 ドゴォォンッ!!

 遠くの方からそんな轟音が聞こえてきた。嫌な予感を拭えぬまま、リアンはそちらを見やる。音源は、ケセド方面。

 まさかこちらは囮——!?

 勘違いであってほしい。

 リアンは祈り、振り向くが、その思いは届かない。

 振り向いた先、ケセド方面の森からもくもくと黒い煙が上がっていた。


 ソル!!

 それを見てリアンが真っ先に思い浮かべたのは、自分の代わりにそこを守る友のことだった。

 いてもたってもいられず、ダートを身体能力の強化に回し、駆け出そうとする。

 しかし、

「風よ、行きなさい」

 女の声がそれを妨げる。その涼やかな詠唱に応じ、リアンの頬を鎌鼬が凪いだ。

 つぅ、とリアンの片頬に赤い筋ができる。

「貴方は逃がしてあげない」

 向き直れば、リュゼが妖艶な微笑みを湛えてリアンを見つめていた。

「リヴァルのための足止めってのもあるけど、あたし、貴方を気に入っちゃった。あたし、素直で一途な強い男の子、大好きなの。だから、遊んでちょうだい」

 ね? とリュゼは小首を傾げ、小さく風よ、と言の葉を紡ぐ。なぁに、リュゼ、とでも寄り添うように、リュゼの周囲に風が募り、その指が示した先へと凶刃となって走り抜けた。

 鎌鼬が再び、リアンを襲った。



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