歯科衛生士として働いて八年。結婚して三年。家を建てて半月。
私は、三十歳でうつ病になった。
事の起こりは、うつ病発症の三年前。
小さな歯科診療所で、同期のDちゃんと二人、正社員二人三脚で頑張ってきた。五年の間に二回の産休を取ったDちゃん。私主体となって現場を指揮し、ヘルプの歯科衛生士さんやパートの助手さんのおかげて、なんとか産休を乗り越えた。
――Dちゃんが戻ってくれれば、この忙しさも緩和されるはず!
そう思っていたのだが、いつの間にか、Dちゃんが午前中四時間のみ(残業なし)のパート勤務になった。
「嘘……じゃろ? 私になんの相談もせずに……」
「なんでアナちゃんに相談せんといけんの?」
「だって! うちらバディだよ!? 正社員の歯科衛生士、うちらしかおらんのんよ!? 私一人になってしもうたら、この病院と契約したことの契約違反じゃん! 私は『正社員二人』って書かれてたから面接を受けたのにっ」
「それって、うち、関係ある? じゃ、おつかれさまっした〜〜」
こうして私が勤める歯科医院の正社員は、私ひとりになってしまった。これで終わればまだマシだったのかもしれない。
しかし、午後のみのパート勤務の歯科衛生士が見つからず(当たり前だ、ばーか)、受付兼歯科助手として、ど素人であるEさん――院長先生の奥さんがしゃしゃり出てくるようになって、私の体調は急激に悪化していった。
何度教えても仕事を覚えない、私を頼りっぱなしの院長先生の妻――Eさん。口を開けば「お金お金。値上げ値上げ」「アナマチアさ〜ん、ちょっといい?」「アナマチアさ〜ん」ばかり。……ノイローゼになるわ! いや、うつ病は発症しちゃったけど。
かーなーりーのー時間をかければ、なんとか仕事を覚えてくれる素人歯科助手(パート)――Fさん。「無理です」「出来ません」「すいません、ちょっといいですか?」が口癖。何度がガチで衝突して、私はこの歯科医院を辞めてやろうと思った。
パートになってから、受付の椅子に座ったままになってしまった、名前だけの歯科衛生士(パート)――Dちゃん。出産を繰り返すたびに、どんどん太っていく。そのお腹の中にはなにが詰まっているんですか? 臨月?
自分の仕事が終わったら、さっさと院長室に戻って、ネットとテレビを見まくります! ――医院長。父親から譲り受けた歯科医院の経営について興味がない。菓子ばっか食べているくせに、器具の一つも新調してくれない。これ、錆びてるんですけど?
私は、うつ病だと診断されるまで、この三人に振り回されながら仕事をした。一日休みは日・祝のみ。木・土曜日の午後二時から半休。Dちゃんが受付ばかりするので、私は四時間半以上(午前・午後で八時間以上)立ちっぱなし、座りっぱなし、動きっぱなし、頭フル回転しっぱなしだった。
帰りの車の中で、悪態をつきつつ帰路につく。そんな生活を続けて二年弱。原因不明のめまい、吐き気、嘔吐、過食、拒食、手の震え、不眠(入眠障害・中途覚醒)、イライラ(四六時中、人が変わったみたいに)。これらの症状に耐えかねた私は、退職を願い出た。
――少しの間、ゆっくり休んで、他の歯科でがんばろう。
そう思っていたのに。
「Dさんが三人目の子を妊娠するから辞めれないよ」
「――は?」
寝耳に水の私は、奥さんのEさんから話を聞いたあと、急いでDちゃんに連絡した。すると、
「あはは! 避妊失敗して出来ちゃった!」
ときたもんだ。……このクソアマが……! と言いたかった。何故ならこのやり取りは三回目だったからだ。私が体調不良で退職を願い出たら妊娠が発覚する。いつものパターン。なにこれ呪い? しかも三人目の出産を終えたら、今よりももっと出勤時間を減らすという。……ということは、だ。私は今よりももっとEさんとFさんに振り回されるってわけで。
「あー、私の人生、詰んだわ」
私はストレスから高熱を出して、仕事を一日休んだ。二年ぶりに仕事を休んだ私は、天井を眺めながら思った。
――でも、私がおらんと、あの歯科は回らないもんなぁ。
盛大な勘違いである。人間、真面目に仕事をしすぎると、心身を壊してでも働こうとしてしまうものだが、自分がいなくなったとしても変わらず回り続けるのが社会というものである。
私は順調に壊れていき、ある日突然、床にへばりつきそうになる不思議なめまいに襲われる。しかもそれは、起きている間中発現し、仕事や日常生活に多大なる影響を与えた。病院に行っても病名はつかず、『肩こりのせい』と言われて終わった。そんなバカな。
それでも働きつづけて一ヶ月後。とうとう私は、ベッドから起き上がることができなくなった。それでも仕事に行こうとした私を主人が止めた。そして、メンタルクリニックに連れて行ってくれたのだ。ついた病名は『うつ病』。私はショックで何も言えなかった。
医師からは、一ヶ月の休職を取るようにと診断書な出された。私と主人はそれを受け取って帰り、歯科医院に電話した。上手く喋れなくなっていたので、スマホをスピーカーにして、主人に支えられながら通話した。すると、
「その診断書つかうなら辞めてもらうことになるけどいい?」
と、奥さんに言われてしまう。私は辞めるつもりはなく、ただ少し休みたかっただけ。
しかし、私の口は「はい、辞めます」と答えていた。……よっぽど辞めたかったんだろうな、と思う。そして、その答えに対して奥さんが放った言葉に、私と主人は呆気にとられる。
「わかった。じゃあ、今は六月二日じゃろう? 繰り上げて、五月三十一日に辞めたことにしといててええかな?」
「――は?」
それって、労働基準法違反になるのでは? そこの部分だけ冷静に返した私。奥さんは焦って、また電話すると言って通話を切った。
通話が終わったあと、私は呆然とした。
辞めたいと言っても辞めさせてもらえず、心身共にボロボロになるまで働いて八年。
「はっ、はは……! 私……クビ、宣告されちゃった……」
涙を流しながら気を失った私は、急激にうつ病を悪化させ、この後しばらくの記憶を失ってしまう。ただ、毎日のように「死にたい」「なんで生きてるんだろう?」と思っていた。
何度か死のうと試みていた時、親戚のGちゃんがガンで亡くなったと連絡を受けた。享年三十歳。私と同い年だった。
彼女は小児がんを患い、長い間闘病生活を送っていた。自信の頑張りのおかげで、ガンに打ち勝ったのだ。それなのに、十年以上経って再発。一ヶ月前にガンが見つかり、一ヶ月後に亡くなったGちゃん。心機一転。新しい仕事を始めて、希望に満ち溢れていた最中の出来事だった。
――死にたいのは私なのに、神様はなんでGちゃんを連れて行ったん?
私は号泣する父方の祖母に抱きしめられて泣いた。
「アナちゃん! Gちゃんの分まで生きてあげてぇな。ただ、生きていてくれるだけでええけえ! なぁ? ばあちゃんと約束してなぁ?」
「……うん。わかった……」
ありがとう。ありがとう。と言われながら、頭の仲ではどうやって死のうか考えていた。
本来、生まれてくるはずではなかった私。
死んでくれ、とお金を積まれた私。
あんたがおらんかったら、と言われ続けた私。
めんどくさいガキだと言われた私。
姉ちゃんはみんなに嫌われとるんじゃけえ! と言われた私。
命以外、取り柄も何も持っていない私。
それでも一日が終わり、また朝がやってくる。そしてわたしは思うのだ。
――何故か今日も生きている、と。