「君がカレンさん?」
模擬試験の帰り道で、カレンは突然声をかけられた。
振り返ると黒髪にグレースピネルの瞳をした青年が、穏やかな笑みを浮かべて佇んでいる。
透明度の高いグレーの瞳からしても、闇魔法の使い手だということは明白だ。であれば、たった今まで気配を感じなかったが、闇魔法の影移動を使用したのかもしれない。
濃紫のローブをまとっていることから賢者であることは間違いなく、そうなると考えられるのはまだ会ったことがない闇の賢者だろうか。
「はい、そうです。貴方は……」
「あ、自分は闇の賢者をやってるロニー・ケンブルです。ずっと遺跡の調査に行ってたから、なかなか会えなかったけど」
一瞬だけグレースピネルの瞳がミカエルと重なって見えて、カレンは石のように固まってしまった。握手を求められて差し出された手に反応できず、ロニーは困ったように眉尻を下げる。
カレンはすぐに我に返って、笑顔で握手を交わした。
「やっぱり闇の賢者様だったのですね! 調査は大変でしたでしょう?」
(試験で思いっ切り魔法を放ったせいか、神経が高ぶっているのかしら。見た目もなにもかも違うのに、あんな男を重ねて見てしまってロニー様に申し訳ないわ)
心の中でロニーに謝罪しつつ、カレンは差し障りのない会話を続ける。聖教会にカレンが侵入して脱出した時も、ロニーは調査のため戻ってこられなかった。
それほど遺跡の調査が大変なものなのだと、当時からカレンは思っている。
「それが、瓦礫の山しか残っていなかったから引き上げてきたんだ。それより……ファウストと結婚したって、本当?」
こちらを窺うように質問を投げかけたロニーは、ファウストを心配しているのだろう。そう思ったカレンは、周知の事実となっている契約結婚のことを伝えようとロニーを見上げた。
視線が合ったカレンは、ロニーの底知れぬ闇が渦巻く瞳に思わず半歩距離を取る。
もしかしたら心配しているのではなく、ただの魔導士でしかないカレンがファウストの妻になったことが気に入らないのかもしれない。
カレンは誤解が生じないように、詳しく説明することにした。
「本当です。契約結婚ですけど」
「契約結婚?」
「私が望まない結婚をしなくてもいいようにと、ファウストの庇護下に置いてくれたのです」
「あ、なんだ。そういうことか」
事実を知ったロニーはホッとした様子で微笑み、カレンに寄り添うように距離を縮める。
(優秀なファウストが私と結婚したことが気に入らなかったのね……。それにしてもロニー様、ちょっと近づきすぎじゃない?)
できることなら賢者と対立するようなことは避けたい。最初のうちにちゃんと誤解が解けてよかったが、カレンはロニーの距離感に困惑した。
「ええ。ですから、いずれ結婚は解消すると思います」
「ふうん、そうなんだ」
急に機嫌がよくなったロニーが話を続けようと口を開いたところで、嗅ぎ慣れた柑橘系の香りがカレンの鼻先を掠める。
次の瞬間には濃紫のローブが揺れて、太陽みたいな金色の瞳と視線が絡んだ。
「ただいま、カレン」
しばらく顔を合わせることがなかったファウストが、カレンの目の前に立っている。
まったく予想すらしていなかった夫の登場に、カレンは喜びがあふれ花が咲くように笑顔になり駆け寄った。
「ファウスト! おかえりなさい。今日は早いのね」
「うん。調子がよかったから」
なんでもない会話ができるのが心から嬉しい。そこでカレンはハタッと気が付いた。
(そういえばファウストへの愛を自覚してから顔を合わせるのは、初めてじゃない……!?)
「あー、うん。……なんでもないわ」
「…………?」
ファウストは不思議そうな顔でカレンを見つめている。
改めて夫への愛を自覚したら、頭の中が花畑になったようにぽわぽわして、なにを話したらいいかわからなくなってしまった。
(せっかく久しぶりに会えたのに、肝心なことろで頭が働かないなんて……!)
カレンがポンコツな自分を恨めしく思う隣で、ファウストがロニーへ声をかけた。
「ロニー、戻ってきたのか。調査はどうだった?」
「ああ、それなんだけど、結局なんでもなかったよ」
淡々と語るロニーにファウストは少しだけ違和感を感じる。出発前は『今度こそ当たりかもしれない』と熱意があふれていたが、期待はずれで気持ちが冷めてしまったのだろうか。
「きっと魔神デーヴァの遺跡だって張り切っていたのに残念だったね」
「ま、そんなこともあるさ。じゃあ、またな」
これ以上、その話はしたくないと言わんばかりに切り上げたロニーは、カレンとファウストに別れを告げて商業区画の方へ向かった。
ロニーが去って、カレンとファウストはふたりの部屋へ歩き出す。
こんな風にのんびりと過ごすのは本当に久しぶりで、模擬試験の疲れを感じないほどカレンの足取りは軽い。
ようやくファウストとの会話の糸口を掴んだカレンは、早速口を開く。
「魔神デーヴァの遺跡調査だったのね。あの伝承はおとぎ話なのかと思っていたわ」
「うん、今回は当たりだって喜んでいたんだけど……」
だが、ファウストの表情が曇り、なにかを考え込んでいる様子だ。
「どうかしたの?」
「いや、気のせいだと思う」
含みを持った言い方が気になって訊ねたが、ファウストはパッと表情を変えて、カレンをいつもの優しい眼差しで見つめる。
たったそれだけで、愛する夫に見つめられただけで、カレンの心臓はドキドキと音を立てはじめた。
(ファウストっていつもこんな風に私を見てくれていた!? なんだか、とんでもなく視線が甘い気がするんだけど……!?)
ようやくファウストの深すぎる愛情を正面から受け止めたカレンは、今まで気付かなかった現実に翻弄される。
このままではポーッとして真っ直ぐ歩くことすらできなくなりそうだ。カレンは気持ちを落ち着かせようと、まったく違う話題を切り出した。
「……あ、あの、今夜はなにが食べたい?」
「チーズ入りハンバーグ」
ほぼ即答で返ってきた答えに、カレンは思わず笑いがこぼれる。
「ふふ、リクエストはいつもそれね」
「僕のベストスリーに入る好物だから」
そんな他愛もない会話を以前もしていたのに、今は宝物みたいに大切な時間に思えた。
カレンにとってファウストと過ごす時間は特別で、絶対に手放したくない。
だからこそ必ず賢者になって、自分の気持ちを伝えて、あの日のプロポーズに応えるのだと決意を固める。
しかし、その前にひとつの疑問が浮かんだ。
(ファウストと会えただけで私はこんなにウキウキするけれど……世の中の夫婦はどのように過ごしているのかしら?)
まともな恋愛をしてこなかったカレンは、浮き立つ心をコントロールする術はない。
(でも、ゆっくりと慣れていけばいいか。ちゃんと夫婦になったら、他の人にも相談してみよう)
この時のカレンはそう思っていた。
それからもこの平和な時が続く保証なんて、どこにもないというのに。