翌日、カレンは教皇の執務室へ赴き、キッパリと告げる。
「本日をもって聖女を辞職いたします」
教皇は執務机でペンを持ったままポカンとした表情を浮かべていた。
いつもはひとつにまとめた青い髪を肩から下ろし、堂々とした立ち居振る舞いをしている。鋭いグレーの瞳は畏怖の念を抱かせるほど隙がない。
これほど気の抜けた教皇の表情を見たのは初めてで、カレンの退職宣言がよほど想定外だったようだ。
だが、教皇もサイラスの関係者だから遠慮する必要はない。
「カレン。笑えない冗談はおやめなさい」
「冗談ではありません。もう嫌になってしまったのです」
ハッと我に返った教皇は、カレンの発言を冗談にしたいようだ。
でも絶対に引き下がるわけにはいかない。裏切りに満ちた未来だけは歩みたくないのだ。
「今まで貴女は懸命に役目を果たしてきたではありませんか。いったいなにがあったというのですか?」
「魅力的なお話をいただいたので、そちらに行くことにしました」
「それは……あまりにも無責任では?」
教皇は眉を寄せ、目元をピクピクと震わせた。
不遜な態度を取り続けるカレンに苛立ったのか、聖女を横取りされて苛立ったのか、もしくはその両方かもしれない。
「そうですか? 悪い噂だらけの私なんて不要ではありませんか。それに、私ひとりに結界の維持をさせる聖教会もどうかと思いますけど」
教皇の鋭い視線が復活し、カレンの背中に冷や汗が流れる。ぞくりとした感覚が身体中を
「噂については後ほど確認いたします。労働条件も相談しましょう。なによりもカレンには聖女として役目を果たす責務があるはずです」
教皇はわずかに焦りをにじませてカレンを引き止める。王都の結界をひとりで支えているカレンがいなくなるのは痛手だろうから、この反応は想定内だ。
(教皇様は噂を知らない……? まあ、どちらにしても私をこき使っていたことは間違いないけど)
それに教皇が相手では単なるわがままだけで聖女を辞めることはできない。そのためカレンは、もうひとつ手を打っておいた。
「教皇様、私はこちらの手紙を七賢者ファウスト・エヴァリット様よりいただきましたの」
カレンは傲慢な手つきで教皇に手紙を差し出す。
それは七賢者のひとり、ファウストからのものだった。
「これは……!」
「ご覧の通り、魔法研究所の研究員への推薦状です。いくら教皇様でも、賢者様の手紙を無視することはできませんわね?」
カレンは悪女らしくニヤリと笑う。
引き止められることを見越して朝一番で手紙を送ってもらうよう、昨夜のうちにファウストに頼んでおいた。
賢者は特別な存在で国王でも従わせることができない。そのため国王の下に位置する教皇が反対しても黙らせることができるのだ。
使える権力は最大限に利用するのが悪女らしい、とカレンはご満悦である。
「……賢者様からの推薦では、教皇の私が止めることはできませんね」
「ええ、そういうことですの。それでは、失礼いたします」
「カレン……」
訴えかけるような灰色の瞳がカレンを見つめる。
その眼差しを冷たく振り払い、カレンは最後に優雅なカーテシーをして執務室を後にした。
私室へ戻り荷物をまとめていると、扉をノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
そっと扉を開いて顔を覗かせたのはケイティだ。今にも涙がこぼれなそうほど瞳が潤んでいる。
「カレン、今いいかな?」
「もちろんよ。それとケイティ、この前は本当にありがとう。おかげですっかり元気になったわ」
「ううん。それより……聖女を辞めるって本当?」
ケイティの悲しそうな表情に胸が締め付けられた。
カレンは手を止めて俯いて立つ親友を抱き寄せる。細い方が震えていて、感情を必死に抑えているのが伝わってきた。
「ごめんね。賢者様の推薦状をいただいて、魔法研究所に行くことになったの」
「そっか、カレンは優秀だから認められたんだ。それはすごく嬉しいけど、やっぱり寂しいな……」
「寂しいのは私も同じよ。でも、これからは街で一緒にお茶をしたり、買い物をしたりできるわ」
ケイティはこれまでずっと支えてくれた親友だから、カレンだって寂しくてたまらない。でもこのままここにいては死ぬ未来しかないのだ。
「そうね、カレンは自由になるものね……ごめんね、貴女が幸せになるんだから笑顔で送り出さないとね」
「ケイティはこれからも私の親友よ」
「うん、わたしにとってもカレンはずっと親友だから」
それから、ずっと気になっていたことがあった。
ケイティは巻き戻る前、魔力が枯渇して追われるように聖教会を去った。そのため原因を聞くこともできず、当時のカレンはどうにもできなかったのだ。
今度こそケイティの力になりたい。
「それと、なにかあったらいつでも私に相談してね。必ず力になるから」
「ありがとう。カレンも魔法研究所で頑張って」
こうしてカレンは聖教会を後にした。
聖教会を出ると馬車が待っていて、カレンはサッとそれに乗り込む。ひとりで大丈夫だと言ったのにファウストが心配して用意してくれたものだ。
保護魔法がかけられている馬車はスムーズに目的地へ到着し、魔法研究所に足を踏み入れると大勢の魔法使いや魔導士がいた。
それぞれ真剣な眼差しでなにかに取り組んでいるのを横目に、昨夜来た最上階の魔道具研究室の扉を開く。
「本日よりお世話になります。カレン・オルティスと申します。よろしくお願いいたします」
「ようこそ、カレン」
部屋の中を見渡しても他の研究員はひとりもいない。ここに来るまでに何十人と見かけたのに。
「……というか、この研究室はファウストだけなの?」
「そうだよ。僕が担当する開発部門だから」
「建物の中には他にも研究員がいたけど……」
「ああ、彼らは量産化の研究部員なんだ。あとは魔法陣の研究や、新魔法の研究員もいるけど、魔道具の開発部門は僕とカレンだけだよ」
魔道具の開発といえば、通常はチームを組んで取り掛かるものだ。それがなぜふたりきりなのか。優しいファウストの性格からして、カレンのために今までいたチームメンバーを外したとは考えにくい。
「もしかして、今までひとりで魔道具の開発をしてきたの?」
「うん、学生の時にカレンと一緒に魔道具開発したのが楽しかったから……僕が担当になった二年前からひとりでやってる」
予想外の答えにカレンは返す言葉が見つからない。
(え、学生だったからふたりで取り組んでいたけど、楽しかったからってファウストひとりで魔道具の開発をできるものなの……?)
たしか昨年発表されたのは音声通話ができる魔道具で、開発者はファウストだった。彼の活躍を耳にして嬉しかったのを覚えているし、それが民の暮らしに浸透して今ではなくてはならない魔道具になっている。
「あ、そうだ。魔法研究所の結界もレベルを引き上げたから安心してね」
「はあ!? それって国家レベルの結界じゃない!?」
「いや、敷地を覆うように世界最高の結界を張ったから、僕の許可なしに虫一匹も入れない。国家レベルじゃとても安心できないよ」
ファウストがここまで心配性だとは思わなかった。しかも魔法研究所は広大な敷地に建てられ、多くの研究施設がある。それらも含めてとなると、どれだけの魔力が必要だったのだろうか。
「そう……ファウストは優秀だものね」
「カレンにそう言われるのが一番嬉しい」
それはそれは嬉しそうな笑顔のファウストに、ケモ耳とブンブンと振っている尻尾が見えた気がした。
(犬……私に懐く大きな犬がここにいるわ)
こうしてカレンの新たな生活がスタートしたのだった。