心臓がバクバクして、息ができない。
頭から冷や水をかけられたようで、サーッと体温が下がっていくのがわかった。指先は震え、ノックをしようとした形のままピクリとも動かすことができない。
「ははっ、この姿を見たら聖女とは思えないな」
「それはっ……ん、サイラス様が……!」
「俺のせいか? メラニアは最初からこうだったろう?」
「それは言わないで……! でも、本当に不安で安心できないの」
真っ白になった頭の中に浮かぶのは疑問だけだ。ふたりが話す内容を事実とは思えなくて、心が拒否している。淫らな息遣いも、聞こえてくるリップ音も、頭に入ってこない。
「前にも言っただろう。魔力を奪うためにカレンと婚約したと。魔法契約を結ばなければ、俺の魔力にできないのだ。教皇も協力する
「では、約束通りわたくしを王太子妃にしてくださいますか?」
カレンは『魔法契約』という言葉にハッとした。
すべてを捧げると確かに誓って書類にサインした。カレンはあれが結婚宣誓書だと思っていたが、そんな文言は書かれていただろうか?
サインをして青白く光る書類は、他にもある。
(あれは魔法宣誓書だったの――!?)
魔法宣誓書とは、互いが約束を守るように魔法が施された契約書だ。内容によっては約束を反故にすると命を失うこともある。それほど強制力の高いもので、滅多なことでは使われない。
だが、カレンはすべてを捧げると誓い書類にサインをした。
生命活動を維持する分の魔力すら失ったら、心臓が止まり死んでしまう。
つまり、魔力も命もなにもかもサイラスへ捧げると言ったも同然だった。
(そんな……!)
「ああ、俺を信じろ。カレンの魔力さえあれば、俺は世界の覇者になれる……! あいつは
「ふふふ、悪女の噂が真実だと周知させるために、聖教会に閉じ込めいるのも気が付いてないのです。結界の維持をひとりでやれなんて無茶も黙って聞いていますわ」
「本当に愚かな女だな」
「ああっ! サイラス様……!」
もう限界だった。
漏れ出す嬌声を聞き続けるのも、残酷な真実を聞かされるのも。
どんなにつらくても、求められていると、大切にされていると思っていたから、カレンは歯を食いしばって頑張ってきた。
それが、最初から全部嘘だったのだ。
サイラスの笑顔も、優しい言葉も、なにもかも嘘だった。
必要だったのはカレンの膨大な魔力だけ。
あの時、助けを求めた教皇もサイラスの味方だった。
そっと扉の前から離れて、王城の人気のない廊下に戻る。
「全部……偽り……」
「ようやく真実を知ったか」
ポツリと
カレンは虚ろな瞳で声の主へ振り返る。
漆黒の艶髪はふわりと揺れていた。金の装飾が施された紫のローブを羽織り、誰もいなかったはずの廊下に長身の男が
端正な顔立ちを引き立たせているのは意志の強い瞳だ。真っ直ぐに向けられた金色の瞳があまりにも
「ファウスト・エヴァリット……?」
カレンの脳裏に学生時代の懐かしい記憶が
ファウスト・エヴァリットは公爵家の三男で、十歳から通う貴族学園の同級生だった。
魔法が大好きだったカレンは入学して半年後にファウストに弟子入りした。図書室で一緒に勉強するようになり、数ヶ月経った頃にこんな会話を交わす。
『ファウストでいい』
『え? ですが、いくら友人でも公爵家の方を呼び捨てにできません』
『カレンは僕の親友だ。敬語もなし。無理なら今後は魔法を教えない』
『そんな……! はあ。わかったわ、ファウスト。今日から私と貴方は大親友よ』
『うん。ありがとう、カレン』
ふにゃっと笑ったファウストは顔立ちのよさも手伝って、天使のようにかわいかった。そもそもこの学園で一番仲良くしているのはファウストなので、カレンはとっくに親友のつもりでいたのだ。
(ふふふ、ファウストって変なところで真面目なのよね。魔法の天才なのに面白い)
それからも放課後は図書室の自習コーナーで毎日ファウストと過ごした。明けても暮れても魔法の話ばかりで、そんな時間がカレンは楽しくてたまらない。
『ねえ、カレンは魔法の話ばかりでつまらなくない?』
『どうして? たくさん魔法の話ができて楽しいじゃない』
『いや……他のクラスメイトたちは、僕が陰湿な魔法オタクだって言って近寄ってこないから……カレンはそんな僕といて嫌じゃないのかと……』
『あのね、この学園でファウストみたいに魔法のことを語れる人はいないわ。ファウストだったら賢者にだってなれると思うの。そんな同級生と仲良くなれて私は最高にラッキーよ!』
カレンは
たしかにファウストはおとなしくて目立つタイプではないけれど、魔法の知識は誰よりも豊富で、公爵領で密かに魔物を討伐するほど実力もある。
そんな実力者と同級生というだけで仲良くなれたのだから、カレンにとっては人生最大の幸運と言っても過言ではない。
『そう、か……僕は賢者になれるかな?』
『なれるわよ! 絶対にファウストは賢者になるわ。私も魔法使いくらいになれたらいいけど……』
『カレンなら問題なく魔導士までなれるよ。僕が保証する』
『え! 魔導士って魔法使いの上級職よ!? な、なれるかな……?』
魔力は誰もが持つものだが、それを自由自在に操るのは特定の人間だけだ。
初級魔法を操れるのが魔法使い、さらに中級や上級を操れるのが魔導士、そして、魔法を極め大自然さえも操るのが至高の存在とも呼ばれる賢者となる。
『僕が全部教えるから、自信を持って』
『そっか……ファウストがそう言うなら大丈夫な気がする! ありがとう!』
なんの苦悩も知らない、楽しい学園時代の思い出に胸が痛くなる。
貴族としての基礎を学ぶ学園で、卒業までの五年間を共に過ごした。あまり社交的ではないが天賦の魔法の才があり、卒業後わずか一年で世界に七人しかいない賢者になったと聞いている。
金色の瞳はすべての魔法属性を操れるから、ファウストは転移魔法でここにやってきたのか。
(でも、どうしてファウストがここに……?)
賢者はこの世界で国王と同等の特別な存在だ。
魔法を極め、天候すらも操る彼らの能力は、一夜あれば小国を滅ぼすことができるという。しかし欲がなく変わり者が多いせいか、通常は空に浮かぶ魔導士たちの居城、魔天城で過ごし魔法の研究を重ねているのだ。
カレンとファウストは貴族学園の同級生で、大親友だった。本来なら懐かしさに話が弾むところだろうが、今のカレンはとてもそんな気分にはなれない。
「久しぶりの再会だけど……ごめんなさい、今は誰とも話したくないの。私のことは放っておいてくれる?」
ズタズタに引き裂かれた心を押し隠して、カレンはなんとか絞り出す。冷たい態度を取れば、ファウストは引き下がってくれるだろうか。
カレンは再び足を進めた。これ以上こんな情けない姿を親友に見せたくない。
「カレンは変えたい?」
「……え?」
「この非情な世界を変えたいとは思わない?」
ファウストの言葉に、カレンは足を止める。
(非情な現実を変える……? 待って、さっきの言い方もそうだけど、まさか――)
「――知っているの?」
私が婚約者に都合のいいように利用されていることも、裏ではずっと裏切られてきたことも。聖女として不当な扱いを受けていたことも。教皇すらも敵だったことも。
視線を合わせるのが怖くて恥ずかしくて、
ほんの少し間をあけてファウストが答える。
「……知ってる。カレンが望むなら、この世界すらも壊すよ」