夕は呆気に取られた。一・二年生の生態を知っていたって、これは推理できない。
『ベンヤミン先生には、忘れられない思い出はありますか?』
オエノセラの行動はすべて、この無謀な企みのためだったのか――。
「それで、あんな、怖くて痛い思いを……」
ディモルフォセカが手を震わせる。たとえ生まれ変われても、彼が攫われた際に他の生徒たちが嘆いていたとおり、虫に食われるのは痛いはずだ。
園芸学生としても控えてほしい。でも口にはできない。オエノセラが切実に、数いる春学期生の中のたったひとりを見つめていたから。
「君がぼくに何をしてくれたかわからないほうが、辛くてさみしいよ」
他の上級生――多年生と違い、オエノセラも二年ごとに忘れてしまう。それが当たり前でも、どんなに特別か――日誌にも詳細のない「最初の約束」を思い出せないのは、確かにさみしい。
夕は今や、彼らの感情を自然に受け止めていた。
「前の僕は……先輩の白を見て、それで……、う、うらやましい」
ディモルフォセカが何とか前生の記憶を掘り起こそうとして、自分に妬くようなことを口走る。オエノセラは夕と目を見合わせ、吹き出した。気安く指を振ってみせる。だが優雅な花びらは振り出されない。
「今の君には見せてあげられなくて、ごめんね」
今のオエノセラは、一年目なのだ。まだ咲かない。それゆえテラピー学の選抜の場にいなかったし、紅雀蛾も香りを辿るのに少し迷ったのだろう。
ディモルフォセカはゆるゆる首を振り、再び目を擦った。
「次の春に、ぜひ、見せてください。僕は、先輩を、ずっと憶えていたいです。ただ、平凡な一年生なので……約束、しましょう。もし、次に会ったとき、僕が思い出せないでいたら、聞……かせて、くれませんか? 僕と、せ、んぱいの、話を」
呂律も回っていない。夕は彼を休ませようか逡巡したものの、さっき医務室の前で決めたとおり、最後まで聞くことにする。小さな背中に冷たい手を当てて支える。
「僕の、いない、夏の、はなしを。僕は、そのあいだも……せんぱい、を……」
懸命に言い募っていたディモルフォセカが、ついにオエノセラの胸に突っ伏した。
「やっぱり限界だったんだね、モルちゃん」
オエノセラは後輩ごと上体を起こし、悼むみたいに綿毛頭を撫でる。
これが開花期(いっしょう)の終わり、か? 思うより穏やかで、夕は実感が湧かない。花が咲き終えたら種を採ったり植え替えたりするが、花園の青少年はどう扱うべきか。
「モルちゃんを『眠り』の部屋へ連れていくのを、手伝ってください」
実習生になって日の浅い夕を導くかのごとく、オエノセラが頼んできた。
断る理由がない。ディモルフォセカをおぶうと、まだ意識があったようでむにゃむにゃ言う。
「いまの僕に、いろいろ、させてくださって、あり……と、……ます」
「君が頑張ったんだ。お疲れさま」
怪我を庇ってゆっくり歩くオエノセラについていきながら、最後に小声で称えた。
寄宿舎の下階、白黒のベッドがあるきりの部屋が並ぶ区画に差し掛かる。窓に厚いカーテンが掛かっていて薄暗い。よもや墓……。
角を曲がると、アプリコットが「んじゃおやすみ!」と手を振って部屋に入るところだった。さっぱりしている。見送るラシラスは残念そうだが、泣いてはいない。
「ぼくたちはここで暑さや寒さをしのいで、次の『芽覚め』に備えるんです」
なるほど、種や球根の保管庫か。墓ではなく、次の生を育む場所と捉えられる。白いベッドは種になる属種用、黒いベッドは土の中で苦手な季節を越す属種用とみた。種を撒く時期に白いベッドから黒いベッドへ移る生徒もいるだろう。
アプリコットの眠りに立ち会っていた台帳(だいちょう)先生が、夕たちに気づく。
「おやおや? ディモルフォセカくんじゃないか! オエノセラくんの看病のためにワシの呼び出しを無視しおって」
紙がびっしり重なった顔に詰め寄られた。「眠る」生徒たちを管理しているらしい。オエノセラは満悦げに頬をほころばせるが、夕はちょっとばつが悪い。
「手間をかけたね実習生くん。さ、こちらじゃ」
台帳先生の指示に従い、ディモルフォセカを割り当てのベッドへ下ろす。
小さな手が名残惜しく伸ばされた。オエノセラが受け止め、小指を絡める。
「お、げんき、で……」
「約束、忘れないよ。君の黄色も、君が夜に『おひさま』になってくれたことも」
その言葉を、月に似た眼差しを刻み込むみたいに、ディモルフォセカがオエノセラを見上げる。一拍後、シーツに手がすべり落ちた。もう黄色の花びらは舞わない。
一春(いっしゅん)の生。安易に「短い」とは言えない。何百年と生きる樹木に「人間の一生は短い」と言われるようなものだ。
オエノセラは飽かず可愛い後輩の寝顔を眺めている。そんな彼に夕は語り掛けた。