(特別な生徒って見做されんくなったか? ガルテンの虫害もオエノセラの怪我も防げんで。情でディモルフォセカを害虫の根城に同行させたのもようなかったんじゃ)
やがてやってきたバスに、長い脚を軋ませて乗り込む。
シューレ正門で降りたのは夕ひとりだ。訪問者の目を愉しませる舗装路沿いの花壇が、無彩色にくすんで見える。
「何しょるんや」と他人に言えた立場ではない。
(ミドルミストを取り戻したかったのに……)
いちばんの、はじめての友だち。稀少な赤。彼がいればそれでよかった。朧げな記憶ながら彼の顔が見え、声も聞こえていた気がする。だから花園にもすぐ慣れたのだ。
旧友と別れた直後、両親と西宮で暮らすことになり、もくもくと日本語を覚えた。日本でも園芸を勉強するためだ。
標準語を使うと、遊ぼうとしつこい同級生に線を引ける、というのはこの十三年で得たティップスである。ついでに大人受けもいい。
こつこつ努力して、やっと特別な日誌を手に入れた。にも拘らず、失敗した。
春風が夕の胸の隙間を吹き抜ける。
立ち直れないでいたら、夜行性の蛾が横切った。紅雀蛾だ。花園で夕を乗せてくれた個体だったりして。
ぼんやり後を追うと、ゼゾン・ガルテンの、月見草の区画に辿り着いた。白い蕾がひとつ開きかけている。
(オエノセラの快復を確かめたい。それに、ディモルフォセカがこの春限りの命やったら、せめて別れの挨拶をさせてほしい)
我ながら諦めが悪いが、日誌に手を掛けた。
淡い光が拡がる。気づけば花園の、やわらかな陽射しの降り注ぐ医務室前に立っていた。
とくん、と鼓動が早まる。まだ教育実習生でいさせてくれるのか?
オエノセラとディモルフォセカと、話そう。目的を叶える手助けなどおこがましかった。夕には話を聞くくらいしかできないが、それも実習生ならではだろう。
謙虚な気持ちで、医務室の扉を開ける。
最奥の日当たりのいいベッドに、オエノセラが横たわっていた。何だかデジャヴだ。横の丸椅子にはディモルフォセカがおり、半透明の湿布らしきものに覆われたオエノセラの手を握っている。夕を見上げるも、すぐオエノセラに視線を戻した。
「先生のおかげで花園に帰ってこられましたが、何日も起きないんです。外皮(はだ)の斑の染みも、ちっともよくなりません。髪だって、五寸釘先生の整え方はあんまりです」
心配と落胆の入り混じった声で呟く。虫に食われた姿は刺激が強く、医務室に通うのは彼のみのようだ。その逞しさに、校外研修で落ち込んでいたのが遠い昔に感じられた。シーツには乾いた黄色の花びらが散っている。
「先輩、元気に、なってください」
片手はオエノセラの手に重ね、もう片方の手を振っては、目を擦る。
「オエノセラが帰ってこられたのは、君がその花で応急処置したからだよ」
夕は反射的に労っていた。ディモルフォセカが微笑み、振り出される花びらが活き活きする。防除学の授業の際もこう言ってやればよかったのか。
気づくのが遅い。なんて自嘲する横で、看病の成果か、オエノセラの不揃いな睫毛が戦慄いた。
「……あれ? ぼく、死んでないや。なぁんだ」
第一声は、快復を喜ぶのでなく、口惜しがる。
夕は耳を疑ったし、ディモルフォセカは悲痛のあまり丸椅子から落ちんばかりだ。
「先輩、死にたかったん、ですか」
オエノセラは、自分の手を握る存在を辿った目を、眩しげに細めた。
「モルちゃん、まだ『眠って』なかったんだ。そうだよ、死にたかった」
「どうして、」
「ぼくは悪い先輩だから」
事もなげに答える。さらには「まあモルちゃんが助けにきてくれたからいいか」と翔太みたいに嬉しそうに続けた。
対照的にディモルフォセカは言葉を失くしている。
「君はわざと葉虫に攫われたね? それほどの目的があったんだろう」
代わりに夕が指摘すれば、オエノセラは夕を見直したように微笑んだ。
「はい。ぼくはモルちゃんに、今のぼくをずっと憶えていてほしいんです」
「僕に、ですか?」
オエノセラの告白に、ディモルフォセカが難しい顔になった。オエノセラの思考回路は同じ花園生にも理解しがたいらしい。もどかしげにつま先を揺らす。
「でも……前生(ぜんせ)の記憶は、ないのが普通で……」
「人間もだ。おそらく虫も」と、夕はディモルフォセカ側についた。
花園の生徒たちは、限りある生を輝かせるべく学ぶので手一杯だ。オエノセラは「悪い先輩」にしても、一年生にずいぶん無茶を言っていると思う。
しかしオエノセラは悪びれず、黄色い花びらを摘まんで咥える。
「きっと普通を普通じゃなくするために、前のぼくはこのおひさま色の花びらを遺したんだ。モルちゃんはぼくの特別な種(こ)に違いない。もっと普通じゃない記憶なら、君に残るかもしれない。だからなるべく残酷な死に方をしようと決めたってわけ」