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第13話 現実への侵蝕

「雨霧氏。目を開けて寝ているのか?」


 抗議の言葉が行き場を失う。間が悪いのは翔太だと思いきや、癖毛に銀縁眼鏡の、円生寺と鉢合わせたのだ。


 寮の二人部屋に沈黙が横たわる。彼とは雑談したこともない。

 それよりディモルフォセカの叫び声が耳にこびりついていた。もしやゼゾン・ガルテンにも葉虫が発生しているのではないか? 花園と連動しているなら可能性は高い。


 立ち上がり、大股で出窓に向かう。

 外はもう夕空だ。私物の防除薬や害虫の捕殺に使う割り箸、紙皿などをツールボックスに放り込む。


(ん? なんで土入れがここに)


 防除薬のラベルを見ようと思ったら、土入れを握っていた。

 出窓含め共用部分は夕が整頓している。土入れはラックの右から二番目が定位置だ。それが三番目にあった。防除薬の容器と形が似ているので取り違えたか。舌打ちを呑み込み、ラックに戻す。


「待て、雨霧氏、」


 円生寺には応えず、階段を一段飛ばしで外へ出た。さっきの大立ち回りの筋肉痛を錯覚する。

 翔太の自転車(二号)を借りたいが、鍵がない。肝心なとき役立たない。

 ひと気のない坂を、二本の脚で疾走する。ガルテンの月見草の区画に跪く。


(スプリングフラッシュ、また増えとる。……のは置いといて)


 月見草の葉を裏返すと、五ミリほどの葉虫がへばりついていた。小さな穴も散見される。やはり……。

 温度と湿度が上がるこの時期は、虫たちが元気になる。予防の薬剤を散布しておいても根絶は難しい。


(小鳥の食糧やしな。けど、ガルテンでは生かしとけん。花が枯れてまう)


 まず、目につく葉虫を割り箸で紙皿にはたき落とした。こうしないとやつらは地面に落ちて逃げる。逃げ場をなくして、粛々と潰す。

 一時退避したものもいるはずだ。見逃しはしない。マスクとグローブを装着し、葉の裏表に防除薬を噴射していく。これで、戻ってきて葉を食べた残党も死ぬ。


 ひととおり対策を終えて手を洗いながら、夕は自分への苛立ちを募らせた。

 日誌はこの虫害を警告していたに違いない。

 花園での実習を通して察知し、現実で対処するのが、特別な日誌の課題であり使い方だったのだ。


(そんなんも読み取れんなんて……)


 最悪の結果は回避したとはいえ、食い荒らされた葉は元に戻らない。課題ひとつ目にして落第かもしれない。

 苛立ちが気落ちに替わり、とぼとぼ寮に帰る。


 薄暗い廊下にまだ円生寺がいた。

 そう言えば、通い生の彼がなぜ休日に寮にいるのだろう。出入り自体は禁止ではないが。


「どうされたんですか」

「八月朔日氏が、彼の一号機で事故を起こした」


 夕が事務的に尋ねるのと、円生寺が口を開くのとは、ほぼ同時だった。

 翔太の「一号機」、別名「翔太さん一号」は、バイクである。それで事故に遭ったって?

 後頭部を殴打されたような衝撃を感じる。よく見れば円生寺も深刻な顔だ。


「島西病院へ搬送された。保険証が寮にあるから持ってきてほしい、とのことだ。どこに仕舞ってあるか知らないか? ああ驚いたろう、無理はせず」

「いえ……」


 手に汗が滲む。夕は事故の報だけでなく、衝撃を受けたことにも動揺していた。

 絡んでくるのの相手を少しはしてやればよかったか。いや、この動揺は似非関西弁男の生命力が強いと思い込んでいたせいだ。後悔のせいじゃない……。


 翔太と同い年で、翔太と違って品行方正な円生寺は、夕より翔太と親しいだろうに落ち着いた様子でエコバッグを掲げる。


「着替えなどはまとめておいた。雨霧氏が届けてやるといい」



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