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第2話 花園へようこそ

 夕は斜めに頷いた。ここ――「花園」とやらも学校だと、今知った。

 それに、六歳から園芸を独学してきたとはいえ、専門的に学び始めたばかりの身なのだが。


「ぼくは二年生のオエノセラです。他の先生方がいらっしゃる宿舎へご案内します。あ、でもおやすみになってるかな。ぼくはこのとおり、夜の散歩が日課ですが」


 夕の戸惑いも知らず、少年が言葉を継ぐ。思わせぶりに微笑みさえした。


「……それでも助かるよ。僕は、ベンヤミンだ」


 つられて笑いはしない。ひとまず彼に合わせてミドルネームを名乗る。


 「オエノセラ」は、月見草の学名である。その名のとおり夜に花を咲かせる。彼とこうして夜出会ったのは、偶然の一致だろうか。


 オエノセラが、口を開いたことで舞った花びらを摘まみ上げる。

 思わず問う。


「その花は何?」

「さあ。今のぼくにはわかりません」


 それまでと同じ声色で、ふざけた答えが返ってきた。新しい教育実習生に対する洗礼だ。

 憤りはせず、彼の後ろについて寄宿舎に向かいながら、考えを巡らせる。


 園芸学校の「特別な生徒」、すなわち教育実習生として、花と似た性質を持つ青少年を指導する。それが「特別な日誌」の使い方か?


 花園で経験を積み、世界一美しいシェーンブルン宮庭園の非公開区画「天の花園」を世話するに相応しい園芸職人になれ、というなら――望むところだ。自信もある。


「ところで、ベンヤミン先生には、忘れられない思い出はありますか?」


 夕の意気を試すみたいに、オエノセラが尋ねてきた。

 ぽっかりと空いた穴が、脳裏を掠める。あの後すぐ日本で暮らすことになり、シェーンブルン宮庭園は訪ねられずじまいだ。未だ埋まらない喪失感は隠して請け合う。


「あるとも。十三年前の春、必ずここに来ると友だちに誓った」


 オエノセラが感心したように「十三年も」と呟く。

 同時に、バサッと音がした。


 光が弾ける。

 オエノセラは消え、夕もシューレの第三書庫に戻っていた。木床に日誌が落ちている。


 何度かまばたきしても、視界に変化はない。まるで白昼夢のようだった。

 しかし――開いたままの日誌の白紙頁に、

〈実習一日目。オエノセラの案内で教官に挨拶〉

 という一文が記されているではないか。優等生の夕も、眠りながら字は書けない。

 と、なれば。


(やっぱりこれが「特別な日誌」に違いあらへん。寮でじっくり使い方調べよ)


 発掘した日誌を抱え、研究棟を飛び出した。

 気味悪さより昂揚が大きい。何せ「高校卒業」という母の要件を満たして園芸学校に進むのを待ちわびていたのだ。


 丘の斜面に連なる花壇や温冷室、水生園を横目に舗装路を下っていく。シューレの敷地は甲子園球場五個分にも及ぶ。草花の瑞々しい香りの中を大股で進んだ。


 煉瓦造りの男子寮は、廊下も食堂も静まり返っている。

 淡路島は神戸にも鳴門にも車で三十分。通いの生徒以外も休日は繁華街へ出払ってしまう。

 夕は橋を渡って会いに行く人がいるでもない。それを知ったシューレ生にひととおり誘われ、ひととおり断った。恋人や友だちをつくるために入学したわけじゃない。


 二階南端の二人部屋に身体をすべり込ませる。

 天然木の机のスタンドライトを点け、居ずまいを正した。「花園」を再訪しよう。日誌を使いこなしてみせる。旧友を迎えにいくために――。


「揉めばピンポンマム、口吸やツツジ、足開く姿はカトレアよ~お゛あ゛! 何や夕か、電気点けや」



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