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第36話 大事なことだから、もう一度……言っておくけど、陰陽寶珠は命の危険がある時しか、使っちゃいけないよ

 朝日に照らされた、緑溢れる景色の中、曲がりくねった灰色の階段が、麓まで伸びている。

 三千段あると言われている、全長二キロ近い長い階段だ。


 麓の先には野原が広がっていて、野原の向こう側……三キロ程先には、サウダーデという都市が存在する。

 何の建物も建っていない、アガルタがある辺りを中心に、放射状に都市が拡大し発展したせいか、サウダーデは地面に置かれた、巨大なドーナツのようにも見える。


(とうとう、あの町に行くんだな)


 八卦溫泉の近くにある、西の牌楼はいろうの前で、寧人は感慨深げに呟く。

 牌楼とは、屋根が付いた中国風の門のことだ。


 洞天福地という山の、サウダーデ側の麓にある階段を上ると、この西の牌楼に辿り着く。

 牌楼の内側に、武仙幇の様々な建物があり、客が出入りできる八卦溫泉は、牌楼からあまり離れていない辺りに存在する。


 サウダーデに来て以降、寧人はサウダーデの町並を、遠くからよく目にしていた。

 でも、修行をメインとした生活を送っていた為、これまでサウダーデを訪れる機会がなかったのだ。


 遠くから見ていただけのサウダーデに、とうとう行くことになったので、寧人は感慨深かったのである。

 無論、寧人の本来の目的地は、ドーナツの穴のように見えている場所の下に広がる、巨大地下迷宮……アガルタなのだが。


 パブリックハウスで冒険者としての登録を終え次第、寧人は初めて、アガルタに下りることになっている。

 それ故、今朝の寧人は、何時でもアガルタに下りることができる装備を、整えていた。


 夏なのに長袖の黒い功夫服を、袖をまくって着ているのは、アガルタは夏でも涼しい場所が多いらしいので。

 功夫服のシャツの上から、普段はしていないベルトを締めている。


 葫蘆藤帶ころとうたいという、黒い革製のベルトには、小さな白い瓢箪型のカプセルが、幾つもぶら下がっている。

 小葫蘆罐しょうころかんという、小型のカプセルであり、假面武仙に変身している際、腰に現れる物と、同じ機能の装備だ。


 行動の邪魔になり難い、薄くて黒いリュックの中には、アガルタの中で使う様々な物が、収納されている。

 靴は普段通りの、樹脂でコーティングされた、黒い布靴である。


 布靴ではあるのだが、事実上はスニーカーのような靴となっている。

 かなり動き易いので、武仙幫の者達は、この靴を使用する者が多い。


「忘れ物はないかい?」


 見送りにきていた、武仙服の夢琪が、寧人に問いかける。


「ないですよ。忘れ物をするなってのが、爺ちゃんの遺言なんで、今朝から何度も確認しましたから」


 即答する寧人に、ジーナが声をかける。


「私もついて行きたかったんだけど、今日は他の仕事が入ってるのよね」


 残念そうな口調のジーナは、普段とは違い、赤いツナギ風の服装である。

 今日は八卦溫泉の源泉の湯を、サウダーデの公衆浴場などに届ける仕事がある日なので、ジーナは作業服姿なのだ。


「付き添いは、僕一人だけで十分だよ」


 メイド服姿のヘルガは、渋い表情で続ける。


「ジー姐に付き添わせたら、冒険者登録に行く前に、寧人連れ回して、サウダーデで遊び回りそうだし」


「それは、確かに」


 楽し気に同意する、夢琪の言葉を聞いて、ジーナは苦笑いを浮かべる。

 実は図星だったので。


「じゃ、そろそろ行こうか」


 ヘルガの言葉に、寧人が頷いた直後、夢琪が寧人に語りかける。


「大事なことだから、もう一度……言っておくけど、陰陽寶珠は命の危険がある時しか、使っちゃいけないよ」


「分かってますって」


 陰陽寶珠の実戦での使用を、寧人は夢琪に禁じられていた。

 理由は、実戦で陰陽寶珠を使いこなせる程、寧人の氣級が高くないからだ。


 陰陽寶珠を使って假面武仙となれば、本来の戦闘能力を、十倍以上に引き上げることができる。

 ただし、その代償として、使用せずに戦う場合に比べて、遥かに大量の氣を消耗してしまう。


 つまり、本当の意味で陰陽寶珠を使いこなせるだけの、高い氣の力を持たない人間が、陰陽寶珠で假面武仙となって戦うと、すぐに氣が足りなくなったり、使い切ったりしてしまうのだ。

 しかも、高い氣の力を持たない人間が、陰陽寶珠を使うと、暫くの間……經絡がトラブルを引き起こし、氣を操れなくなってしまうのである。


 氣を操れなくなれば、假面武仙として戦えなくなるどころか、氣を使った震天動地の技も使えなくなる。

 しかも、大抵の場合は、氣が使えなくなるだけでなく、身体の動きも鈍くなってしまう。


 要するに、陰陽寶珠を使いこなせる氣級に達していない人間が、假面武仙となって戦うと、すぐに戦えなくなる状況に追い込まれるのだ。

 そんな状態のことを、消氣衰しょうきすいという。


 日本におけるドラゴンとの戦いにおいて、寧人は爆裂踢を放った直後、經絡がトラブルを引き起こし、消氣衰を引き起こしてしまった。

 その結果、戦えなくなった状況でドラゴンメイドに襲われて、殺されることになった。


 つまり、寧人は消氣衰の恐ろしさを、実戦で経験しているのだ。

 その上、洞天福地における、陰陽寶珠を使った修行でも、寧人は消氣衰を、何度も経験していた。


 今の自分が陰陽寶珠を使えば、一時的に戦闘能力を十倍以上に引き上げられても、その代償として消氣衰になってしまう。

 つまり、まともに戦えない状況に追い込まれることを、寧人は骨身に染みて思い知っているのだ。


 消氣衰になり難くなるレベルで、陰陽寶珠を使いこなすには、一万以上の氣級が必要だと、夢琪は言った。

 今の寧人の氣級は、二千から三千辺りなので、まだ氣の力は全然足りていない。


 危険なアガルタの中で、氣が使えなくなってしまえば、寧人は生きてアガルタを出られない可能性が高い。

 そんな事態は避けなければならないので、夢琪は寧人に、「陰陽寶珠は命の危険がある時しか、使っちゃいけないよ」と、繰り返し命じたのだった。




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