今日の夜も、バクは私の膝の上にいた。
「訓練でも怪我だらけなのですね。あなたは」
昨日に引き続いて腕も足も青あざだらけの彼に対し、そう指摘してから彼の額に手のひらを置いた。
「んー、えっと、この前の色の薄い爬虫人、なんて名前だったっけ……」
「フィルーズと名乗っていましたかね」
「ああ、そうそう。次に会うときは勝たないといけないからさ。一生懸命やってるよ」
帝都に帰還してからのバクは、かなり必死な努力をしているようだった。
部下である青髪の少年シンや赤髪の大男バロンはバクよりも剣の技術が上であり、軍の中でも有数とのことらしい。二人に頼んで厳しい訓練をしているのだとか。
「あなたは今回勝っていますよ。遠征の目的は達成し、将である彼にも手傷を負わせたのですから。結果がすべてです」
「そんなのケイとペンギンと噴火のおかげだし。剣の腕では全然勝ってなかったでしょ。何度戦っても勝てるようにならないと。宮廷賢者のハンサが言ってたよ、『何事にもサイゲンセイは大切です』って」
再現性。何かの研究をするのであれば重要だろう。
ただ、宮廷賢者は軍事の専門家ではない。
彼らは歴史や自然科学の研究のほか、火魔法、水魔法、風魔法、回復魔法などの現代魔法の開発や古代魔法の研究などを専門としている。火・水・風魔法については戦争での応用を目指す研究もしているようであるが、今のところ対人での実用性が低く、彼らが戦で先頭に立って戦うというようなことはない。
よって、戦の相談をハンサにしてどうする……とは思うのだが、バクのことなので大真面目に聞きに行ってしまったのかもしれない。
「あなたには失礼ですが、私の目にはそう簡単に追いつけるような実力差ではなかったような気がします」
「うん、わかってるよ。でも、それでも頑張って、なんとかみんなを守れるようにならなきゃ」
こうやって膝の上にいる彼の顔は、相変わらず年齢相応。子供のものに見えてしまう。
しかし英雄様としての自覚もまた相変わらず十分ということのようだ。
「ま、ケイはめでたく次の戦場には来ないことになったから、ケイが危険なことにはならないってのは安心だけどさ」
「それは……私としては『やられた』という感じです」
「ぐふふ」
「気持ち悪い笑い方をしないでください」
彼は執事長や将軍にまで根回しをしたらしい。
私としてはいろいろな意味で次回も同行することが望ましいのだが、上のほうで決められてしまったものは仕方ない。
「たぶん次は前回ほど戦場が遠くないから、大丈夫だと思うよ」
バクはそう言うが、一抹の不安は残る。
たとえば、またあの爬虫人に遭遇してしまった場合。もしくは、さらに強い敵が現れた場合など――。
翌日。
執事長より、汗をぬぐう布を運ぶ仕事を頼まれていたため、城にある訓練場の様子を見ることができた。
「バク様。お姫様が来てるぞ」
真っ先に気づいた赤髪の大男・バロンが、明るい声でバクに知らせた。
バクの部下たちも気づいたのか、一斉にこちらを見た。バクの部隊の兵士たちはいつも城の訓練場を使っているので、遠征から帰ってきてからも、なんだかんだでよく顔は合わせている。
「ケイ! あっ。さては、どさくさに紛れて、次の戦にもついてこようと将軍に直訴しにきたね!?」
「いえ、違いますけれども」
この日は、将軍も訓練場の視察に来ていた。
広い訓練場の反対側に、鎧は着けていないものの立派な格好をした、老年の男性が座っている。距離が遠いうえに雑音が多いところなので何を話しているかまではわからないが、そばに
私の聞くところでは、彼は武勇や用兵の手腕が評価されて軍のトップになったというわけではない。年功序列でいつのまにか将軍位を得ていたとのこと。
帝国の南下政策が始まってからは彼がずっと指揮を執っており、敗戦も多かったらしい。ところが、そろそろ責任を取らされて罷免されそうな雰囲気になってきたときにバクが英雄の称号を下賜され、それ以降はバクの存在による士気向上によって連戦連勝。将軍の退任論も見事に消滅したということで、なんとも運のよい人物といえる。
背筋が伸びているのはさすがであるが、私の目から見ても、強者の雰囲気は感じない。よくいるような身分の高い老年男性、といったところか。
「ああ、でも、それもよさそうです。よい機会ですので兵士にしてくださいと将軍様に頼んできましょうかね」
「だああめえええっ!」
「何度も申し上げていますが、私はいちおう剣の心得もあります。達人とは申しませんが、そう簡単に足を引っ張るような事態になることはないと思いますが」
「却下!!」
私が少し将軍の方向に動こうという素振りをしたのがいけなかったようだ。
バクは慌てたように私の両肩をつかんで過剰に後ろへと押し戻してくる。周囲がニヤニヤした顔で見ているのもなんのそのである。
「私の申し出が疑わしいのなら、バク、一度私と手合わせをしてみますか」
「へぇっ? 俺とケイが、手合わせ?」
「はい。そうすれば私の剣の程度がどれくらいなのかはわかるのでは」
「手合わせってことは、剣をケイに向けるってこと?」
「向けなければ手合わせできないです。当たり前だと思いますが。それが何か?」
「いやいやいや! 無理無理! 絶対無理! 一生無理!!」
「真剣が嫌なら練習用の木剣でも構いませんよ。常識の範囲内で重いものであれば特に苦にはしませんので」
「え? でもそれって、万が一寸止めに失敗して、木剣がケイの頭に当たったらどうなるんだろ」
「私の頭が割れるだけの話だと思いますが」
「じゃあ絶対ダメ!!」
「あれもダメこれもダメでは証明するすべがありません」
ここで青髪の少年が、剣を担ぎながら話に入ってきた。
「バク様が無理なら、他の人が相手をして、それをバク様が見ていればいいんじゃないですか? たとえば僕と召使さんがやるとか。僕は寸止めを失敗することはないと思うので心配ありませんよ」
「それも危ないって! 寸止めする瞬間に地震が起きて手元が狂ったりしたらどうするの!?」
「おいおい、バク様。それはどういう確率だよ」
バロンが豪放な笑いを見せると、他のバクの部隊の兵士たちもそれにつられるように声をあげて笑い始めていた。
「いや、そういうのが今回の戦であったんだってば! いいほうに転んだから助かったんだけどさ」
馬鹿にしているような感じはない。温かい笑いだった。
「召使さん、よかったな。ずいぶんと大事にしてもらえて」
私にもバロンの言葉とともに笑いが向けられたが、こちらも温かい。
従軍していたときにも感じていたが、基本的に兵士たちは好意的な接し方をしてくれる。
とりわけ、バクの部下たちは特に優しい気がする。バクはいつも私のことをどう言っていたのだろうか。
「……」
私がここにいるのは、密偵としての仕事のためだ。
なのに、ずっとこのままでも構わないと思ってしまっている自分がいるのは、もう否定できなくなってきている。
しかしこの心地よい毎日は、あっさりと崩壊することになった。