バクの次の出陣の日――。
朝早く、城の中にある私の部屋の扉が叩かれた。
ノックの仕方で誰なのかわかってしまう。私は返事をして扉を開けた。
「おはよう、ケイ」
もちろん、そこにいたのは爽やかな顔のバクである。平服姿ではなく、立派な鎧を着用していた。
「おはよう、バク」
「早い時間にごめん。これから行ってくるよ」
ただの「行ってきます」の挨拶である。これもどうやら恒例になりつつあった。
「わざわざここに来てくれるのはうれしいですが、あなたは忙しいはず。私はいつも出陣のお見送りの場にいますし、どうせそこで会えるのに」
軍はいつも帝都にある大神殿の前に集まり祈りを捧げてから出発する。帝都民はそれを、大神殿から帝都の入り口まで延びている大通りで見送るのである。
私を含め召使いや執事たちはいつもその最前列におり、バクも必ず軍の先頭にいるので、いつもお互い目は合わせていた。
「わかってるけどさ。でも出陣のときは見送りの人が他にも一杯いるし、距離も遠いから」
バクはそう言って無邪気に笑う。
「そうですか」
忙しいはずの出陣の日の朝に、わざわざ会いに来てくれる。そのことについては当然悪い気分などではない。だが不安がないわけではない。
『ただの召使ではなく、英雄の少年の回復役としても採用? それは好都合だ』
私が城で働くことが決まったとき、族長はそのようなことを言っていた。その後の発言を見ていても、族長は私とバクの距離ができるだけ近いことが望ましいと考えている節がある。諜報活動をするわけであるから、実際そうなのだろう。
しかしながら、現状は少し近すぎやしないだろうか?
狼人族は他種族に興味を持たない。しかし花を愛でる心もあれば、動物を慈しむ心もある。中には小動物を飼い慣らして可愛がっている者もいる。つまり無感情ではない。
私としても例外ではなく、種族が違えど自分と頻繁に一緒にいる者、自分をすがってくる者、自分に懐いてくる者に対しては……当たり前かもしれないが、情が移っていく可能性は高い。それがよいことなのかどうか、よくわからないのである。
「親しい関係になりすぎてしまうことは、問題ないのでしょうか?」
そんな質問をしたこともあるが、「もちろんだ。お前なら大丈夫だろう」という答えが返ってきた。
この「お前なら大丈夫」の真意を知りたいところだ。
* * *
帝国軍の兵士たちが、大神殿の前の広場に整然と集まっている。
いつものように、その左右では見送りにきた帝都民により人の壁ができていた。
召使を含め城で働いている者たちは、軍の先頭がいるところの両脇、その中でも最前列で最も見やすい場所での見送りとなる。
馬を降りたバクが、騎士たちの前に出て、広場の壇上にのぼった。
「偉大なる神よ――」
大神殿に向かって剣を前に立て、神へ祈りを捧げる。
「我らヴィゼルツ帝国軍は、ことあるごとに国境を侵す卑劣な異種族どもを討ち、帝国民の安寧を守るべく、これより出陣せんとす。しかれば、全身全霊を懸けて使命を果たさんとする勇敢な騎士たちに、是非ご加護を――」
ちょうど、陽を遮っていた小さな雲が、抜けた。
壇上にいるバクの剣や鎧、そして並んでいるたくさんの騎士たちの剣や鎧が、あたかも祝福を受けたかのようにまばゆく輝いた。
バクは向き直り、今度は帝国民に対して抱負を述べ、そして兵士に対する鼓舞をしていく。
この出陣前の儀式、以前は帝国軍のトップである将軍がそれを執りおこなっていたらしい。が、バクが英雄と呼ばれるようになってからは、皇帝からの直々の指示でその役目が彼へと譲られ、今に至る。より“帝国民受け”のよい者がやるべき、ということなのだろう。
出陣を見送った後は、いつも大神殿前の広場の掃除をしてから帰っている。
この日もそうしようと思ったとき、同じく見送りに来ていた高齢の男性――執事長が近づいてきた。
「いつもどおり、バク様はご立派でしたね。ケイ」
バクが出陣時にしゃべっていた言葉は、凱旋したときと同様、彼本人が考えたものではない。文官が作った文章を覚え、読んでいるだけだ。
執事長がその事実を知っているのかどうかはまだ確認したことはない。彼も帝国民同様に騙されているのか、それとも自分の言葉でないことを踏まえたうえで立派だと言っているのか、どちらなのかは不明である。
「あなたは身分こそ召使ですが、その役目は今やこの帝国になくてはならないものです。ここの掃除などは他の者に任せてよいのですよ」
執事長は穏やかな表情と口調で、そんなことを言う。
彼は私を特別扱いしようとしてくる傾向がある。召使には本来ないはずの個室が私に与えられているのも、この人間の強い働きかけによるものだ。
私が城で働く者としては最も低い身分の“召使”で採用されたのは、私の出自が「身寄りがない辺境の田舎者」という設定であったことが関係している。
ちなみに、その設定を使って城で働こうとするのはあまりにも怪しすぎたようで、面接の前に門前払いされるところだった。
それをひっくり返してくれたのはおそらくバクである。
『あ! 待って兵士さん! 追い返さないで!』
引き下がろうとしたときに聞こえたその叫び声は、まだよく覚えている。
『ね、ねえ、面接受けるの……?』
『はい。そのつもりでしたが』
『な、何か得意なものとかは、あるかな。あると有利になるから』
『一通りはできますが、強いて言えば魔法でしょうか。回復魔法などは特に得意で――』
『す、推薦人は? いるの?』
『いえ、いませんが』
『じゃ、じやあ、俺が推薦人になってもいい?』
それが彼との出会いだったわけだが、ぎこちない話し方をして私の袖を控えめに引っ張るその黒髪の少年が“救国の英雄”様であろうことなど、このときは当然知らなかった。
知ったのは、面接本番のときに、面接官の一人として彼が紹介されたときである。今思えば、私は相当運に恵まれたのだろう。
「いえ、ぜひ掃除もやらせてください」
私は執事長にそう答えた。気持ちはありがたいのだが、族長からは、「密偵という性質上、城で働く他の者から反感を持たれないことが望ましい」と言われている。個室に関してはありがたく使わせてもらっていたが、それ以外ではなるべく悪目立ちがないよう、できるだけ小さな仕事も率先してやるようにしたい。
「真面目ですね。皆あなたのような心構えなら、私も安心して引退できるのですが」
私は執事長の厚意だけを受け取ると、掃除道具を取りに大神殿へと向かった。
戻ってくると、先ほどのバクの言葉を頭の中で繰り返しながら、手に持った箒を動かす。
彼が言っていた「ことあるごとに国境を侵す卑劣な異種族ども」という言葉――。
私は聞くたびにいつも、心の中で「それは違う」と言っている。
だが、それをこの帝国内で誰かに言うことは叶わないのだ。