バクが退室すると、私は部屋にある大きなクローゼットを開けた。掛かっているたくさんの服の中に左手を突っ込み、魔力を込める。
左手の薬指に着けていた指輪が、青く光った。
何も遮るものがなければ、おそらくかなり眩しく感じるほどの光量。しかし厚手の服やクローゼットのおかげで、ほとんどが遮断された。夜ではあるが、部屋の窓から外に漏れてしまう心配はない。
私は指輪に向かって、小声で話しかけた。
「私です。ケイです。聞こえますか? 族長」
ほとんど待たされることなく、指輪から、低く小さい声で返事が聞こえてきた。
「ケイか。聞こえている」
「今回も人間族は戦に勝利し、爬虫人族の拠点を一つ落としたようです」
「そのようだな。今回はオーク族から勝手に連絡してきた」
「オーク族からですか。相変わらず爬虫人族のために援軍を送っているようですが、戦況が悪くて焦りがあるのかもしれませんね」
「例の人間……バクという英雄はどうだ?」
「はい。いつもどおりに功を挙げていたようです」
「お前との関係は?」
彼についての質問は、報告のたびに飛んできている。
「帰還後に回復魔法をかける場所が、私の部屋で定着しています。つい先ほどもここにいました」
「ふむ。相変わらずお前は『戦場に出ろ』とは言われないのだな?」
「はい。回復魔法は受傷直後にかけたほうがよいので、私のほうから従軍したいと何度も志願しておりますが、まだ執事長からお許しが出ていない状態です」
「なぜだろうな」
「理由までは聞けておりません。ただ戦場が帝都からだんだん遠くなっていますので、彼の回復が私しかできない以上、いずれは軍に同行する話にはなるはずです」
「ふむ。そうか。そのときは軍についてもしっかりと見てほしい」
私は一つ、ため息をつた。そして、ぼやきにも近い質問を返した。
「族長。前にも聞きましたが、このような密偵活動というものは、本当に我々“狼人族”のためになるのでしょうか」
そう。私の今生は人間族ではない。
人間族の国ヴィゼルツ帝国よりはるか南の山地に住まう、狼人族の者。それも、族長の親戚だ。
人間の姿となり、このヴィゼルツ帝国に密偵として送り込まれていたのである。
密偵の命を受けた当時は、大変に困惑した。
なぜ密偵に自分が選ばれたのか? という疑問がその理由ではない。
自分が選ばれたことに対しては、特に違和感はない。
一般的な狼人族は、直立二足歩行で狼の耳や尻尾を持つ“常態”の姿と、完全な狼である“狼態”の、二つの姿になることができる。しかし、私は常態からさらに耳や尻尾を隠し、人間族と変わらぬ姿にもなることができた。人間族に対する密偵として私がうってつけの存在であったことは間違いない。仮に私が族長でも、誰かを密偵にしないといけないのであれば私を選ぶだろう。
ちなみに私が人間態になれる理由。それは、私の前世が人間であり、人間の姿と感覚を正確にイメージできるためだと思っている。
この世界に狼人族として生を受け、初めて名前で呼ばれた瞬間――。断片的かつごくわずかではあるが、前世の記憶らしきものが呼び起された。前世と同じ名前をつけられたことが引き金になったようだった。
それ自体は特に不幸だと思ったことはない。前世が狼人族でなかったことは喜ぶべきことではないが、今生が狼人族という事実で十分だ。むしろ、幼少の頃の時間の貴重さに気づくことができたという点では感謝している。おかげで一生懸命に剣や魔法の習得に励むことができた。同じ世代の中では一番成長が早かったかもしれない。
――それはさておき。
私が困惑した理由は、何よりも、密偵を放って他種族の動向を探るという行為自体に違和感があったからだ。
孤高な種族――狼人族は自らをそのように位置付けており、種族として非常に高い自尊心を持っている。私も含め、他種族へ密偵を放ちコソコソと情報を収集するという行為には嫌悪感を持つ者がほとんどだろう。
さらに、そもそも他種族の動向などつかむ必要もない、興味もないというのが、狼人族としては自然な考え方のはずだった。
『外より来たる者には、施したうえでこれを拒む。内より去る者には、死をもって制裁したうえでこれを諾する』
それが、大昔から受け継がれてきた種族としての方針であった。
現在も、族長の許可なく他種族と交流することは禁止。自給自足の生活をおこない、交易もほとんどおこなわれていないという徹底ぶりだ。
本能として内向性が高く、外の世界への興味を示す者などもいないため、未来永劫に非接触種族に近い状態が続くであろうはずだった。
一応、状況だけを見れば人間族の国へ密偵を送り込むことに合理性はある。
そう。状況だけを見れば。
人間族の国が突如として南下政策を掲げ他種族の領土へ侵攻を始め、そしてバクという一人の英雄が現れて以降、その速度が加速していたからだ。
今のところ激しい戦いが繰り広げられているのは人間族の国の南西に位置する爬虫人族の土地が中心であり、人間族の版図と直接接していない狼人族の土地が脅かされる段階にはないものの、この先どうなるかはかなり怪しい。
しかし、だからといって「密偵を送って探りましょう」とはならないのが狼人族であるはず。
実際、爬虫人族やオーク族が勝手に人間族侵攻の知らせを送ってきていても、狼人族は当初、単に静観をしているだけだった。それがなぜ、こうなったのか。
この先、本格的に人間族の矛先が向けられたとしても、小賢しい策など弄さず狼人族単独で真正面から迎え撃ち、そして潔く全滅する。それが一番“らしい”やり方。種族のほとんどの者はそう考えるだろうし、私もそう考えていた。
密偵として赴任したのちも、ときどき「いったい自分は何をやっているのだろうか」と思うことがあった。
その疑問を直接族長にぶつけたことは何度もある。だがいつも、「すべては狼人族のためだ」と返ってくるだけだった。
今回もきっとそうなのだろう。
「もちろんだ。我が種族のためにこれからも頼んだぞ」
やはり、そうだった。
「……」
左手薬指の指輪の青い光が、スッと消える。
通信が切れたのだ。
私はまた一つため息をつき、クローゼットを閉めた。