このヴィゼルツ帝国には、一人の若き英雄がいる。
今から一年前の、異種族との大きな戦いでのこと。その戦いが初陣だったバクという名の少年は、帝国軍が総崩れとなる中、敵陣の奥深くへ単身突入。敵将を見事討ち取り、逆転勝利の立役者となった。
“救国の英雄”として帝国民から敬愛される存在となった彼は、その後も戦場で戦果を挙げ続けている。
そんな彼には今、帝国民には言えない秘密があった。
彼は戦いから凱旋すると、大神殿前の広場の檀上に立ち、帝都民の前で戦勝の報告をおこなっている。その後は宴へ参加し、それも終えると城の中の“ある部屋”へと向かう。
そこまでなら、城の執事や召使の中には知っている者も多いだろう。
だが、その先のことを正確に知る者は……今のところ、この私を除いて存在しない。
コンコンという、遠慮がちなノックの音がした。
自室にいた私は「はい」と返事をし、扉を開けた。
そこに立っていたのは、表情をやや硬くした一人の少年だった。銀色である私のそれとは違い、真っ黒な髪。そしてやはりアイスブルーの私のそれとは違い、真っ黒な瞳――。
救国の英雄であるバクだ。
「おかえりなさい、バク」
私はいつものように少しだけ笑って、そう挨拶をした。自分は城の召使であるため、本当はもっと恐縮して英雄様を迎えるべきなのだろう。しかし当のバク本人がそれを望まなかったため、ほぼ素のままの態度で対応するようにしている。
「ただいま、ケイ。今大丈夫?」
バクも挨拶を返し、こちらが空いているのかどうかを聞いてきた。その聞き方や、素直に伝わってきてしまうわずかな不安。毎度変わらない。
「ええ。大丈夫ですよ」
「よかった。またすぐに出撃することになるから、よろしく頼むよ」
表情を安堵で崩しながら、彼が部屋に入る。防具はすでに脱いでいたようで、軽装で、剣だけ腰に差している恰好だった。左前腕に包帯が巻かれているのは、また戦いでケガをしたためだろう。
そこまで広いというわけでもない、この部屋。中央にあるベッドに彼を導くと、私は靴を脱ぎ、先にベッドの上にあがった。そしてベッドのヘッドボード側のところで、横座りで座る。これで準備完了だ。
「はい、どうぞ」
私がそう言うと、バクは立派な剣を鞘もろとも腰から外し、壁に立てかけた。
ただの剣ではないと聞いている。この国に昔から伝わってきた伝説の剣で、城の中庭の台座に刺さったまま誰も抜くことができなかったものらしい。初陣の武勇伝があまりに凄まじかったため、もしや伝説の剣も抜けるのでは? という帝都民の声を受け、試しにやってみたら抜けた――という作り話のような説明を、私は他の召使いから受けていた。
「じゃあ、失礼します」
バクも靴を脱いでベッドの上にあがった。中央あたりにお尻を落とすと、髪を少し掻いてから、遠慮がちに仰向けに寝た。頭は……私の膝の上だ。
当然ながら、仰向けになった彼と目が合う。
彼はすぐにその黒い瞳を逸らした。端正だがまだあどけない顔は、ランプの明かりの中でも隠し切れないほど赤く染まっている。これも毎度のことだ。
「これは私に任された仕事ですから。もっと当たり前にしていてよいのですよ。恥ずかしがる必要はありません」
「いや、でも。やっぱり、ちょっと……恥ずかしいかな、って」
バクはそう言うと、さらに小さな声で付け加えた。
「こんなかたちでやってもらってるってのは、くれぐれも内緒で頼むよ?」
私は一つうなずくと、彼の額に右の手のひらをフワッと置いた。
回復魔法は自然回復の速度を大幅に加速するものであり、頭部にかけることで最もその効果を発揮する。
「では始めます」
精神を集中し、魔法をかけ始めた。
救国の英雄バクへ回復魔法をかける――。この仕事は今のところ、私にしかできない。
なぜか彼の体は、普通の使い手の回復魔法をかけてもほとんど効果がない。自然回復と回復速度がそれほど変わらないのである。しかし私は魔法がかなり得意であったおかげか、彼の体に対しても効果が認められた。
ただ、彼の体質なのか、あるいは逆に効きすぎてしまったのか、初回は椅子に座った状態でかけたところ、途中で彼が気絶するように寝てしまい転げ落ちてしまった。それからいろいろあり、今では城の中の私の部屋で、膝枕状態でかけるようになっている。
彼に回復魔法が利きにくい原因は、今現在も不明となっている。城の学者は「伝説の装備を使えるようになった代償ではないか」と言っていたが、それを証明するすべはない。
バクは目を閉じて回復魔法を受け入れていた。
手足から力が抜けていくことがよくわかる。部屋のランプの炎の揺れにより、彼はまるで橙色のお湯に仰向けで浮かんでいるような姿に見えた。
そしてやはり、若い――。
目をつぶって無防備に脱力している彼の顔は、十五歳という年齢相応の、まさに少年のものだ。
「相変わらず、帝都民の前で話しているバクとは別人に見えますね」
「……そう?」
薄目を開け、少し恥ずかしそうに聞き返してくる。
「はい。いつも演説のときは立派なことを言っているせいもあるかもしれませんけど」
バクが出陣や凱旋などで帝都民へ演説しているときは、私もそれがよく見える位置で聞いている。そのときの凛々しき姿の彼と、いま膝の上にいる彼は、とても同一人物とは思えないのである。
「前にも言ったと思うけど……あれは宰相の指示で……文官の人が原稿を作ってくれているんだ。だから……俺はそれを覚えて、その通りに……読む……だ……け…………」
まだ言葉は途中だと思うが、声は沈むように消えていった。
これまたいつものとおりで、しゃべっていようが、その途中で眠りに落ちてしまうのである。そして回復魔法をかけ終えてしばらくすると、彼は自然と起きる。
今日も、そうだった。
そろそろかと思っていたところで、パチリと目が開いた。
「あ、ごめん。寝ちゃってたみたいだ」
「ええ。ずっと気持ちよさそうに寝ていましたよ」
「……」
元どおりになっていたはずのバクの顔の色が、ふたたび真っ赤になる。
彼は頭を掻きながら起き上がると、ベッドから降りて剣を腰に着けた。
「ありがとう。またよろしく頼むよ」
そう言って、逃げるように退室した。
これも普段どおりである。やはりその姿は、帝国民が知る“救国の英雄”のそれとは程遠かった。
もっとも……。
帝国民はうまく騙されているようだが、人間族は正当な理由があって周辺種族と戦っているわけではない。その実はおそらく、領土拡大のための侵略戦争だ。だから“救国の英雄”なる称号はインチキで、本当は“侵略の英雄”とでも呼ぶべき――私はそう思っていた。
なぜそれを知っているかというと、私が実は帝国民ではないから。
いや、もっと正確に言うと、私は人間ではないからだ。