「ル、ルール?」
「特別ルールその1、ご友人以外ミラ姫には話しかけてはいけない。ルールその2、ご友人以外ミラ姫の座席から5メートル以内には座ってはいけない。の2つよ」
冷静かつ冷徹な口調で告げられたその言葉に、マイロはますます動揺を隠せなかった。
「な、何だそのルール……そんなの聞いたことないんですけど」
「ミラ姫の安全を守るためにできたルールよ。知らないの?」
マイロは驚きのあまり、思わず反論しそうになった。
彼とミラとの距離はせいぜい5メートルほどで、何か危害を加えることはないだろう。そもそも会話もできないような距離だ。
しかし、周囲の学生たちが少しずつこちらを気にし始め、マイロは思わずしどろもどろになってしまう。
「えっと、すみません。俺、ただ講義の聴講に来ただけで……」
言い訳しようとしたマイロは、思わず帽子を目深にかぶった。
だが、それが仇となったのか、女子大生の目はさらに鋭くなる。
「あなた……何年生!? どこの学部!? 名前は!?」
その問いに、マイロはますます動揺し、どう答えようかと迷ったその瞬間だった。
「カトリーナさん!」
突然、柔らかな声が場を包み込むように響き渡った。
マイロとカトリーナは振り返ると、そこにはミラが立っていた。
彼女は困ったように微笑みながら、カトリーナの肩を軽く叩く。
「ここは大学なのよ。みんな平等で、特別扱いなんてないっていつも言っているでしょう?」
「でもミラさん……!」
「その特別ルールも、止めてっていつも言ってるじゃない? ね?」
その言葉に、周囲の空気が和んだように感じ、マイロもほっと一息つくことができた。
しかし、手を伸ばせば届きそうな程の間近にミラが接近した為、マイロは大袈裟に目を逸らす。
(しまった。やばい、バレる)
マイロは非常に動揺していた。
毎日顔を合わせている間柄だ。
もしミラが彼の顔をじっくりと見れば、すぐにでもパパラッチが講義室まで追いかけてきたことを疑われ、通報される可能性がある。
そんなことになれば、夢だった自然史のカメラマンへの道どころか、ジャーナリストとしてのキャリアにも暗雲が立ち込めるだろう。
「あなたもごめんなさい。気にしないでね。席もそのままで大丈夫ですから」
しかし、マイロの不安とは裏腹に、ミラはルビー色の瞳を細めて、優しく微笑みながら言った。
その微笑みと瞳の色が、まるで彼の動揺を見透かしているようで、マイロは思わず声を震わせて「い、いえ大丈夫っす」と答えた。
ミラはふふっと軽く笑いながら、カトリーナを彼女の仲間のグループへと連れて行った。
そしてミラは、カトリーナから少し離れた場所にある元々座っていた席に戻り、静かに座った。
(いや、あのカトリーナっていう子、別グループかよ!)
どうやら、ミラを守るために動く学生もいるようだ。
特別に仲が良いわけではないのに、それでもそのように行動するとは、マイロは改めて彼女の周りの結束の強さに驚かされる。
そして自分がどれだけ軽率に行動していたかを痛感した。
(杜撰な行動は、もう慎まないと)
心の中で自分に強く言い聞かせると、マイロは一旦離れた席に移動することにした。
一方ミラは、元の席のまま、友人らの談笑に耳を傾けつつ、頭の中で答え合わせをしていた。
帽子は目深だったし、いつものジャージじゃなかったし、眼鏡だってかけていたけど、さっきカトリーナに叱られた男の正体について、ミラはとても真剣に考えていた。
(――さっきの男の人ってマイロじゃない!?)
そしてすぐに正解を導き出した。
(他人の空似!? でも、あの顔、どう見てもマイロだわ。あ、でも大学はもう卒業しているはず……。聴講生?)
友達とのおしゃべりに夢中になっていたせいで気が付かなかったけれど、ミラから見て斜め後ろに座っている男は、ミラが思いを寄せるマイロ・ガルシアだった。
いつものジャージ姿ではないけれど、全身真っ黒だし、変装のつもりなのか黒ぶち眼鏡をかけている。
(確かに登校した時『マイロいないなぁ』って思ったのよね! ど、どうしよう。マーゴットを呼んだ方がいいのかしら?)
なぜ大学にマイロがいるのかミラにはすぐ分からなかったが、まず、この事態をマーゴットに報告すべきだろうか。とミラは悩んだ。
ジャーナリストには『ターゲットをプライベート空間まで追うべからず』という暗黙の了解があるはずだ。
つまりマイロはご法度を破って大学構内にいることとなる。
(あ~! マイロが眼鏡かけてるぅ! レアすぎるぅ~! 写真撮りたい……!)
とはいえ、好きな人のレアな姿をもっと見たいと思うのも本音であった。
優秀なミラは冷静に対処しなければならないと考えた。
動揺を隠すために、目を大きく見開き、ノートに予習してきたことを手元も見ずに完璧に書き写す。
まるで修行僧のようなその姿勢で、ミラは自分を落ち着かせようとした。
「ミラちどしたの? そわそわして」
ミラにリップを借りたベラが不思議そうに聞いた。
ミラはベラの顔も見ずに「何でもないわ」とロボットのように返した。
「ほ・ん・と・に?」
「ほんとだもん」
それでも何か違和感を感じたベラは、マイロの方に視線を向け、じっと彼の顔を見つめた。
その後、他の友人に小声で話しかけた。
「ね、さっきの男の人って前からいたっけ? 黒髪の、と・の・が・た♡」
「えー。どうだっけ? 分かんない」
流石は花の女子大生。見慣れない男を見るなりにジャッジが始まる。
ベラたちはマイロを旋毛から足の先まで舐め回すように見ると、一斉に「ふーん」と意味深な相槌を打った。
「ミラち、あの人知り合いなの?」
「し、知り合いというか、顔だけ知ってる。親しくはないけど……」
「へぇ~。ミラち、あれ好みなんだぁ?」
「べ、別にそういうわけじゃないわよ! イケメンとかかっこいいとか、何にも思ってないわよ!」
ミラは顔を真っ赤にしながら答えたが、友人たちは一様にぷっと噴き出す。
「イケメンかどうかなんて聞いてないわよ」
「残念だけど、イケメンではないわ」
「顔が怖いし目も死んでる」
友人らは立て続けに否定するので、ミラもさらに熱が入る。
「あれは可愛いって言うのよ!」
「「「あ~」」」
ミラの態度で友人らも色々察した様だった。
「わ、私お手洗いに行ってくるわ」
ミラは化粧道具一式を持ってトイレへと走った。
口紅を塗り直し、チークとハイライトを入れ、念のために歯磨きしてミントタブレットまで口に放り込んだ。
(とりあえずマーゴットに連絡するのは無し。王女らしい振る舞いさえしておけばパパラッチ対策は大丈夫! まずは気付かなかったふりして、マイロを泳がせる!)
身だしなみを整えながら自分を奮い立たせる。
(いつから見られていたんだろう? ランチのチョイスも間違ってなかったかしら? 今日はパスタにしておいたけど変じゃなかったかな? 香水も振りすぎてないかしら? 髪型は? 私、あくびしてなかった? あぁ、もう、全部気になる……!)
ミラは数々の疑念を抱えつつ、足早に教室へ戻った。
大学では「ミラ姫こんにちは」と声をかけてくる人はいない。それは特別ルールその1のおかげだ。
ミラは特別扱いが嫌だと思う反面、そのおかげで普通の大学生らしい生活を送ることができている。
複雑な気持ちで、まるで競歩のように歩き続けた。
(とはいえ、カトリーナさんが注意したおかげで、マイロはもう遠くの席に移動してしまったかもしれないわよね。とほほ……)
「あっミラ! こっちこっち! ほらジャック挨拶して!」
「ど、ど~も~…………」
席に戻るとミラの友人軍団の中に、非常に気まずそうな顔をしたマイロが混じっていたので、ミラは思わず腰が抜けそうになった。
そして一番にやけているベラに「どうして彼がいるのよ!?」と聞き出そうとしたが、ベラたちはまぁまぁ! とミラを落ち着かせようとする。
どうやらマイロは本名ではなく『ジャック』という偽名を名乗ったらしい。
マイロは女生徒に囲まれてしどろもどろしていたが、その辺りはジャーナリストとしてのプロ意識が働いたようだ。
「どうして、マ、ジャ、ジャック? ジャックっていうの? 何であの人がいるの!?」
ミラは驚きと混乱で顔を真っ白にして問い詰めると、ベラたちはにやりと笑って答えた。
「彼が気になるんでしょ? だから無理やり連れて、き・ちゃ・っ・た♡」
ベラたちはまるで面白いおもちゃを見つけたかのように、ミラの反応を楽しんでいる。
ミラは困惑しながらも、冷静を装いながら必死で続けた。
「でも、私、男友達もそんなにいないのに、男の人とすぐお話しできないわ!」
「そんなの『こんにちは』って話しかけたらいいわよ、それに、グループでいれば、マーゴットさんに怒られそうになったとき私たちの誰かの彼氏だって言い訳できるでしょ?」
――さすがにこの接近は見過ごせない。今すぐマーゴットに報告しよう。
そう考えていたはずなのに、友人たちの甘い言葉にミラはその決断を留まった。
「た、確かに」
ミラが大学に通う理由は、必要な経験を積むためであった。
王室の中だけで育ったミラは、一般市民の暮らしや考えを深く学ぶことが大切だと考えていた。
王族としてより素晴らしい人材に成長するためには、外の世界を知り、経験を積むことが欠かせない。
だから、どんな形でも多くの人と交流を持つことが望ましい。
見聞は広く深く。
可愛い子には旅をさせよ。
自分の成長は、巡り巡って国のためになる。だから、友人の彼氏と少し会話をするくらい、大したことではないとミラは思った。
何事も経験であり、それが最終的に自分を、そして国を豊かにする手助けとなるのだと信じていた。
「よろしくお願いしまぁす♪ ジャックさん♪ ミラでぇす♪」
「は、はぁ……」
ミラは自分の欲望に負けてしまった。
せっかくのチャンスを逃すまいと、意を決してマイロの隣にすっと座った。
心の中で少し焦りを感じながらも、マイロとの会話を始めることにした。