「異動を希望します」
マイロ・ガルシアは、狭いミーティングルームで開口一番、異動願を切り出した。
部屋の隅で煙草代わりのキャンディを舐めていた上司が、けだるげに眉をひそめる。
「異動って、美術書のとこぉ?」
気の抜けたその返事にマイロは一瞬たじろぐが、すぐに口元をきゅっと引き締め直した。
「そうです。前から異動願出してますよね」
「願われても、ビジネスニーズだからねぇ~こういうのは」
「……あ、新しいポートフォリオ作ってきたんで、見てください」
「ん~。はいはい見せてくれる?」
上司はマイロからポートフォリオの入ったファイルを受け取ると、1枚ずつページをめくる。
「ボツ、ボツ、ボツ、……。鼻紙にもならんわ」
そして無表情のまま評価を続け、バンッとファイルを机に投げつけてから、酷く冷淡に言った。
*
「また駄目だったのかマイロ」
デスクで項垂れるマイロを同期の男が厭味ったらしく軽口を叩いた。
マイロは何か言いたげにぎろりと同期をにらんだが、うまい返しが出てこず結局黙りこむ。
「いいじゃんミラ姫担当。美人だし目の保養じゃん」
「そういうんじゃ、ねーんだよ」
「はいはい。夢なんだよな? 風景写真家が。グラビアじゃなくって!」
マイロが『ミラ専門グラビアカメラマン』と揶揄されていることは、言葉にせずとも皆知っていることだ。
針金みたいに細い眉毛がワイパーのようにシャカシャカと動いていることがやけに気に障る。
同僚は鼻で笑いながら続けた。
「悩んでるなら相談くらいのるよぉ~? なんたって俺は、社内優秀賞に選ばれたんだからさぁ? 力くらいなるじゃんね~?」
同期が鼻で笑いながら言うのを聞き、マイロは思わず舌打ちした。
だが、どう言い返せばいいのか分からず、悔しさを飲み込むしかなかった。
「うるさいな。あっち行けよ」
虫を追い払うように強く言い放った。
「遠慮せず
そう言い残して、同期は軽い足取りで去っていった。
マイロは舌打ち混じりにため息をつき、イライラしながらラップトップを開きなおす。
(何だよあいつ。たまたま政治家のポカした瞬間に出くわしただけのくせに実力だと思い込みやがって)
画面に広がる文章ファイルを開き、マイロは一瞬うんざりしたように目を細めた。
何千もの文字が詰まったその羅列に圧倒されそうになりながらも、気を取り直して文字を追い始める。
校正箇所にマークをつけ、ひたすら集中して作業を進めていたが、ふと気を抜いた瞬間、深いため息がこぼれた。
(……担当雑誌が違うとはいえ、最初は俺と同じ、どうでもよさそうな記事の担当だったのに)
ふと手を止めて、昔を思い返しながら、マイロの眉間には自然とシワが寄る。
作業に戻ろうとするたびに、同期の鼻に付く笑顔がちらついて仕方がなかった。
そして、自然と先ほどの1on1で上司が言った言葉が頭をよぎる。
――お前、どうして自分がミラ姫の担当者になってるのかよく考えろよ。編集長は適正を見抜いてお前をミラちゃんとこに配属してんだぞ。
「……適正って何だよ」
「いい写真だと思うけどねぇ」
「ひゃあ!」
耳元に息を吹きかけるような声に、マイロは驚きのあまり椅子から尻を浮かせるほど跳ね上がった。
オフィス中の視線が一瞬こちらに集まるが、誰もがすぐ自分の作業に戻る。
「びっくりしすぎ。またデスクに相手にされなかったんでしょ」
軽口を叩きながら笑うその声に、マイロは振り向いた。
「リ、リザリー先輩」
そこに立っていたのは、マイロがインク・メディアにインターンとして入社した時からの知り合いであるリザリーだった。
リザリーはデスクに置かれたポートフォリオのファイルを手に取ると、ゆっくりと1枚ずつページをめくり始める。
「この、銀杏並木を歩く親子の写真とかいいじゃない」
「……あざす」
マイロはぼそりと答えた。リザリーは写真に視線を落としたまま、軽く微笑む。
「マイロの写真は温かみがあるし、私は美術書系の仕事向いてると思うけどなぁ。それで、公募は続けてるの?」
その一言にマイロの目線が少し下がる。
彼は以前、リザリーからのアドバイスで、大手写真コンテストへの応募を始めていた。
大賞を取れればカメラマンとしての実績になるし、美術書チームから声がかかるかもしれないという期待があったからだ。
「……かすりもしてないです」
短い返事に、マイロの声は少し沈んでいた。
現実は非情だ。佳作どころか、名前が掲載されることさえ一度もない。
「あー。ま、そんなもんだよ。気にしないの」
リザリーは肩をすくめながら、思い出すように言葉を続けた。
「私だって最初は名前も知らない女優のゴシップばっかり書かされて、毎日辞めたいって思ってたわ」
彼女は懐かしむように目を細め、クスッと笑った。
「それでもがむしゃらに頑張ったから、今こうして楽しく仕事を続けられてるの。マイロだってきっとミラちゃんに真摯に向き合っていれば、きっとチャンスがあっちからお土産もってやって来るわよ」
「俺は姫さん撮るのが適正ってことですか?」
「さぁ? 私は順応って呼んでるけど」
リザリーは励ますように言ったあと、ポートフォリオをそっと閉じてマイロに返した。
「美術書のことは置いておいて……。マイロの記事は好評じゃない。美容垢がマイロの写真を無断転載してるのよく見るし……。大体、編集長だってマイロの仕事ぶりにはいつもご満悦よ。ゴシップ紙とはいえあぁいうほんわかする記事が1本はないとってね」
リザリーは彼の仕事を誉めた。けれど、マイロの表情は硬いままだった。
「……担当のミラ様に文句はないっすよ。ただ、いい子過ぎて、スキャンダルが狙えそうにないというか」
「スキャンダルスキャンダルって。別にスキャンダルだけが売れる記事じゃないでしょ?」
「クリーンな記事だけじゃ評価されないのが現実でしょう。俺はファッション誌のカメラマンじゃない」
「うーん。でもマイロ、あの子でそういうの書きたくないんでしょ?」
リザリーがさらりと指摘すると、マイロは少し動揺した。