そのころマイロは自転車を止めて、行きつけのパン屋でトングを片手にパンを選んでいた。
(腹減ったぁ。朝ご飯にするつもりで買ったパン、我慢できなくて夜のうちに食べちゃったからなぁ)
25歳のマイロはまだ食べ盛りが続いている。
マイロは所持金と相談しつつ、クロワッサンとサンドウィッチ、さらにおやつのクッキーにコーヒーをテイクアウトして店を出た。
そしてさらに5分ほど自転車を走らせると、マイロは王立公園内に入り、そのまま公園の中央にある池に到着すると、空いているベンチに座った。
気温は低いが天候に恵まれたため、大勢の観光客や親子が公園内を歩いていた。
点々と生えた樹木はすでに葉が落ちているが、芝刈りされた広場は芝生は瑞々しく、美しい景色を作り出すのに一役買っていた。
そしてその芝生には、灰褐色の羽のハイイロガンの群れが餌を探すために集まっている。
特に池の周りでは大量のハイイロガンが、餌を探したり、羽を休めたりして、安寧の時間を過ごしていた。
マイロは横目でそのような景色を見つつ、紙袋からクロワッサンを取り出すと、そのまま人目も気にせずかぶりついた。
まだ温かいバターの香りが鼻腔をくすぐり、マイロの食欲をさらに増進させた。マイロは飲み込まないうちにさらにもう一口齧り取ると、口の中をクロワッサンでいっぱいにして幸せに浸った。
名残惜しいと思いながらも、甘くて香ばしいクロワッサンを飲み込んで、コーヒーを一口飲む。
(やっぱりここのパン屋が特別区の中で一番うまいや)
マイロは美味に浸りながら、指で四角形を作り、目の前の景色を切り取っていた。
そしてマイロはクロワッサンの最後の一口を口に押し込みカメラを構えると、思うがままに写真を数枚撮った。『カシャカシャ』とシャッターの開閉音が小さく周囲に響く。
(王立公園だけあってやっぱ綺麗だなー)
その後もマイロは公園の景色を夢中で撮り続けた。
まるで印象派の絵画のような美しい景色に、ハイイロガンの親子が毛づくろいをする姿。
冷たい空気が伝わってくるような、木枯らしの吹く葉の枯れた樹木がそびえる並木道。
カメラ越しに見る風景はどれもマイロにとって素晴らしい被写体だった。カメラ内のSDカードの容量も十分空きがあるし、マイロは気が向くままにシャッターを切り続ける。
一方その頃、ミラたちは慎重に距離を保ちながらマイロを追っていた。
シェアサイクルのハンドルを握る手は緊張で微かに震え、息を潜めて物陰から様子を窺う。
「ずっと写真撮ってる……」
「ほんとにカメラが好きなんですねえ~」
モーヴは物陰からマイロの様子を観察しながら、感心したように呟いた。
「だから言ったでしょ。マイロはただのカメラマンじゃないの。本当に写真が好きで、情熱を持ってるの」
変装姿のミラは瞳を輝かせてマイロを見つめていた。自慢のブロンドは帽子に隠し、ヒューゴに借りた度のない眼鏡を掛けている。服もヒューゴの上着を借りているので、まるでそうしたファッションを好む女性のような雰囲気を漂わせていた。
「ふふ……マイロ、あんなに夢中になってかわいい……少年みたいね……」
ミラは私物の双眼鏡で、カメラを構えるマイロを見守っていた。その隙に、ヒューゴはモーヴに「ちょっと」と声をかけると、ミラに聞こえないように小声で囁いた。
「俺も思わず同意してついてきたけど、これはバレたらマーゴットさんに怒られるぞ」
「ヒューゴ、今更怖気ついたのぉ〜?」
双子の兄を小ばかにするようにモーヴが笑ったので、ヒューゴは「違うさ」と冷静に続けた。
「ミラ様の背中を押すようなこと、考えなしにやってるんじゃないんだよな? っていう確認だよ」
「うーん。ヒューゴはどう思ってんの? この前マーゴットさんが言ってたこと」
ヒューゴは、それが『ミラが自由に恋愛をする立場にない話』だとことをすぐに察した。
一方、ミラは変わらずマイロを熱心に観察し続けている。
その間も2人は、周囲の状況に目を配りながら、SPとしての任務をこなしつつ、会話を続けていた。
「…………あの男がせめて、男爵の位でも持っていれば違ったのかなと思っているよ」
「だ~よね。あ~あ、貴族階級よ~、王家のつまらない見栄よ~、今すぐ消え失せたまえ~」
モーヴは映画で見た祈祷師の真似事をしながら冗談っぽく言った。
「私は姫に傷ついて欲しくないけど~。――後悔もして欲しくないだけだよ、ヒューゴ」
「さすが俺の妹。同意見だ」
「さすが私の兄。双子って気が合うじゃーん」
「モーヴ! ヒューゴ! 何してるの!?」
血相を変えて振り返ると、ミラは大慌てでそばに置いていたシェアサイクルのハンドルを握っていた。
双子は、ミラに秘密の会話が聞こえてしまったのか一瞬心配になったが、見えたのはつい先ほどまでベンチで休憩していたはずのマイロ・ガルシアが、自転車に乗り、その場から去っていく後ろ姿だった。
既に彼は小さな点ほどの大きさになり、遠くへと消えつつあった。
「早く自転車に乗って! マイロが行っちゃうわ!」
ミラの焦る声を聞いた双子は、一瞬顔を見合わせてふっと笑い合った。
「あ~はいはい。分かりましたよ~。ちょっと飛ばしますからね?」
「ミラ様ヘルメットしてくださいね」
「もちろんよ!」
*
その後、ミラたち3人とマイロは、公園を2件もはしごし、街中を縦横無尽に走り抜けた。さらには、世界中の財宝が詰め込まれた博物館をわざわざと徒歩で外周したかと思えば、再び自転車にまたがり、とうとう国の中心部へとたどり着いた。
ランドマークである時計塔の前で、マイロは入館チケットを買おうとしていた。それを見たミラたちは慌てて時計塔の管理者に連絡を取り、一般人が入館できないよう手配を進めようとした。
ところが、マイロは注意書きに【撮影禁止】の文字を見つけるなり、「なーんだ」と肩をすくめる。
「じゃあいいや」
そして、まるで未練がないかのようにチケット売り場から抜けると、さっさと立ち去ってしまった。
「あ、あの男、すぐ諦めやがった……わざわざ貸し切ったのに」
「別に貸し切りまでしなくていいのよ。でもありがとう2人とも」
苛立ちを隠せないヒューゴたちをなだめるように、ミラが柔らかい声で言葉をかける。その頃、マイロはやや残念そうな表情を浮かべながら駐輪場へと向かっていた。
「次どこ行こ」
そんな風にポツリと呟く彼の姿を、数メートル後ろからミラたち3人が静かに尾行している。ミラの瞳は、どこか楽しげで輝いていた。
「姫~。話しかけるなら今ですよ」
モーヴがミラを唆すように小声でささやいた。
もし今マイロが振り向けば確実にミラの存在に気付く距離だったが、パパラッチするためにミラたちを尾行することには慣れていても、尾行されるだなんて微塵も思っていないマイロは、3人の気配に全く気が付いていないようだった。
「ほら、偶然を装って話しかけちゃいましょうよ。ショッピングにでも誘ってみたらどうですか?」
「それか俺たち3人一緒に突撃しますか? それなら恥ずかしくないでしょう?」
モーヴとヒューゴはまるで悩む妹を導くように声をかけるが、ミラの瞳には迷いが宿っていた。
確かに、彼らの協力を得れば、マイロとの距離はぐっと縮まるだろう。デートにはならなくても、せめて連絡先を交換するくらいはできるかもしれない。それでも、ミラの心にはまだ一抹の不安が残っていた。
彼女は一生懸命にマイロの背中を目で追いながら、深く息を吸い込む。
そして、もう一度2人の方を見つめ、静かに微笑んだ。
「……ううん。やっぱりいいわ」
「えぇ!? ここまで来て」
「だってマイロ、楽しそうなんだもん」
ミラは眼鏡を外しながらマイロの背中を見送っていた。
街路樹の落葉が敷き詰められた絨毯の上を歩きながら、街中の秋から冬に変わる景色を観察している。
きっとマイロはカメラのことが頭いっぱいなのだろうとミラは感じる。まるでそのことを証明するかのように、マイロは立ち止まり、カメラを構えて静かにシャッターを切り始めた。
「マイロは本当に写真が大好きなんだって分かっただけでも充分」
ミラは自分のスマホを取り出し、撮影するマイロの姿を静かに収めた。
パシャッという電子音が1度だけ響き、ミラはその写真を確認する。画面に映るマイロの姿を見つめながら、彼女は満足そうにほほ笑んだ。
「盗撮しちゃった。えへへ」
「いいんですか?」
「うん。邪魔したくないし」
ミラは爽やかに笑うと秋風が優しく吹き抜ける。ミラは帽子を脱いで眼鏡をはずすと、目を細めてさみしそうに笑う。
「どうせ私はマイロに好きだなんて伝えることできないもん。だから余計なことはしない。今は片思いを楽しむって決めてるの」
ミラの儚げな表情にモーヴは言葉を詰まらせた。
恋盛りの20歳の女性が、自分の立場を考えて踏みとどまると決めている。
「推し活ってやつ? 私はそういうのでいいの。私の一方的な『好き』だけで幸せだから」
それがどれほどつらく悲しいことだろう。モーヴは切ない表情をみせ、ヒューゴに至っては少し泣きそうに目頭を熱くしている。
それでもミラは「気にしないで」とでもいうようにぱっと明るく笑ってから言った。
「あはは! 久しぶりに自転車に乗ったの楽しかった! ……それに、忘れちゃったの?」
「え?」
「今日は2人と一緒にショッピングへ行くって約束していたじゃない! ほら、行きましょ!」
そう言ってミラは笑うと、2人の手を引いてマイロとは反対方向へ歩いた。モーヴとヒューゴは最初「えぇもったいない」と言ってミラを説得しようとしていたけれど、ミラは聞く耳を持たず2人の間に挟まり、「2人とも大好き!」と無邪気に叫んだ。
仕方ないなという風に絆された顔をした2人は、分かりましたよと言ってミラを護衛しつつも近所の百貨店へと歩いて行った。
そしてその3人の背中を追うように『カシャ』とシャッターを切る音がした。
(仲がよさそうな3人だなぁ。学生かな)
マイロはシャッターを切った後、静かに3人の背中を見つめた。
カメラのモニターには肩を寄せ合い笑顔で歩くミラ、モーヴ、ヒューゴの姿が映っている。
顔は見えないが、強い信頼関係と温かさが感じられ、写真を通してその幸せな瞬間が伝わってきた。
(いい写真だな)
冬の青空に向かって聳え立つ時計台と3人の笑顔はまるで映画のワンシーンのように美しかった。
マイロもその光景に、自然と微笑みがこぼれそうになる。
(……データをあげれば喜ばれるんだろうな。でもやっぱ、声かけらんね~)
意気地のない自分を嘲笑しながらマイロは再び自転車にまたがると、地面に落ちた葉を風で蹴散らしながら、素晴らしい冬の景色に出会う旅へと向かう。
(それにしても見覚えのある3人だったような……)
その感覚が気になりつつも、マイロは自転車のペダルを踏み込んで、冬の街並みに溶け込んでいった。