ミラはこの国で13番目に王位継承権を持つ、どこに出しても恥ずかしくない王女である。
しかし、彼女は今、鏡の前で自らの美しい顔を見つめながら、真剣なまなざしで考え込んでいた。
「マイロに会いたくない……」
話は2時間ほど前に遡る。
*
「えぇ? スミスさんおやすみですか?」
大学で学びながら、王族として人前に出ることも多い彼女にとって美の維持は重要な使命だった。
そのため、ミラは3~4週間に1度の頻度でトータルビューティサロンに通っている。ネイル、エステ、美容皮膚科の診察などを同時進行で受けられるこのトータルビューティサロンは、彼女にとって欠かせない存在だ。
しかし、サロンに到着したミラを待っていたのは、店長からの謝罪だった。
どうやらミラがいつも指名している美容師が急用で休んでいるらしい。
「大変申し訳ございません。別の美容師で対応させていただきたく存じます。責任をもって施術をいたしますので……」
「あぁ、いえ大丈夫。気になさらないでください」
誰だって仕事を急遽休まなければならないときはあるはずだ。ミラは柔らかく微笑んで、すぐに担当が不在であることを受け入れた。
だが、それはそれとして、頭を悩ませることになる。
(とはいえ。私、髪の毛だけはスミスさんにやってほしいのよね)
ミラの髪はとても美しいブロンドだ。
ナチュラルで絹のような質感の髪は世間の女性達からも注目を浴びており、『ミラ様ご愛用』という触れ込みで売り出されるアイテムはSNS上でもバズりやすい。ただし、そうやって紹介されるシャンプーの大半をミラは見たことも聞いたこともないのだが。
(私の髪の毛は、柔らかくて細くてとにかく扱い辛いのよ。下手な美容師にはやってほしくないわ)
ミラがいつも指名しているスミスは、ミラがどんな無茶な注文をしようがその期待を決して裏切らない卓越した技術の持ち主だ。
予約が2年先まで埋まっているカリスマだというのに、ミラのためならどんなに忙しくても特別に時間を割く点においても、ミラはスミスに全幅の信頼を置いていた。
だからこそ、これがネイルやエステなら妥協してもいいのだが、髪だけは譲れない。
スミスの信頼を裏切ることになることは避けたかったし、ミラだってスミスの施術を楽しみにしていた。
(かといって、できれば今日受けてしまいたいなぁ。予定が詰まってるんだもの)
ミラは悩んだ。
今日だけ妥協して、スミス以外の美容師に担当してもらうか。
それとも妥協せず、スミスが復帰するまで待つべきだろうか。
店長が言うには、代わりの美容師はスミスの一番弟子で、サロンの中でも抜きんでた実力を持つ者らしい。
お任せしてくれればきっと満足のいく仕上がりになると、店長は自信をもってミラに申し上げていた。
「――店長がそこまで言うなら……」
ミラはとても悩んだが、自身の予定や髪の毛の調子のことも考えると、やはり今日施術を受けてしまうのがベストだと考えて、施術することにした。
それが数時間前の話。
*
「失敗した!!」
トータルビューティサロンのパウダールームで、ミラは声にならない声で叫んだ。
鏡を見た瞬間ミラは息を呑んだ。
いつもよりも膨らんでいてキューティクルが死んだかのような髪。
注文よりも短い前髪と、不自然に見えるレイヤーの入り方。
コテで巻いたわけでもないのに全体的に髪はなぜか強くうねっていた。これではただのみっともない寝癖の様だ。
一番弟子は若いが経験豊富という触れ込みで施術をしてもらったが、今思えばとても緊張していたように見えた。
会話もぎこちなかった気がするし、ミラからの注文が上手く伝わっていなかったのかもしれない。
(とはいえ、トリートメントと毛先のカットだけのはずなのに、ここまで変わるの!?)
ミラは何度も鏡の中の自分の新しいヘアスタイルを見る。
ヘアアレンジすればマシになるかと思い、耳に髪をかけたりハーフアップにしてみるがどれも微妙だ。全く気に入らない。
「落ち着いてミラ。これは私の目が肥えているだけ」
自分に言い聞かせるように呟くと、ミラは深呼吸を重ねて瞼を閉じた。
「ちょっと気になるだけなのよね? 大丈夫。落ち着いて。目を閉じて開ければ、いつも通りの素敵なミラに戻ってるわ」
そしてゆっくり目を開いてみる。が、鏡の中には納得いかない仕上がりに渋い顔をしたミラが写っているだけ。
ミラは何でもいいから「んもう!」と鬱憤をぶつけたくなった。
「どうしよう、外でマイロが待ち構えてるのよ。完璧な私じゃなきゃ会いたくないのに!」
マイロは『ミラのファッション』とは別に、ヘアメイクに言及することもある。
ヘアアレンジをした日には必ず使用したヘアピンやリボンのブランド名を特定しているし、特定が難しかった時でも何らかのコメントを残している。
化粧だって、ピンクの口紅から真っ赤な口紅に変えた時も、「ネイルとお揃いの真っ赤なリップが美しい」という一言が添えられていた。マイロはいつもやる気はないものの、細かいところまで見ているし、何だかんだでしっかりと仕事をしているのだ。
「ミラ様、先ほどから気にされているようですが、大丈夫です。いつも通りお綺麗ですよ」
すぐそばで待機していたマーゴットがとても冷静にミラを宥めた。
「いつも通りお美しいですよ。完璧な仕上がりです」
「見てよ。左右のバランスがおかしい気がするのよ。これじゃあ人前に出られないわ」
鏡を見て泣きそうになっているミラにマーゴットは近付いて、ブロンドの髪先を軽く真下に引っ張った。
「ほらミラ様見てください。左右同じ長さでございます」
「変なウェーブかかってるし……」
「直後ですから強く出ているだけです。人が変わりましたから、ほんの少しの癖の差が気になるだけでしょう。家でシャンプーすればいつも通りです」
「でもぉ……」
「大丈夫ですよ」
ミラが触りすぎて乱れた髪を、マーゴットは櫛で丁寧に梳いて整え始めた。
「本日ミラ様の施術をされた美容師は、きっとスミス様からまともな引き継ぎをする暇もなかったはずです。その中で美容師はよくやりました」
櫛で髪の毛を梳く手元は優しかったが、マーゴットは娘を叱るような口ぶりで続けた。
「ですからパウダールームでこれ以上長居はされないでください。あと5分でも居ようものならあの美容師の胃に穴が開きますよ。立場をわきまえなさい、王女ミラ」
担当美容師が変わった途端に王女がパウダールームから出てこなくなったという事態が外部に漏れれば、そのサロンの評判だけでなく、経営にも深刻な影響を与える可能性がある。
それ以上に、一生懸命に仕事をしてくれた相手を軽んじるような行動は、王家の品位に反する行為だ。
ミラにそれを自覚させるため、マーゴットは毅然とした態度で彼女を叱りつけた。
王女の行動を正しつつ、彼女のプライドを傷つけないようにする――マーゴットの役割には、こうした細やかな配慮が常に求められている。それは、実に気を遣う難しい立場であった。
けれど、聡明なミラはすぐ自分の幼稚な行動を反省し、しゅんとした表情で謝罪した。
「そうよね。私王女だもの。ごめんなさいマーゴット」
そして瞬時に鏡に向かってとびっきりの笑顔を作る。
「ニューヘアもすっご~く素敵よね♪ ねっ?」
鏡越しにマーゴットに元気な声で訊ねた。
マーゴットは満面の笑みで「えぇ!」とわざと声を張り上げて応える。そのまま2人はパウダールームを後にした。
マーゴットが扉を開けると、外にはサロンのスタッフたちが緊張した面持ちで待機していた。
ミラが扉をくぐり抜けると、店長が深々と頭を下げて出迎える。
「お待たせしちゃってごめんなさい♪」
ミラたちはその場の全員に向かって声をかけた。
「ミラ様、お気に召していただけたでしょか……?」
真っ先に声をかけてきたのは、スミスの代わりに施術を行った彼の弟子だった。
彼女は笑顔を浮かべていたものの、頬は赤く染まり、生え際や首筋にはじわりと汗が滲んでいた。
微かに震える足、ぎゅっと重ねられた両手――緊張がその全身から伝わってくるのを、ミラは一目で感じ取った。
そんな彼女を安心させるために、ミラは優しく微笑みかける。そして、震える体をそっと抱きしめながら、明るく声をかけた。
「えぇ! すごく素敵よ! 特にこのウェーブ気に入ったわ♪」
弟子の顔がぱっと明るくなったので、ミラは胸をなでおろした。自分の対応が間違っていなかったと確信し、内心ほっとしたのだ。
(それはそれとして、マイロ!!)
次の瞬間、ミラの表情は一変する。まるで戦場へと向かう兵士のような覚悟を決めた面持ちで、彼女は下界へと足を踏み入れた。
そこには、パパラッチたちが待ち構えていた。