頬を刺す冷えた風に、男は思わず震えた。
あと少しで峠を越えられるのに――。
被る笠の下から見上げた先、東の空には、鉛色をした雲が。この空模様に、冷え込み具合……、恐らく雪が降る。
案の定、重く陰る雲間から、ぱらぱら小雨が降り始めた。
「雪になるか――」
誰に聞かせるわけでもなくぽつりと呟き、男は
小雨は、みぞれへ姿を変えた。確実に、雪になるだろう。こんな所で、ふぶかれては、たまらない。
馬にまたがり行き来できる身分ではない。自分の足だけが頼りのただの小商人。
子供の頃から荷を背負い、親方と諸国の山道を歩き続けてきた。もう三十路過ぎだが、しかし、足腰には自信がある。
男は、大きく踏み出し、道を行く。
下り坂、勢いもつき男の足は軽くなり、あっという間に峠を越えた。
山と里の天気は異なる。
男に降りかかっていたみぞれは、下界の空気に解け入って再び雨へ変わっていた。
しとしと降るそれは、男の衣に染みを作り始めている。
集落まで、あとどのくらいだろう。日はまだ高いが、このままでは、濡れそぼってしまう。
脇にそれ、木立ちの中で、やり過ごそうか。
ただ、冷え込みが気にかかっていた。この冷気は、雨を雪へ変えるはず。
早く里へ入り、宿を見つけるべきだが――。
加えて、土地勘がない事で、男は、立ち往生していた。しかし、迷っていても
とにかく歩み続けた。
進めば、里に必ず入る。そこで軒先を借りる方が、木立ちの陰よりずっとましだろうと、自分を励まし、雨のなかを行く。
しばらく進むと、粗末な楼閣門が見えた。どうやら、寺のようだ。
人の気配を感じたからか、気が緩んでしまい、急いて歩いた疲れに襲われた。
履く
やもうえない。
いっとき、雨宿りをさせてもらおうと、男は門を潜った。
――なにもございませんが、どうぞ体をおやすみ下さい。
言うのは、おそらくここの
寺に使える者かと思ったが、どうも、他に人はいないようで、すなわち、一人、ここを守っている身なのだろう。
そう広くはない敷地の正面には、太柱に支えられる本殿があった。
基壇に乗る建物が発する重層感は、信仰心など持ち合わせない男ですら、自然、背筋が伸びるほどである。
さて、その脇の馬屋と見まがう質素な
「冷え込みますな。これは、雪になるかもしれません」
僧は、言って立ち上がると、仕切り戸を開け裏方へ姿を消した。
まるで女のような、華奢な僧の後ろ姿を見送って、男は火鉢に手を添える。
やけに冷えた。
侘びた
人の
あるべきはずの温もりを感じないのは、ここが修行の場だからであろう。
すっと、静かに戸が開き、僧が茶碗を持って戻ってきた。
「酒でもおだしできれば良いのですが、なにぶん、修行の身ゆえ」
やけに落ち着いた詫びる声に、男は、思わず、いずまいを正して、差し出された茶碗を受けとった。
手の中に暖かな感触がある。
白湯だろうと思い、口に運ぼうとした瞬間、ほのかな芽吹きの香りをつかまえた。
「……茶、ですか?!」
貴人でもない限り、茶を扱うことはない。
時に、気を沈める特効薬として、宮殿に献上される高級品でもあるからだ。
事実、男は生まれてこのかた、茶など口にしたことがなく、この贅沢品を、どうあつかうべきか困りきった。
「ああ、どうぞご遠慮なく」
僧は、さらりと勧めてくる。茶など、たいしたものではないと、扱いなれた感じがした。
案外、この寺は由緒ある、名刹と呼ばれている所かもしれない。だから、高価な茶などを持ち合わせているのか……。
そういえば、貴族の子息が、世をはかなんで、出家するという話をよく聞くが、それか?
僧の華奢な体付きも、色白の面長な顔も、そうならば、説明がつく。
「さあ……どうぞ、どうぞ」
とにかく、こう強いられては、実に居心地が悪い。
男は、覚悟を決めて、ぐいと茶を飲み干した。
喉に暖かな感触が流れ、口腔から鼻腔へ、新芽の香りが広がっていく。
ごくりと喉を鳴らし、男は初めての茶を
思いのほか、苦い。まるで、渋柿をかじったかのような後味が、口に残った。
「ああ、白湯と違って茶は渋いでしょう。ですが、疲れがとれますから……」
歪んだ男の顔に、すべてを悟っているかのような言葉を返して、僧は微笑んだ。
「あっ、いや、その……」
男は、頭を掻き、小さくなった。もてなしを受けておきながら、これは、ばつが悪い。
「誰でも茶は渋いと感じるのですよ。私どもは、瞑想中におきる眠気を避けるため、嗜むのですから」
修行中、居眠りをしないため口にするのだと、僧は茶の渋さを説く。
と言う事は、やはり。
茶が軽々と手に入る、徳のある高僧という事か。
男は、場違いさに押されて、さらに小さくなった。
「おぉ、お寒うございますか?」
身を縮める姿が、寒さに震えていると写ったらしく、僧は炭を持ってくると言って、裏方へ向かった。