不毛だった紅の大地。たとえそのごく一部であっても、花と水に彩られていく様は壮観であった。あのフィアですら、黙ってその様子に見とれている。
しばらくして、ティエラが立ち上がった。
小さく、感慨深そうに呟く。
「これが、紅の大地の本当の姿」
「そうだな。かつてこの地が聖地と呼ばれていた時代の、在りし姿だろう」
俺は相づちを打った。
そこに広がっていたのは、絨毯のように咲き乱れたテリタスの花と、透明度の高い池、そしてそこから流れ出す小川だった。
花が風に揺れる音と川のせせらぎが、何もなかった紅の大地に彩りを添える。
「フィア」
「はい」
「第1段階の土壌改良。とりあえず最初の壁は越えた。そう思わないか?」
「まだまだ、目指すべき場所からすると微々たる成果ですが」
クールな口調。だが、彼女の口元は微かに緩んでいる。
「確かな一歩と言ってもよろしいかと」
「お前らしい物言いだ。――さあ、ティエラ」
感激に浸るティエラに声をかける。
「新しい水源だ。飲んでみろ」
「いいんですか?」
「元々、ここは人間用のつもりだ。俺たちではこの水が人間の飲用に足るかどうかわからん」
「で、では」
緊張したように池のほとりに歩み寄るティエラ。水をすくおうとして、水面に映った泥だらけな自分の顔に気付いたようだ。慌ててバシャバシャと洗う。
顎先からポタポタと水を滴らせながら、ティエラは恐る恐る振り返った。
「あの……見ました? さっきの私の顔」
「土に汚れた顔か? 気にせずとも、アロガーン姉妹より何倍も好ましいよ。いいからさっさと飲め。涙の分だけ水分補給も必要だろう」
「あう……そこまで見られていましたか」
恥ずかしそうにしながら、ティエラは池の水をすくって口に運んだ。手で汲み上げた分を一気に飲み干すと、今度は顔ごと池に突っ込んで飲み始める。
どうやら、よほど喉が渇いていたらしい。緊張続きだったからな。無理はない。
「ぷはっ。美味しい……! こんな美味しいお水、飲んだことなかったかも」
「そうか。それはよかった。その様子だと、他の人間が飲んでも大丈夫そうだな」
「はい。
ティエラの返事に満足する俺。
フィアが言っていた水の問題がクリアできたのは大きい。
小川の先を目で辿る。小さな池が新しくできつつあった。ティエラの魔法によってできた肥沃な土と元の荒れ地との境目付近だ。
このまま開墾を続けていけば、いずれ大きな川の流れへと変わっていくことだろう。
水があれば、人間の暮らす基盤整備がさらに進められる。
功労者であるティエラの背中を見た。よほど気に入ったのか、何度も水を口に含んでいる。
俺とフィアはこの地の魔力さえあれば、しばらく水や食い物がなくても困らない。だがティエラはそうはいかないだろう。
(さすがに水だけで人間は生きられまい。今度はティエラを食わせるためのものを用意しなければな)
ひとつ障害を乗り越えたら、またすぐ次の障害が現れる。野望達成への道は果てしないが、それもまた悪くないと今の俺は思えるようになっていた。
「ティエラ。少しいいですか?」
喉を潤し終わったティエラに、フィアが声をかける。首を傾げながらティエラが立ち上がった。
「何ですか、お姉様?」
「こちらを向いて、じっとしていなさい」
そう言うと、フィアは魔力を溢れさせる。細い指先に力を集約させると、ティエラの胸元に軽く押し当てた。ぴくりとティエラが肩を震わせる。
そのまま細かく指先を動かすフィア。
彼女が何をしようとしているかを悟った俺は、眉をひそめて苦言を呈した。
「フィア。それは裏切り防止の魔力刻印だろう。ティエラには必要ない。よすんだ」
「いえ、これは必要なことです。いかに胸襟を開いたとはいえ、この娘は人間。寝首を掻かれないようにするための当然の備えです」
「フィア!」
「ヴェルグさん。大丈夫です。私は構いません」
力尽くでも止めようとしたとき、当のティエラがそう言ってきた。
仕方なく推移を見守る俺。
それから間もなく、刻印の魔法は滞りなく完了した。
フィアが上級魔族の顔つきになって言う。
「これであなたは我らを裏切ることはできません。もしヴェルグ様に弓引くことがあれば、この刻印から激しい苦痛がもたらされるでしょう。心しておきなさい」
「はい」
「ちなみに、意匠はテリタスの花をモチーフにしておきました。あなたには花の文様が似合うでしょう。ヴェルグ様のお側に仕えるのなら、それに相応しい偉容と可憐さを身にまとう義務があります。たとえ刻印であろうと」
「はい。……はい?」
「ついでに疲労防止や魔力増強の効果も付与しておきました。いつでも、どんなときでもヴェルグ様のお役に立てるよう、その身を健康に保つことを心がけなさい」
「フィアお姉様、やさしい……」
「やさしくありません。人間に対する極めて厳格な処置です」
フィアは腕を組み、何度も頷いている。
お前、それ本気で言っているのか。
突き放すどころか、過保護にも程があるぞ。
心配して損した。
胸元に刻まれたフィアからの『贈り物』。それを嬉しそうに撫でるティエラ。
それから彼女は、俺たちに向き直った。
「ヴェルグさん。フィアお姉様。私、おふたりに出逢えて本当に良かったです」
「改まって言わずともいい」
「いえ、きちんと言わせてください。これは、私のけじめでもあるので」
居住まいを正すティエラ。
「おふたりがいなければ、私は今も虐げられ、叔母さまの無念を晴らすこともできなかったでしょう。ずっと怯えて、本当の感情を押し込めて生きていたでしょう」
「いいのか? そんなに買いかぶって。俺はお前をそそのかした男だぞ?」
「構いません。たとえそれが、魔王四天王のひとり、邪紅竜であっても。その方に付き従う高位魔族であっても」
俺の揶揄にも動じず、晴れやかな顔で見つめ返す。
ティエラは自分の胸元に片手を当てた。そこに刻まれた裏切り防止の魔力刻印を再度撫でる。
「ヴェルグさん、フィアお姉様。私はあなた方と共にいます。そして、おふたりに受けたご恩を返すため、このティエラ・フォスザ、誠心誠意務めることを――ここに誓います」
そう言って、ティエラは膝を突く。
彼女が正式に臣下の礼を取った瞬間であった。