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五十九、生と死の間《はざま》

五十九、生と死のはざま


 ここは、どこだ? そうだ、菫の家だ。シーリングファンがゆっくりまわっている。広い部屋に木製のドア、ベッドには白いシーツが敷いてあり、鷹はその上で眠っていた。


「起きましたか?」


 優しい顔をした菫が問う。


「体は大丈夫ですか?」


 声がでない。ここは、もしかして夢の中なのだろうか。


「お水をどうぞ」


 菫がコップに入った水を渡してくれた。あの時の記憶がそのままだ。そうだ、自分は水を飲んだ。


「お食事は食べられそうですか?」


 菫は白いブラウスとグレイのプリーツスカートで漆黒の髪を上手に結っている。ああ、そうだ、このあと確か、


「お待たせしました」


 菫からマグカップをもらう。暖かいコーンスープが体に染みた。さらに彼女は木製のトレーに、おかゆとフルーツを盛った皿を乗せてやってきた。鷹はものすごくお腹がすいていて、一気に食べた。すると菫がニコリと笑って


「よかった。それだけ食べることができたら、すぐに良くなりますよ」と言った。優しい笑顔だった。


 そのあと、さらに、おにぎりとサンドイッチを持ってきてくれた。鷹はまたも完食した。


「お風呂も沸かしてあります。よかったら入りますか?」


 そう言って真っ白なタオルを渡す菫。ずっとここにいたい。ずっとここで菫の純朴な笑顔を見ていたい。まるでぬるま湯の中でぼんやりしているような、母親のお腹の中にいるような感覚だ。


 鷹はお風呂にも入った。立派なひのき風呂で床は黒タイルというオシャレな浴室だった。


 髪を洗った鷹に「ドライヤーも使いますか?」と渡してくれた菫。


 全部夢だ。気づいていた。これは夢の中だ。

 夢でもいい。もう起きたくない。現実に戻りたくなかった。いや、待てよ。自分は何をしていた? 考えてもぼやけてピントが合わない。


 お風呂あがりにジュースを頂く。安っぽい味ではない、きっと生搾りの百パーセントジュースだ。


 菫に触れたい衝動に駆られる。菫……。手を伸ばすと彼女はぼやけていく。

 ああ、待って、消えないで。やがて辺りは真っ暗になる。


 あれ、自分はだから何をしていたんだ。夢を見ているということは寝ているのか。なぜ寝ている。


 何度も問うが思い出せない。しかし、次の瞬間場面は激しく変わった。ここは……? 屠殺場だ。牛を殺す仕事をしていた。


 さっきまでの優しい空間ではない。血の臭いがする生臭い空間で鷹は気を失った牛の喉元をナイフで掻っ切る。血を流して、牛を逆さ吊りにする。また銃声が鳴り響くと、気絶した牛が自分の前に流れてくる。同じことを繰り返す。辺りは一面血の海だ。おかしい。自分はいつも、銃を撃つ係で首を切る役割は別の人間がやっていた。こんなことやりたくない。でも次から次に同じことを繰り返さないとどうしようもない。生きるためだ。


 夢でまで殺傷をするのか。だったら覚めてくれ。もういいよ、こんな夢もういい。場面はまた変わった。


 鷹はアパートの一室にいた。眼の前にはある郵便物が置いてある。A4サイズの分厚い封筒の宛先を見て、自分の名前を思い出した。そうだ、黒田充。そんな名前だった。裏には高松菫の文字があり心が一瞬踊った。しかし、封筒の中身は衝撃的なものだった。


 今回の計画、そして、拷問を担当してほしいという旨の文章。ショックを受けた鷹は静かに資料を床に置いた。


 夕焼けの光が窓から差し込んで、古びたアパートの壁面を照らしている。そうだ、この時ものすごく迷っていた。自分の大好きな菫からのお願いを断るのか、それとも承諾するのか。


 ああ、これは……もしかして走馬灯なのか。鷹は自分が生と死の間にいることを悟った。どうして、そんなことになっているのか思い出せ。


 今自分は何をしなければならないのか。


「菫……」


 微かな声が出た。そうだ、思い出した……彼女を守らなければ。彼女を……。


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