五十八、地下通路
薊は平静を装っていたけれど、本当はもう、何もかも投げ出したい気持ちだった。やっぱりこんな島に来るんじゃなかったという後悔にも襲われていた。姉のやったことがどれだけの人を突き動かしたのか、どれだけ迷惑をかけたのか、とても言葉では言い表せない。確かに九十九晶に対しての憎しみもあったけれど、その憎しみなんてどこかに吹っ飛んでいきそうなほど、今の状況に幻滅していた。
血が繋がらない姉とはいっても薊にとっては大切な姉妹であり家族の菫は強姦に合わなければ今頃医師として黙々と勤務していたのだろうか。
今はそんなことを考えている余裕などないのはわかっていた。疲弊した体を突き動かすのは医師としての使命、そして……。単純に姉が心配だった。
職員棟から渡倉真心と石塚晋也と一緒に外に出た薊は、すぐに気がついた。何かが燃えている匂いがする。
本来なら渡り廊下を使用するところだが、もし敵がそこに待ち構えていたら……。
自分ひとりならともかく、一般人の二人をつれているので、何かあってはならない。
渡倉真心は正直置いていきたかった。あの惨状を目の当たりにして、大丈夫なのか。出血量もそれなりに多かったが、一人になりたくない気持ちもわかった。
さっきまで敵だらけの空間にいたのだ。無理もない。
少しずつ歩みを進めるといつもなら満天の星が見える夜空に何かがたちこめている。煙だ。
「渡倉さん、少し急ぐことはできる?」
「は、はい!」
このルートは薊と菫、鷹の三人しか知らない。
「いざ、囚人棟で何かあった際にエレベーターの故障などあった場合はどうするのか。職員棟側と囚人棟側を一本の渡り廊下のみで繋げるとなると、そこが何らかの理由で閉鎖された時に行き来が不可能になってしまう。ならば、秘密の通路を作るか」
他の従業員には一切教えていない地下通路がある。それは思いもよらぬところが入口になっている。
「こっちよ」
二人を誘導しながら向かった先は港の反対側の海。
「どこへ行くんですか?」
たどり着いたのはコンクリートで出来た建物だったが、そのコンクリートの色が茶色だった。屋根は緑色。
「これ、なんですか?」
「浄水場よ」
目を丸くしている渡倉と石塚に説明をする。
「浄水場?」
「ええ、この島は人工の埋立地だから水源はないし、電気も通っていない。不思議に思わなかった? 調理に水をたくさん使うでしょう?」
「そうですね……そこまで考えていなかったです」
「この施設で海水を綺麗な水に変えているのよ。外観も見てのとおり森と一体化するような色にしている」
納得した様子の二人と一緒に扉を開けて中に入る。遠回りしているかもしれないが、渡り廊下から堂々と行くよりこちらの方が身を隠すことができる。
薊は壁に取り付けられたレバーを押すでも引くでもなく回した。するとこれがスイッチになっている。さらに操作パネルのボタンを押す。突然床の一部が開いた。
「さあ行くわよ」
穴の大きさは直径0.7メートル、肩幅の広い男性などは入れない。辺りは真っ暗でどうなっているのかもわからない穴に飛び込むのを不安そうにしている二人。先に薊が飛び込んだ。着地した時、両足にそれなりの衝撃を受けたが、人工芝になっているので、怪我などはしない。
「大丈夫よ、飛び込んでみて」
上部の穴に向かって声をかけると、まず、石塚が飛び込む。渡倉も続く。
そこは高さ二メートル、幅も二メートルほどの小さな四角い空間でその奥に階段が続いている。
「なんですか、ここ……」
「囚人棟へと繋がる不思議な穴よ」
「こんなの全然知らなかった……」
誰か余計な人物に飛び込まれても困るので、壁にあるスイッチを押すと天井の穴がふさがった。
「魔法の国みたいです……」
「魔法というより技術の結晶かもね。さあ急いで」
先ほどスイッチを押した瞬間に階段の足元に用意されているライトが一斉に点灯した。技術の結晶とは言ったものの、階段自体は工事現場で使う足場のような階段で、この辺りだけコスト削減しているのか。と薊は苦笑いした。
「この島の電気はどうなっているんですか?」
石塚が問う。
「海中電線を引っ張っているの」
「そんなことできるんですね」
その工事にどれだけの予算を注ぎ込んだのか、薊は怖くて数字を見ていない。
悠長に話しているが、煙の正体が一体何なのか気になる。一刻を争う事態でなければいいのだが。
階段を三十ほどおりるとまっすぐな通路になった。ちょうど壁の下を通過しているのであろう。しばらくすると、今度は上り階段。
薊はこの島の建設について、菫と共に関わってきた。大まかなアイデアは菫が出して、あとは建設会社の人に散々無理を言って創られた島だ。そもそも海抜二千メートルのところに人工の埋立地を造るのはかなりの技術が必要で、そのうえ、ただの家やホテルといった建造物ではなくこのような特殊な施設を考案したが、地下については色々難儀したらしい。軟弱な海底に、特殊な機械で砂利を埋め込み、そこにコンクリート基礎を築く。トイレットペーパーの芯のように円を描いて島の直径の大きさに囲いが組まれて、コンクリートを流し込むと大きな円柱状の柱ができる。その説明を聞いた薊はまるで電柱が海底に刺さっているかのようだと思った。その上に土やら何やらを盛った構造になっている。つまり、土を深く掘ればコンクリートの土台にたどり着くのだ。これは、脱走防止のためでもある。囚人が裏の森の土を掘って逃走路を作ろうとしても、土の層は僅か二メートルと浅く、掘っていくといずれコンクリートにぶつかる。なのにこの通路を造ってくれとお願いしたら建設会社の人は大きなため息をついていた。無理もない。掘れない構造の島を掘って地下通路を作れと言ったからだ。さらに囚人棟にも職員棟にも地下施設まで創らせた。さらに人工で造った島なので、この島は綺麗な円を描いている。ネット上の衛星写真は姉が消してしまったが、空から見れば直径三キロの円なのだ。
「あの、これって囚人棟のどこに繋がっているんですか……?」
出口が近づく、階段を最後まで上って、また隠しスイッチを押すと扉が開いた。出た先は真っ暗の部屋。
「ここは一般人には見せたくない場所だから、さっさと出ましょう」
暗いけれど敢えて電気はつけずに外に出ると煙の匂いが一気に鼻をつく。ここは拷問場の近くにある器具倉庫である。そして……。
煙が上がっているのはまぎれもない拷問場だ。薊は身をひそめる。
「まずいわね。先に様子を見てくるから隠れていて」
薊は早足で、身をかがめて拷問場へ向かう。するとそこには十字架が立てられている。煙でもやがかかっているが、磔にされている人物を見て薊は絶句した。
「姉様……」
十字架に磔にされているのはまぎれもない菫だった。その前にいるのは仙台和菜。さらに彼女の足元には鷹が横たわっている。まさか、鷹がやられたのか⁉️ 今すぐ助けに行きたい。仙台の強さは、座間、鮫、鰐の姿で予想できる。でもそんなことより姉を助けたい。
薊は身をかがめて、仙台に近づく。
気配を察知したのか即座に振り向いた仙台が「誰だ⁉️」と叫ぶ。
薊は堂々と姿を現した。
「これはこれは、薊サマではないですか」
信じられなかった。何が起こっているのか理解はできないが、とにかく緊急事態なのは一目瞭然だ。姉の足元で炎があがっている。
「惜しかったな。もう少し前に来ていたらいいものが見られたのに」
「何を言っているの⁉️ 姉さんを今すぐ解放しなさい!」
「お前の姉も人間だったんだな。こいつを庇って自分から磔になりやがったよ」
仙台が顎で鷹の方を指す。鷹の足は焼けただれて、下半身が大火傷の状態だ。
一方、姉の方はまだ意識があるらしい。
「薊……」
「姉さん!」
薊は慌てて倉庫へ戻ると消火器を手に拷問場へと返る。
「邪魔はさせない」
仙台の前に一人の黒服が立ちはだかった。
「桜!」
菫の足元で火がメラメラ燃えて、足の先は真っ赤に腫れ上がっている。
「どけ!」
「やだね」
「あなたは仙台の手下だったの⁉️」
「そうよ。頭のいい先生でもわからなかったのね」
身長は百六十一か二くらい。決して大柄ではない。だが、彼女は空手の有段者だ。
「桜、そんなヤツ放っておいていいよ」
仙台が銃を撃つと薊の腹部をかすめる。桜は一瞬で身をかがめた。
「ぐっ……」
「わざと外してあげたんだ。私はあなたには恨みはないからね」
脇腹から血が流れ出る。
「薊さん!」
慌てて渡倉が駆け寄った。
「小鼠がもう一匹、いや二匹いるな」
石塚も薊に駆け寄った。彼が持っていたハンカチで腹部をおさえてくれるが、ハンカチはあっという間に真っ赤に染まった。
「仙台さん。なんでこんなことになっているの⁉️」
渡倉が問う。
「この人こそ一番罪が重い。わかるよな?」
「渡倉さん……危ないから下がっていて……」
勝てない。仙台を止めるには麻酔銃を……。武器庫にある麻酔銃を使うしかない。
薊が動こうとすると石塚が止める。
「動かない方がいいです。血がどんどん……」
「止めないで。姉を助けたい」
「あんまりしゃべらない方がいいんじゃない? 血がどんどん溢れるよ」
仙台は余裕綽々で高笑いする。
「私はこの国を治める」
仙台は誇らしげに言った。
「何言ってるの……」
「生ぬるいんだよね。結局この島のことだって国民にひた隠そうとしてさ。堂々と公開したらいいじゃないか、そうすれば犯罪は減るよ。こんな島につれてこられるくらいなら、殺人なんて犯すヤツは減るだろうね」
「あなたは……国のトップになって、そうやって力で国民をねじ伏せる気なの……⁉️」
「だって仕方ないじゃん、人間ってそういう生き物だから」
淡々と答える仙台に腸が煮えくり返りそうだ。
「例えば、交通ルールを破ったら警察に罰金払うじゃん。スピード違反とかさ。そうやって罰を与えなければ人は統括できない。スピード違反をしても罰も何もないんだったら、皆もっとかっ飛ばして運転しているだろうね。結局人間ってそういう生き物なんだよ。本当は悪いことだってしたい。だけど、罰則があるから犯罪に走らない人が多い。でも日本の罰則がゆるすぎるんだよね。だってお金払ったらおしまいとか、ムショに入ってもすぐに出てきたりとかさ。受刑者はご飯を与えられる。布団を与えられる。仕事も与えられるなんて最高の環境だし、死刑囚は死ぬまで自由だし。菫サンのやっていることは間違ってはいない」
「それだったら……姉のやり方にあなたは賛成なのでは……」
「そうだね、最初は賛同していたよ。恨んでいる座間京滋がこの島に運ばれることを知った時、ゾクゾクしたよ。でも、菫サンは結局この島のことを国民に隠した。しかも自分は東京でのうのうと過ごしていて。せっかくこんな島造ったんだから、私がもっとこの国をいい国にしてやるよ」
石塚のハンカチから血が滴っている。
「薊先生……安静に……」
心配そうな顔をする石塚。
「ありがとう、でもここは闘わなきゃ」
薊は仙台の方を向き直した。
「もしかして、本島の数々のテロはあなたが指揮者」
「正解」
「テロは何の罪もない人の命まで奪うわ」
「多少の犠牲は必要だ」
「なんですって……」
薊の頭の中で何かがプツンと切れた。撃たれた傷などどうでもいい。姉を助けてこいつをやっつける。それだけ。
「ははは、ふらついているじゃないか、それで消火なんてできるかな?」
仙台が薊の抱えた消火器を撃つと消火器が暴発した。
「ごほっ、ごほっ」
「滑稽だな」
「薊、私のことはもういいから!」
磔にされている菫が叫んだ。
「どうでもよくない!」
消火器の主成分は確か炭酸ガスとリン酸アンモニウムで人間には無害だ。撃たれたって、構わない。
「お姉ちゃんだもん‼️」
薊は十字架に向かって一目散に走る。
「バカなやつ」
仙台が銃を構えなおすと、突然大きな爆発音が響いた。
何が起きたのかわからなかった。爆風で薊は転んでしまう。でも必死に起き上がって、菫が磔にされている十字架の足元の燃え盛る薪を素手でバラバラにした。手のひらや指に鋭い痛みが走った。構うものか!
「薊……」
火はくすぶる程度になった。仙台はどうしたのかと振り返るとそこには肉片が散らばっていた。桜の姿もなかった。