五十一、蘇る
夜は更けて、星空が輝く中、地獄の島はさらなる地獄へと化していた。
鷹は十字架に磔にされていた。深夜で辺りは真っ暗だ。足元に大量の藁が置かれて火が放たれた。パチパチパチ、湿度の高い島なので、白い煙が立ち込めて鷹は咳き込んだ。
先ほど更衣室で、菫を庇った鷹は「私が人質になる」と申し出た。菫と咲苗のどちらかを選ぶなんて卑怯な質問の本当の答えは菫だったが、命には変えられない。自分の選択ミスで一人の女性が亡くなるのはどうしても嫌だった。それに彼女には娘もいる。仙台はわかっていてやっている。自分が咲苗を選ぶことは想定内であっただろう。
もし鷹が菫を選択していたら、咲苗と娘の二人が殺されていたのかもしれない。
相手は包丁一つだから、力でねじ伏せようとも考えたが、鮫と鰐の状況を見るなり、相手はかなり強敵だ。これでよかったのか、本当によかったのかなんてわからない。もしかしたら自分は罠にハマったのかもしれないとその時になってやっと気づいた。鷹が咲苗を選んで、それで人質が菫に代わる。その菫の代わりに自分が人質になる。仙台はもしかしたらそこまでのシナリオを頭で思い描いていたのか。
「燃え方が鈍いわね。油を持ってきて」
油を持ってきたのは桜だった。元国体に出場経験のある女。
油を使うとなると、最早火傷はまぬがれない。油を注がれた藁が勢いよく燃えて、桜がその藁の上に薪を積み上げている。熱い、痛い、苦しい。メラメラと燃え盛る炎が恐らく足の甲あたりを焼いている。感覚をうしなっていく両足に歯を食いしばる。
煙の向こうに菫の姿が見えた。シャワー室の外にいたボディーガード二人は桜に捉えられて、縛られている。
どうやら仙台の手下は桜一人のみらしい。桜は菫を崇拝しているフリをしていただけだ。でなければ菫の手を縛ったりしない。
熱い、痛い、苦しい、熱い、痛い、痛い、痛い。
しばらくすると意識が朦朧としてきた。人間は全身の三十パーセント以上の火傷をすると命が危ぶまれるとどこかで聞いた。
ああ、そうだ。自分は……。
その日はある時突然訪れる。彼らは当日の朝、突然事実を突きつけられる。
「今日が死ぬ日」だと。その瞬間、光を失う者。泣き出す者。助けを乞う者、そして狂ったように笑う者。最後の時を彼らはどう考え、どう過ごしていたか。
何も考えないようにするので必死だった。鷹は未成年なのにどうしてそんなことをしていたのだろうか。
ああ、そうだ。思い出した。
鷹は十六歳の時、自分の年齢を偽って二十三だと言っていた。彼に与えられた仕事は死刑囚の最後を告げる仕事だった。どうして自分がそんな大役をしていたのか。
子どもの頃から貫禄があって、小学校の先生に怖がられた鷹は僅か十歳で学校を抜け出した。親はいなかったし、義務教育なんて興味がなかった。どこで生まれたのかもわからなかったが、田舎の小屋のような家に住んでいた。そこには一人のお婆さんがいて、その人が自分の面倒を見ていてくれた。血の繋がった祖母なのかそうじゃないのかもわからない。浮世離れしていた鷹は集団生活の中には入り込めず、一人で過ごしていた。そうだ、十歳の頃には確か身長が百六十を超えていた。
ある日、家に帰るとお婆さんが倒れていた。触ると冷たくなっていたのを覚えている。
鷹は逃げ出した。逃げて、山奥へ入った。この時どんな気持ちだったのだろうか。
誰もいない山奥で自給自足の生活を送っていた鷹は、ある日、登山客に見つかってしまう。
よくわからないが、通報されたらしく、警察に保護された。その時に出会ったのが虎だった。虎は当時、秋田県警で働いていた。虎は警察というよりまるで無法人という感じで、警察の中ではかなり浮いている存在だったらしい。鷹を自分の家に住まわせて、働かせることにした。
「歳は?」
「十六です」
「……見えんな。親はどうした?」
「わかりません。気がついた時からいません」
「だとしたらどうやって生きてきた?」
「僕が十の時までお婆さんがいました」
「十の時までということは……死んだのか?」
「はい」
「そうか……」
虎の住む家は時代を遡ったような囲炉裏のある家で、茅葺きの屋根には雪が積もっていた。
「食べなさい」
囲炉裏で温めた味噌汁を鷹に差し出す。
「ありがとうございます」
勇ましい顔だ。と鷹は思った。迷いのない黒い瞳とゴツゴツした顎や手。まるで人間ではないような虎の風貌に、鷹は見入った。
「学校は行っていないのか?」
「はい」
「ならば、私の元で働きなさい」
「え……? 警察で?」
「誰もやりたがらない仕事があるんだが引き受けてみないか?」
次の日、ある施設に連れていかれた鷹は、そこで仕事内容を教わった。死刑囚に今日が死ぬ日だと伝えて、その場所まで誘導して、最後を迎えさせる仕事であった。
何年も前から絞首刑が行われており、天井からぶら下がった輪を囚人の首にかける。そして、機械のボタンを押すと床が抜けて囚人が首を吊るシステムだ。
単純な仕事ではあるが誰もやりたがらないのは納得できた。しかし、こんなド素人の人間がこんな重要な仕事をしていいのかと尋ねると、虎は黙っていた。
「絞首刑の場合、三人の警察が一人一つ、三つのボタンを同時に押すんだ。そうすると、死刑囚の立つ足場が開くシステムになっているのだが、警察の人間でもこのボタンが押せない。という場合が幾度となくあった。怖いのだ。自分の手で人を葬ることが。だけど誰かがやらなければならない」
人を殺す仕事。それをどうしてこんな若造にやれというのか。
「なぜ自分を?」
「とにかくお前ならできそうな気がするんだ」
それを褒め言葉ととるのか、けなし言葉と捉えるのか、鷹はあまりいい気はしなかったが、仕事をしないと生きていけない。
仕事は滅多にない。死刑執行は年間一軒あるかないかだ。一年から二年に一度だけ呼び出された。
絞首刑の際には、死刑囚にアイマスクをつけて手錠もかけられる。僅か十分ほどのことであるが、目が見えなくても苦しんでいるのがわかった。できるかぎり見ないようにはしたが、失禁、よだれ、体液があちこちから出た。
緊張しなかったかと聞かれると、緊張するに決まっている。だが、三回目の執行の時には既に慣れてしまった。そして、結果から言うと三名の命を殺めたのみであった。
それ以外の日は、虎の家の前にある広大な畑を耕して作物を育てていた。そして、虎の家の隣には鶏小屋があって、毎日産みたての卵を拾っていた。そして、月に一回、虎が鶏を絞めた。
鶏というのは意外と痛覚が鈍い生き物で首を切られても切られたことに気づいていない様子であった。逆さ向けにして血を抜いて、羽をむしる。虎は無言のまま鶏をさばいていく。やがて囲炉裏で煮たり焼かれたりして食卓に並んだ。
時代の止まったような空間だったが、鷹が二十歳になった時、突然虎から仕事をやめるように言われた。
「どうしてですか?」
「どうしてでもだ」
「じゃあ僕はどうしたらいいですか?」
「お前はもう立派な大人だ。自分のことは自分でどうにかしろ」
そう言われて、鷹は虎の家を出た。
しかし、行く宛なんてなかった。鷹の手荷物は数枚の服と虎からもらった二万円だけだった。
鷹は初めて秋田市の町中に出てみた。自分の顔が怖いことは知っているので、マフラーに鼻を埋めて帽子を被っていた。それでも身長はいつの間にか百八十を超えていて、体格もよかったので、町ではどうも目立ってしまう。
「あ……!」
町を歩いていると突然指を刺された。
「おい、お前黒田だろう⁉」
そう言われても自分の名前も知らない。ああ、そういえば小学生の時に黒田と呼ばれていたような気がした。
「お前……どうしている?」
「どうって?」
「親死んじゃったな」
「え?」
鷹が呆然としているとその男はこう話した。
「お前の親、昨日死んだ」
「なんでそんなことを知ってるんだ?」
鷹が男に詰めよると男は一歩退いた。
「なんだよ、まさか知らないのか? 昨日ニュースで流れていたぞ。死刑執行されたって」
何が何だかわからなかった。
「死刑ってどういうことだ? お前は誰だ? 何を知っている?」
「え……知らないの? お前の親、人を殺して服役していただろ……」
鷹は目の前が真っ黒になった。
「いつだ? いつそんなことがあった⁉」
「え、本当に何も知らないのか? えーっと、オレが一年生の時だからお前も一年だよ、六歳か七歳か。だから……十三年前だな」
「十三年前?」
そうやって話していると、路線バスがやって来た。
「ごめん、バスに乗るから」
そう行って男はバスに乗って去ってしまった。残された鷹は何が何だかわからずにいた。
鷹は図書館へと向かった。地方の町は人口が減り、空き家が増えた。閉店した店が解体されずに放置されて、雑草が無造作に生い茂っている。また住む人を失った民家が朽ち果てているのが目に入る。県庁所在地とは思えないほど閑散とした町中を進む。
図書館のインターネットコーナーで検索欄に文字を打ち込んだ。『死刑執行』
検索欄に最新ニュースがヒットした。
『二千五十六年、一月二十三日、
表示された写真の顔に見覚えがあった。微かに震える手でマウスを操作して画面をスクロールする。概要欄に事件の真相が記されていた。
『二千四十三年、無職の黒田聖人、夏希夫妻は秋田市内の宝石店に強盗に押し入る。店員の通報により駆けつけた警察官二人を殺害後、店の金品を奪い、火をつけた。隣接する店舗兼住宅が延焼して、住民の夫妻が死亡した』
震える手で、画面を閉じた。自分は凶悪な殺人犯の息子……。そんな奴が生きているなんて、そして死刑を執行していたなんておかしいだろう。虎は知っていたのか。知っていて自分にこの仕事をさせたのか。体中から湧き上がる名前のつけられない感情が抑えられず、鷹はいつの間にか、人里離れた海岸へとやって来ていた。海は荒れている。もういい、生きる意味などない。鷹は静かに海へと身を投げた。
目を覚ました鷹はベッドの上だった。ぼんやりとした視界に映ったのは可憐な女性の顔だった。
「大丈夫ですか?」
天井は高く、シーリングファンのようなものが見える。肌が白くて、漆黒の髪と優しい二重まぶたの美しい女性が心配そうに覗きこんできた。
「ここは……?」
「あの、病院の前でずぶ濡れで倒れていらっしゃったので……」
鷹は自分が一体誰なのかも忘れていた。ここは一体どこなのか、自分に何があったのか。ただ、ぼんやりと『鷹』と呼ばれていたことだけ思い出す。本当にそれ以外何も思い出すことはできなかった。
「あの、ここはどこですか……?」
女性に尋ねる。
「高松病院です」
「高松……? 香川県の?」
「いえ、高松は私の苗字です。ここは秋田県の海沿いにある病院です」
秋田県。自分は秋田県に住んでいたのか、それとも別の場所からやってきたのか、思い出そうとすると頭が痛んだ。
「お腹すきませんか?」
女性が鷹の前にマグカップを差し出した。中にはコーンスープが入っていた。
「……ありがとうございます」
ニコリと笑った女性に心を奪われた。ほかほかのスープは鷹の心と体を満たした。
病院というには豪華すぎるのではないかという内装の部屋であった。聞くと、特別室だという。入院費を払えない。退院させてくれ。とお願いすると、大丈夫、心配しないで。と彼女は笑った。
数日経って、鷹の体は回復した。
「お世話になった。名は何という?」
「高松菫と申します。あなたは?」
「私は……申し訳ない。名前が思い出せないのです。ですが鷹と呼ばれていたような気がします」
「鷹ですか」
「入院費はどうしたらいいですか?」
鷹が尋ねると、こちらへ。と菫が導く。どこへ向かうのかとついていくと、病院の隣にある木造の建物へと案内された。
部屋の中はストーブが炊かれてとても暖かい。まるでペンションのようだ。とあちこちキョロキョロしていると、目の前に突然、初老の男性が現れた。
「貴様、何者か」
白い髭を生やした初老の男性だった。
「お父様、貴様だなんて失礼な。この方よ。病院の前で倒れられていたとお話した」
「こいつか。知らない男を拾ってくるなんてどうかしているぞ」
「拾うだなんて、倒れていらっしゃったのです。助けるのが当然でしょう」
「貴様、名は何という」
男性が高圧的な態度で鷹を見下している。
「鷹です……」
「それは本名ではないだろう」
「すみません、実は覚えていないのです……」
「貴様、嘘をつく気か⁉」
「お父様、いい加減にしてください!」
「なぜその男がここにいる⁉️」
「すみません、私がいてはいけないのですね。お世話になりました。すぐに出ていきます」
訳がわからなかったが、歓迎されていないのは明らかだ。
「あっ、待ってください!」
玄関の方へ向かおうとした鷹を菫が引き止めた。
「私の作ったお粥を食べてほしいのです」
「まさか、お前、この家に男を泊める気じゃないだろうな⁉️」
「だって、帰る場所もわからないのに」
「おい、青年よ」
初老の男性が鷹の目をじっと見る。
「……」
なんだろうか、なぜそんなジロジロ見る。
「お前、力に自信はあるか?」
「お父様、お前ではなくて鷹です」
「お前は黙っていろ」
泊める、ということはもしかしてここは菫の家なのか。
「出ていきます」
鷹が再度、玄関に向かおうとすると、「待て」と今度は男が引き止めた。
「仕事をするならここにいてもいい」
「え……」
「牛の世話だ。近くに牧場がある」
「お父様……」
「そしてもう一つ約束事がある。決して娘には手出ししないように」
自分の意思とは無関係で話が進んでいく。鷹はただ、入院費を払いたいだけだったのに、なぜか高松家に招待されたらしい。しかも仕事の斡旋、そして泊まってよいとの許可。
呆然としていると、男は立ち去っていった。
「ごめんなさい、父が勝手に」
「いえ、ここはあなたの家なのですか?」
「ええ」
「自分は何者かわからない正体不明の男です。そんなヤツを入れては……」
「いいんです」
鷹が話し終える前に菫がニコリと笑った。
「ご迷惑でなければ、この家にいて下さい」
その笑顔はどんな高価な花や宝石よりも輝いていた。この人と一緒にいたい。この人と離れたくない。鉄の塊みたいだった鷹の心が急に軽くなった。