一、
真心は一枚のチラシに釘付けになっていた。そのチラシは色彩という言語を忘却したかのような白い紙に黒文字というシンプルなものであった。必要最低限の情報だけが記載されている。文字は明朝体でイラストも写真もない。
親元を離れて独り暮らしをするようになって二年が経過していたが、令和初期に建てられた木造二階建てのアパートは劣化の一途をたどっていた。ポストの蓋を閉めて、階段を上ってすぐの部屋が真心の住処だ。
六畳間の決して広くはない洋室には、折りたたみベッドと折りたたみの机があるだけであとは何もない。
「よっと」
スーパーの袋を床に下ろすと腰が痛んだ。
「いててて……」
よろよろしながら小さな冷蔵庫に食材を放り込んでいく。
仕事を辞めたのは二ヶ月前だ。介護施設で働いていたが、入浴介助の途中に腰に激痛が走った。病院では椎間板ヘルニアと診断された。正直若い人間には縁のない病気だと思っていたので驚いたが、しびれる体をひきずりながら生活するしかなかった。介護の仕事は意外と重労働で、腰を痛めていては活躍できない。このご時世、介護補助ロボットも増えたが、ロボットでは代用できない仕事も多く、やはり人の力が必要不可欠だ。人口が減ったうえに高齢化の波は依然変わることがないので、どこの施設も人手不足に
冷蔵庫に食材を入れ終わると、白い小さな折りたたみ机の上に置いたチラシを再び手に取った。
目が悪くなったのか、いや、そんな訳はない。白いA4サイズの紙には『バイト募集』の文字。その下に目を疑うような金額が記されている。時給三万円。一体どのような内容なのかと注意深く概要を読むが、仕事の内容は調理や清掃、そして勤務場所は極秘となっていた。
ホステスでも時給三万円も稼げない。だとしたらどこで、何を調理するのだろうか。
勤務場所の後に記されているお問い合わせ先が神奈川県の県庁の番号になっているが信用できるのか否か全く判断がつかない。
その時、真心の脳裏をかすめた記憶があった。
『死刑よりも重い刑ができるらしい』
一週間ほど前だろうか、偶然SNSで誰かがこんな書き込みをして、そこから次々と嘘か本当かわからない情報が溢れ返った。
『死刑より重いって何?』
『どういう意味だ?』
『
『古くない?』
『五右衛門風呂って何?』
『え、知らないの? 昔その五右衛門って人が熱々の釜の湯に入れられたっていう』
『ってことは拷問?』
『死より重い罪が拷問ってか』
『出鱈目言うなよ』
次々と溢れんばかりの投稿に、ほんの少しだけ興味を惹かれたがすぐに読むのを辞めた。
時給三万円で、死刑囚に拷問を与えてください。なんて仕事だったりして……調理は死体を切り刻むこと、そして清掃は残ったカスの後始末……。いけない。何を馬鹿なことを考えているのだと真心は首を振った。とりあえず概要だけでも聞いてみようと思い、電話番号を恐る恐るタップしていく。
お金が必要だった。介護施設の安いお給料で生活するのもギリギリだったが、辞めてしまった今、真心の財布には一万円札が一枚だけしか入っていない。それが全財産である。三日後に引き落としの電気代が恐らく足りないし、そのさらに三日後には水道代の引き落としが待ち構えている。そうだ、とにかく概要だけ聞くんだ。怪しいと思ったら切ったらいい。
電話をかけるとハキハキした女の人の声がした。しかし概要を尋ねても、それは面接でと言われて、面接会場と日時を言われただけであった。
行くか、行かぬか、行くか、行かぬか。
気がつくと面接会場に足を運んでいた。レトロで風情があった神奈川県庁が取り壊された時に惜しむ声が多かったことを踏まえて、再現された建物は去年出来上がったばかりでピカピカである。採用先が偽物ではない県庁だったことに真心は安堵した。面接では、住み込みで働くことが可能か、一ヶ月間の短期バイトになるが構わないか。と問われた。大丈夫ですと答えると、すぐに採用が決まった。翌日、登録したメールアドレスに日時と時間、集合場所が送られてきた。
『三月五日、午前十時に横浜港』
どうしよう、何をするのだろう。港ということは船に乗るのだろうか?
しかし、財布の中を見て、真心は決心した。
「とにかく、行ってみよう」
ドキドキしながら現地に向かった彼女を迎えたのは、黒いリクルートスーツを着用した女性たちで、さらに安堵してしまった真心は、船に乗る直前に眼帯をつけるように命じられた。しまった。県庁と普通のリクルートスーツに油断して、時給三万円の文字を忘れてしまった。一体どこへ向かうのですか? と思わず質問した真心だったが、返事はなかった。
船に揺られること約四時間。視界を遮られたクルーズは快適どころ気分が悪く吐き気を催した。どこかはわからないが、横浜港を出発したことから考えると太平洋であることは間違いない。生ぬるい風が真心の頬をかすめ、あまり聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえた。港に降り立つと眼帯は外されたが、スマ―トフォンを没収すると黒服の女が、彼女に手を差し出したので、真心は黙って渡した。渡さないと殺されそうな気すらした。それくらい黒服の女たちは無表情だった。
大きなボストンバッグを持って、誘導されながら歩く彼女の隣を、同じように大きな荷物を持った背の高い女性と自分の同い年くらいの青年が歩いていたので、同士がいるのかと少しだけ安堵したのも束の間。何やら悲鳴のようなものが聞こえてきた……気がした。野生生物の声にも聞こえなくなかったその声に内心ドキドキと不安が止まらなかったが、キョロキョロしていると、「前だけ見ろ」と黒服の女に注意された。やがて真心の目の前に立派な建物が見えてきた。見た目はホテルのようだが、二階建てで、屋根は沖縄の石垣島や竹富島を彷彿させるような赤瓦だ。中に入って、階段を上がり荷物を自室に置いてくるように言われて案内された部屋は綺麗で、ベッド、机、椅子、冷蔵庫、シャワー、トイレが完備されていた。しかし、テレビやパソコンなどはない。スマホを没収されたということは、外界とのつながりは遮断なのか、情報が一切手に入らない環境に真心は臆する。
配給された白いエプロンと帽子はまるで小学校の給食当番の格好のようだ。もう今更引き返すことはできないと意を決して、髪をまとめ、帽子とエプロンを着用して向かった先は調理室だった。それこそ給食を作るような大きなお釜に鍋、白で統一された食器類とコップはすべてプラスチック製である。
業務用の冷蔵庫、オーブン、電子レンジが並びそれらの使い方をこれもまた黒服の女が簡単に説明していく。
二十分ほどの説明を終えて立ち去っていった女を見送ったあと、真心はもうひとりの女に声をかけた。
「あの……ここって」
「ああ、もしかしてあなた知らずに来たの?」
ケロッと言う女は幾分か年上だろうか。
「
「あ、えっと渡倉真心です。まごころって書いてまこって読みます。よろしくお願いします」
「そう、この島には全く必要ない名前ね」
初対面の人にそんなことを言われるとちょっと傷つく。
「島……やっぱりここって島なんですね」
「雑談をしている暇はないわ。作業にとりかかりましょう」
時計の針は四時十五分をさしている。夕飯の時間は六時半だ。それまでにAの食事を二十八人前、Bの食事を二十三人前用意しなければならない。
レシピは壁に設置されたモニターに表示されている。今日のメニューは肉じゃがと味噌汁、いんげんの胡麻和えらしい。
「あなたAとBどちら担当する?」
「あ、えっと……どちらでもいいです」
「じゃあAをお願い」
「わかりました」
Aは職員用、Bは囚人用だと説明された。囚人用という言葉を聞いて、少なくても刑務所関係、もしくは……と理解する。この島のどこかに囚人が二十三名いることは間違いない。どのような囚人なのか。やはりあのSNSの書き込みのように死刑よりも重い罪を背負った囚人たちなのか。
西暦二千七十七年、日本で初めての女性総理大臣が誕生してから一年が経過した。女性に優しい社会、子育て支援などに力を入れている総理は四十一歳とは思えないほど若く、カリスマ性があり改革をどんどん行っていく。しかし彼女には二面性があると、どこかの週刊誌が報じていた。その週刊誌では死刑制度について改めるべきだと主張している総理がとんでもない改革を考えていると記載されていた。真心が介護施設に勤めていた時に同僚からその雑誌を見せられた。
「ね、これどう思う?」
「どうって……」
雑誌はモノクロで印刷されているが、大きな文字で『死刑制度改革か』と書かれていた。
「えっと……総理大臣は死刑廃止をしようと」
「ちがうちがう! そうじゃないよ。ここの文読んで」
同僚が指差す小さな文字を読み進めると、死刑制度より重罪が必要みたいなことが書いてあった。
「死刑より重罪ってどういうこと? 死ぬ以上に一体何があるの?」
真心の疑問に同僚が好奇心に溢れた目を輝かせた。
「なんかね」
彼女が声を潜めて耳元で囁く。
「総理って昔、強姦の被害に合ったんだって。それで婦女暴行罪の罪を重くしたみたいよ」
「え……。もしかして婦女暴行で死刑なの? 重くない?」
「だから死刑よりも重い罪」
「そう言われてもよくわからないよ」
介護施設の昼休憩の時間は四十五分と決して長くない。束の間の休み時間くらい余計なことは考えずにぼーっとさせてほしかった。
「なんかね、ネット地図で日本の太平洋側にある島が発見されたんだけど、その発見した翌日に島が消えていたって」
「それって、この死刑の話と関係あるの?」
同僚の安田は、芸能人のゴシップなどが大好きである。アイドルの誰が結婚しただの離婚しただの、はたまた政治家の失言なども常にチェックしている人で、そんな話を度々聞かされる真心はただ、うんざりしていた。
「あるんじゃないかしら。ほら、流罪って昔あったじゃない?」
昔っていつの話だ。江戸時代とかそんな前の話じゃなかろうか。
「島流しってことですか」
「そうそう、島流し。それが死刑より重い罪ってことよね?」
疑問形で尋ねられても困る。
「島流しが死刑より重いんですか……」
どう考えても死刑の方が重いような気がする。
「地図から消されたってことは極秘ってことよね。何をする島なのかしら」
安田の瞳がキラキラ輝いている。
「ごちそうさまでした。わたし、トイレに行くので」
そう言って適当に席を外した。
船に乗っている間、その話を思い出して怖くなった。そうか、もしかしたらその島に連れていかれるのか……。安田の無茶な発想は案外間違っていないのかもしれない。
SNS上でも総理の話は度々持ち出されていた。
「総理って昔強姦にあったらしいぜ」
「へぇ、綺麗な顔立ちしているもんね」
確かにテレビやネットで拝見する総理の顔は女優なのかと思うくらい美しい。
『それで強姦の罪がめっちゃ重くなったらしい』
『妥当なんじゃない? 強姦なんてあり得ないし』
『でもさ、男からしたら、酔っ払った勢いでやっちゃったとかも強姦にされたらたまったもんじゃない』
『同意の上なら強姦にはならないだろう』
『総理綺麗だから強姦したい』
『やばいよお前、今すぐそのコメント消せ。島に連れていかれるぞ』
『島って何?』
『ネットマップで今までなかった島が突如現れたそうで、でもいつの間にか消えたって』
『何それ? どこ?』
『太平洋』
『広すぎるでしょw』
ネットの世界ではあれこれ書き放題だが、SNS上での誹謗中傷についても罪が重くなったらしい。迂闊なコメントは書けない。
太平洋の一体どの辺りなのか。帰った方がいいと思ったが、もうここまで来たら引き返せない。
収入がないとまずい。お金を稼ぐしかない。生きるために働くんだ。悪いことをしに来た訳ではない。と自分に何度も言い聞かせる。
外国人も非常に多くなった。腰を痛めるまで働いていた介護施設では、フィリピンからの留学生やマレーシア、ベトナムなどアジア系の従業員がたくさんいた。
日本人が外国人と結婚するケースも増えたので、学校のクラスに大体平均三人くらいはハーフやクオーターの子がいる。真心は父も母も祖父も祖母も日本人なので生粋の日本人だ。髪の色や瞳の色は漆黒で、黄色人種の肌色である。ファンデーションを選ぶ際にはナチュラルベージュで丁度いい感じだ。一方、例の同僚の安田は肌の色が濃い。父親が南アフリカの人で母が日本人、髪質もチリチリとしている彼女の年齢は不詳だったが、特に尋ねようとも思わなかった。
真心という名前は祖母がつけた。ちょっと恥ずかしいと思うこともあったが、祖母のことは好きだった。
玉葱の皮を剥き、短冊切りにする。人参の皮を剥いて適当な大きさに切り、ジャガイモは皮を剥いた後アクをとるため水にさらす。三十人前のご飯を作るのは初めてだが、いつも料理は自分が担当していたのでなんてことはない。
隣をチラリと除くと仙台も同じように材料を切っている。その手さばきは華麗だ。
私語厳禁だと言われてしまったので、この島で仙台とも会話しなければ一ヶ月ほぼ誰とも会話しないことになってしまう。なんだろう、静かなんだけど、どこからかほんのりと聞こえるのは鳥のさえずり、風が窓を揺らす音、そして、何かのうめき声。
音楽でもかけたい気分だった。しかし当然音楽プレイヤーなんて持ち込み禁止だし、スマホは没収中。静寂にもそのうち慣れるだろうか。
出来上がった肉じゃがを皿に盛り付けていく。真心の担当のAのお鍋にはホクホクと柔らかそうなジャガイモ、人参、茶色くなった玉葱と肉、そして鰹出汁のいい香りがする。一方、仙台が盛り付けている肉じゃがは、人参がオレンジ色なだけであとはセピア色の絵のようだ。こんな肉じゃが初めて見た。
出汁、醤油、みりん、砂糖など味付けは一切なしの囚人用食。そうか、味を楽しむことも許されないんだ。
でも同情してはいけない気がした。推測でしかないが、ここにいる囚人たちは死刑よりも重い罪を課せられた人たちなのであろう。人殺し、放火、無差別殺人、強盗、誘拐、婦女暴行、詐欺、窃盗、それらが一つではなくミックスされている人が殆どではないか。例えば銀行強盗で人質をとって立てこもり、最終的にその人質を殺して、さらにお金を奪って逃げたとか、路上で無差別で車やバイクで何人も轢き殺して、信号無視はおろか、警察車両にも体当たりしたとか。そんな想像をして、また鳥肌が立ってしまった。
トンデモナイバショニキタ
もしかしたら、そんな極悪な人たちではなくて比較的刑が軽めの囚人たちが集められているのかもしれない。いや、そんな人達をわざわざこの島に連れてくる理由は何だ。その考えはプロ野球投手のストレートのようなスピードでかき消されて、やはりトンデモナイバショニキタ。という言葉が残った。調理室の隣は食堂になっているが、ここはあくまで職員用の食堂だ。Aのメニューを机の上に並べていく。仙台はBのメニューを盛り付けた皿をワゴンに乗せて、迎えに来た黒服の女と共にどこかへ行った。どこへ行くのだろうか。
あとを追ってみたいような、追ってみたくないような衝動に駆られる。
仕方がない、一ヶ月だ。たった一ヶ月頑張ったら百万以上のお金を稼ぎ出すことができる。ここでは無になろう。そう決めて使用した調理器具を洗い始めた。
一日目の仕事を終えてプライベートルームに戻ると腰がひどく傷んだ。
「いてててて」
そう言いながらベッドに横たわる。相変わらず静かでテレビもラジオも何もない環境。違和感を覚えるのは虫の声すらしないことだ。今日、港からこの宿舎に向かう時に、木々が生えていたし、草も生えていた。そういった環境ならば、虫くらいいるはずだ。気味が悪い。その時、遠くからうめき声のような叫び声のようなものが聞こえた。発情期の猫だ。そう思うことにした。そう思わないと気が変になりそうだ。
朝は五時半に起床、朝食をさっと作り上げて机に並べる。そして自分もその朝食を食べる。皆無言だ。ここには会話というものが存在しないのだろうか。
職員は例の黒服の女たちが大半だ。皆似たような黒のスーツを着用しており、胸のところに同じバッジをつけている。遠くからしか見ていないが、なんとなくそのバッジがスミレの形をしている気がした。そして、昨日一緒に船に乗っていた同い年くらいの青年、後はガタイのいい大柄な男の人が数名。黒服ではない白衣を着た女性が一名……医者か研究員なのか? 皆、何を考えてこの島の業務を行っているのか。そして一体どんな業務を行っているのか。
いけない。あまりじろじろ見てはいけない。真心は目の前の白い皿に置かれたロールパンをちぎって口に放り込んだ。仙台は三つ横の席で正しい姿勢のまま黙々とフルーツを口に運んでいる。
朝食が終わると皿洗いをして、食堂の清掃作業をする。私語厳禁とはいえずっと無言のままだと言葉を忘れてしまいそうなので仙台にこう尋ねた。
「あの、Bの食事ってワゴンに載せたあとどこに運ぶんですか?」
これは業務上の質問だから問題ないであろうか。すると仙台はモップをかける手を止めることなく、
「今日の夕飯はあなたがB担当だからわかるでしょう」
と、淡白に答えた。昼ごはんはAの分しか作らないので、一人は館内清掃をする。要するに囚人たちは朝食と夕食は与えられるが一日二食ということになる。
午後三時半、夕食の準備にとりかかる。今日のメニューはカレーライスになっているが、まさかカレーなのに無味なのだろうか。
ご飯の上にただ水で煮込んだ野菜と肉をかけるということか。
Bの食事は二種類ある。通常食と流動食。流動食は八十を過ぎた年配の囚人向けなのかと思ったが、量がおかしい。
通常食十一人前、流動食十一人前。まさか半数が高齢者なのかと思ったが、別の答えが真心の脳裏に浮かんだ「歯がなくて流動食しか食べられない」。しかもトータル二十二人前ということは昨日より一人減っている。その一人は一体どうしたのか。仙台に聞いてみようか迷ったけど辞めた。どうせまた「私語厳禁」とか言われる始末だ。
何も考えない。ただ調理に集中しようと人参を切り始めた。
綺麗な形の人参やジャガイモが入ったカレー……ではなく野菜の塩煮をご飯にかけた。他の調味料は使用禁止だが、塩分は人間ある程度必要なので塩のみ入れることになっている。そして、野菜や肉をペースト状にしたものを重湯の上にかけていく。介護施設ではこういったペースト状の食べ物をよく配膳していたことを思い出したが、ここは介護施設ではない。
ドキドキしながらワゴンに載せると黒服の女が迎えに来た。無言のままワゴンを押して彼女の後をついていくとエレベーター前にやってきた。
「あなたはここで引き返してください」
そう言って黒服の女が真心の代わりにエレベーターにワゴンを運び込んでドアが閉まった。なんだ、直接運ぶ訳ではないと安堵したが、同時にゾッとした。
エレベーターの階数ボタンが2で点滅して消えた。
この島に来たときに、真心が最初に目にしたのはコンクリートの壁だった。まるでベルリンの壁のように続くその無機質なグレイの壁は永遠と続いており、向こう側が全く見えない。しかし、その壁の上に唯一、長い廊下が陸橋のように設置されているのが目に入った。つまり、エレベーターに乗り込んだ黒服は、その廊下を通じて囚人エリアに食事を持ち込むのか。真心が今いる宿舎も、調理室もすべて壁の東側にある。スマホなどを没収されていても太陽や月の位置から東西南北くらいわかった。真心のプライベートルームの窓は東側についている。朝陽が差し込む時間が早いことを考えると、横浜からある程度南下した位置にいるのか。
西側は言う間でもなく囚人たちの区域なのであろう。バイトごときでは入ることはできないということか。入りたくもないが。
しかし音だけは何か聞こえるのだ。何だろう、何の音なのかわからない金属音や濁ったような悲鳴。あと微かではあるが臭いも感じる。
生理的に決して良い匂いだとは思わないその香りは何を燃やしているのだろうか。いけない、何も考えないって決めたのに考えてしまう。いくら時給三万円とはいえ、こんな島に来てしまったことを後悔し始めていた。そうだ、後から考えたらこの時点で「辞めます」って言って島を去ったらよかったのだ。
後から考えたら、だ。