それは待ち望んだ日だった。
十月も下旬になったというのに、最高気温が二十七度という前日の珍妙な陽気を引きずるように空気が纏わり付く土曜日。
製本された五十冊の同人誌を受け取ったのは昼下がりだった。
二〇二三年十月二十一日の十四時から十六時という指定時間で、ほぼ十四時ジャストに届けてくれた宅配業者さんに感謝しつつ、段ボール箱を開ける。
印刷されたばかりの本の薫りが鼻腔を満たす。
自分が書いた小説を実物として目の前にするという初めての体験に、心臓が素直に反応して心拍数が上がっているのが自分でも分かる。
紙に印刷された本。それは俺にとって特別な意味を持っていた。
紙の本が好きだ。
実際に紙のページをめくるという行為は、スマホやタブレットでは得られない快感だと思う。
「おお……重っ……!」
一冊を手に取ると、A五判で五百四ページという本の厚みと重みを感じた。
文学マーケットという文学作品限定の展示即売会に初めて参加すると決めた時、いきなり長編の分厚い同人誌を出品するのは無謀だと思った。
それでも初めての同人誌は『ミシェル戦記』を形にしたかった。
小説投稿サイトでの完結ブーストも期待したほどではなく、数多あるWeb小説の一つとして埋もれてしまった作品だったとしても「自分の空想をありったけ詰め込んだ物語」を本にしたかった。
表紙込みの五百四ページで五十部。早割を使っても約二十六万円。ボーナスが吹っ飛ぶ出費だったが、今まさにこうして手に持っている本が与えてくれる満足感には代えられないと思った。
「さて……」
俺は大きく二回、深呼吸してから『ミシェル戦記』とオレンジ色の明朝体で記された表紙をめくった。
その刹那、意識が飛んだ。
意識を失っていた時間が、どれくらいだったのかは分からない。
意識が戻った時、俺の眼前にあったのは祭壇だった。
「は……? 教会……?」
三鷹市下連雀にある狭いワンルームマンションの自室にいたはずの俺は、天井が高くて荘厳な造りの聖堂としか思えない場所にいた。
「夢……?」
思わず声が漏れた時、背後から凜と通る女性の声がした。
「創造神様……?」
俺はその声に振り返った。
すらりとした長身に純白のローブを纏い、長い髪は淡い朱色というアニメかゲームのコスプレっぽい姿の女性が立っていた。
「創造神であられるユーゴ様でございますね?」
女性の口調は確認するものだった。
瑠璃色の瞳がまっすぐに俺を見つめている。
「クロエ・カミナードと申します」
状況を飲み込めないままの俺は、別の驚きを持つことになった。
クロエ・カミナード。
その名前は、俺が書き上げて今まさに手に持っている小説『ミシェル戦記』のヒロインの名前だったからだ。
「驚かれておいででしょう。わたしも驚いております。創世神のお告げのままに創造神様が応現なされたのですから」
俺は言葉を探した。
何から訊けばいいのか……この場所について? 艶めく淡い朱色の髪を持つクロエと名乗る女性について?
クロエを名乗る女性は、俺のことをユーゴと呼んだ。
それは俺のペンネーム、
「あの……どこから確認すればいいのか……ここは?」
「ガッリア王国の王都パリーズィにある聖母大聖堂です」
クロエの口から出た固有名詞は全て『ミシェル戦記』のものと合致している。
「……聖紀元暦は?」
俺は『ミシェル戦記』で用いた異世界の暦で訊いてみた。
聖紀元暦は地球の西暦とリンクしていて、ほぼ同じ時代背景を持つというのが『ミシェル戦記』の設定だった。
「一七七一年です」
「一七七一年……ですか?」
「はい。魔王エンリルの討伐から十年が経っております」
「……ミシェルやルドヴィク、ギュスターヴ、それにニナは?」
俺は勇者ミシェルとパーティーを組んで戦った主要キャラクターの名前を出してみた。
「いまは、それぞれの土地で、それぞれの役職に就いています」
瑠璃色の瞳に微かな憂いを覗かせて答えるクロエを見て、否定しようとする自分がスッと消えてしまった。
「……本当に、俺が書いた小説の世界なんですね」
「はい。創造神様が創られた世界です」
創造神……俺は創造の神として、自分が書いた小説の世界に転移した……のか?
いや、待て。
「創世神のお告げというのは?」
「昨夜、創世神がわたしの前に顕現し、本日の正午、聖母大聖堂に創造神であるユーゴ様が応現なさると告げられました」
創世神……俺が設定した異世界の神も実在するのか、この世界は……。
創造神として定義されたらしい俺とは別の存在、更に上位の存在ということになるのか?
「理解が追いつきませんが……あの、ひとつお願いしてもいいでしょうか?」
語尾が遠慮がちになった俺に対してクロエは、
「なんでしょうか」
と微笑みを返してくれた。クロエの微笑に背中を押してもらった俺は思い付きをそのまま口にした。
「握手してもらっていいですか。どうにも夢じゃないって実感が持てなくて……」
またも語尾が遠慮で弱くなる俺に、やわらかく微笑むクロエが、
「かしこまりました」
と右手を差し出してくれた。思い切ってクロエの右手を握ってみる。
柔らかくしなやかで、ほんのりと温かい手だった。
リアルな質感とダイレクトな感触を受け取ることで、事態を受け入れる覚悟ができた。
俺は自分が創った異世界に転移したらしい。