自分という存在のすべてを懸けた一撃。
どこにでもいる剣士の一人でしかなかった俺を勇者へと導いてくれた聖剣ジョワイユーズに、自分のすべてを預けることに微塵の不安もなかった。
そこに躊躇が介在する余地はなく、思考する余裕も残されてはいない。
ただ、今この瞬間に、渾身の力で振り下ろす!
それだけを決めて打ち込んだ聖剣での一撃が、魔王エンリルの周囲三十グラドスを覆う半透明で玉虫色に輝く防御結界と激突する。
絶対にも思えたエンリルの防御結界魔法アエギス・オービチェ。
仲間たちの攻撃によって飽和に至っていると睨んだ防御結界が、聖剣での一撃によって臨界を越えて砕け散った。
よしっ! 今だ! 今しかない! これが届かなかったら終わりだ!
「うおおぉぉぉお!」
まだ俺は動けると自分を騙し、筋繊維の悲鳴を無視して駆ける俺は獣のように吼えていた。
あと少し! あと少しだけ動いてくれ俺の脚!
もう少し! もう少しだけ持ってくれ俺の腕!
突き出した聖剣の切っ先を、玉座の前で仁王立ちするエンリルに向ける。
エンリルは微動だにしなかった。その顔に怒りや驚きはなく、口元には微かな笑みを浮かべているようにも見える。
「ディビーナ・ユースティティア!」
仲間たちのおかげで残せた魔力の全てを注ぎ込み、俺が行使できる中で最高位の神聖魔法を発動する。
乾坤一擲の瞬間まで温存した最後の切り札。仲間たちが俺に託した最終決戦魔法。
聖剣から迸る神々しい光の渦が、エンリルの筋骨隆々とした巨躯を飲み込む。
エンリルは仁王立ちのまま声を上げることもなかった。
頼む! これで、決まってくれ……!
聖剣を握る両手が小刻みに震える。限界などとうに越えていた。
「見事だ!」
エンリルは一言発すると豪快に呵々大笑した。
俺が倒せる存在じゃないのか……!?
驚愕する俺を尻目にエンリルが重く低い声を響かせた。
「余の覇道は此処で潰える! 其処に憂いなどない。余の想いはネルガルが、そしてニヌルタが、果たすであろう。余が魔王としてエンリルを称した意味は其処にこそある!」
エンリルの巨躯が崩れ始めている……燃えるような赤い髪が、筋肉の隆起を際立たせる褐色の肌が、輪郭から浸食されるように崩壊しながら光の渦に消えていくのを見て、俺は歯を食いしばり聖剣を握り続けた。
「余は魔王である! 残りの知れた寿命なんぞではなく、勇者の手によって滅するもまた一興! 余の真意、余の本懐を次代に託さん! さらばだ……!」
今際の際まで豪放磊落な魔王で在り続けたエンリルが、完全に消滅する。
俺の魔力も完全に底をつき、魔力の供給を失った聖剣ジョワイユーズが静かに消える。
刹那の静寂が全身に染み渡るように感じた。
「ミシェル!」
俺を呼ぶ声に振り返る。
クロエが俺の名を呼びながら駆け寄ってくるのが見えた。
ルドヴィクが、ニナが、ギュスターブが、満身創痍の仲間たちが俺に笑顔を向けている。
「終わった、のか……」
俺たちの戦いは終わった。そうだ、終わったんだ……。
五年。気付けば五年もの月日が流れていた俺たちの戦いは今、終わった。
魔王のいない世界が始まる。
これで、世界は変わるはずだ。
全身から力が抜けて呼吸を整えることさえ億劫に感じた。それでも最後は勇者として格好つけたいと思った。
駆け寄ってくるクロエに笑顔を向けて、俺は新しい世界への一歩を踏み出した。
Fin.
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺はエンドマークを打った。
五十万字の長編小説を書き上げた達成感が込み上げてくる。
「ふう……よしっ……!」
物語を完結させたという充足感を味わいながら立ち上がる。
壁の時計は午前一時を指していた。
「うぅ……うっ、ああぁあ……」
長時間オフィスチェアに座りっぱなしで固まった腰を伸ばすと、我ながら情けない声が漏れた。
尊敬する作家の「物書きなら椅子だけはケチるな」というSNSでのアドバイスを素直に受け取って奮発したオフィスチェアでこれなら、安い椅子だったらどうなるんだと少し怖くなる。
俺にとって初めての長編小説になった『ミシェル戦記』を書き始めたのは二十五歳になる直前、半年前だった。
会社と自宅を往復するだけの毎日の中に小説を執筆する時間が加わったことで、俺の生活はがらっと変わった。
小説のことだけを考えて執筆に集中している時間。その時間だけは強い不安と焦燥から逃れることができた。
途中でスランプなんかも経験したが、今になって思えば全てを引っくるめて楽しかった。そう思えることが何より嬉しい。
書き上げた最終話を小説投稿サイトにアップするのは明日にしよう。
「完結ブーストって、ほんとにあるのかな……」
大きなコンテストに入賞したり、出版社から書籍化をオファーされるような作品と比べてしまえば、ページビューも読者の数も桁が何個も少ない『ミシェル戦記』だけど、もしかしたら……。
Web小説で長編の連載を完結した時に、爆発的にページビューや評価ポイントが増えるという完結ブースト。起こる保証なんてない現象だと分かっていても期待してしまう自分を、今は否定する気になれなかった。
一人で祝杯を挙げるために冷蔵庫を開け、キンキンに冷えた缶ビールとグラスを取り出す。
「乾杯……!」
空きっ腹にビールを流し込む。鮮烈な喉への刺激はもちろん、食道の驚きすら今は心地好い。こんなにビールが旨いと感じたのは初めてだ。