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第12話 袋に潜み

 虜囚となった荀罃じゅんおうは、軟禁されたが監禁されたわけでも幽閉されたわけでもなかった。貴族として遇され、王宮内の一角であれば出歩くことも許された。のふところが広かったわけではない。物理的に逃げようが無いのである。

 人が飛び越えることもできぬ城壁に王宮は囲まれている。出入りは門のみであり、出入りは常に監視されている。また、王宮を出たとしても、今度は都市である。楚の都は他の国と同じく高い城壁があり、そして張り巡らされた掘に囲まれている。唯一出入りできる門が厳しく検問されているのは言うまでもない。

 そしてしん中原ちゅうげんの黄河の北西、楚は黄河をはるかに南下し、長江の一部を含んでいるほどである。その距離を徒手空拳で挑むほど、荀罃はバカでも無謀でも無かった。

 基本、楚人そひとは荀罃に無関心であったが、若い王族たちが

晋人しんひとよ。弓を競わぬか」

 と押しかけることもあった。楚は勇士を極めて好む。盤上遊戯で楚王そおうに屈しず勝ちきった荀罃はそれなりに評価されていた。

「喜んで承ろう」

 荀罃は、必ず応じた。王族が礼儀正しい者でも横柄な者でも、すべからく同じ態度で応じる。楚は王と王族によって統治されている。王族から臣に降りた氏族もいるが、楚の場合はこれも王族と言って良い。そして、互いに牽制しあっている。政変に巻き込まれぬためにも、そして虜囚としても、王族の気まぐれを必ず受け、そして平等に接した。

 幾年経ったかわからぬ日であった。春だというのに風は柔らかく、黄砂もない。晋にとって春は強風が吹き荒れ黄砂舞う季節である。

 荀罃は車上での弓遊びを誘われ従った。御者の操る馬車の上から的を狙うのである。こういった誘いがたびたびあるため、荀罃の腕はなまっていない。それどころか冴え渡っている。常に敵陣であるという緊張をもって、この虜囚は生きている。ガラガラと走る馬車、揺れる車上で構え、矢を放った。

 カッと矢が的の中央付近に刺さる。ど真ん中から若干ずれていた。

「惜しい!」

「お見事!」

 両方の声があがる。馬車が止まると、荀罃は一礼をして降りた。王族にまぎれて太子がいた。幼児だった太子は、すっかり少年であった。荀罃は黙って拝礼したが、声はかけなかった。向こうから声が無ければ僭越である。太子も、何も言わぬ。彼は遊戯後のひとときなど、とっくに忘れているのであろう。

「晋人よ。我が父から聞いたのだが、汝の父はなかなかに凄まじいらしいな」

 一人の楚人が声をかけてきた。荀罃よりいささか年が若い。

「……けいの方々を支えるだけの父でございますれば、大仰かと」

 荀罃が謙遜をもって返すと、そうではない、と乗り出して強く言われる。

「あの、ひつでの戦いだ。汝が捕縛された」

 楚人は真っ直ぐと言うべきか、無神経と言うべきか。荀罃は気を悪くもせず、先を促した。

「汝の奪還が難しいと見たとたん、我が楚の王族二人を捕縛し、老将を一人討ち取ったのだ。有象無象ではなく、戦場で選び、確実に三将を狩った」

 荀罃の奪還ができぬと冷静に情をねじ伏せ、高貴な人質を死体込みで三つ取る。それらを突きつけ、荀罃との交換を荀首じゅんしゅは狙ったのである。

 虜囚としての務めを思い出したから、という言葉で荀罃は人々から離れた。

 そうして、部屋で一人泣いた。

 父は、息子を全く諦めていなかった。生きて返すという強い意志がある。そして、己の息子の対価は楚の将三人であると言い切ったに等しい。未熟な嗣子であるのに、父はそこまでの価値だと皆に見せつけたのだ。

 荀首のいない生活はもう何年か。これから何年か。己は父の死に目に会えるのか、物言わぬ父を目の前に哭礼ができるのか。そういった焦燥を覚えつつ、荀首の愛情に、荀罃は感極まっていた。

 必ず帰らねばならない。しかし、父の息子として誇れるよう、大夫として堂々と帰らねばならなかった。

 そして――

 とうとう、荀罃じゅんおうが囚われてから九年が経った。二十そこそこであった彼は、三十路に近い。青年期のほとんどを虜囚として消費したことになる。その間の無聊ぶりょうをかこつものと言えば――数年前からか定期的に来るようになった商人であった。鄭人ていひとである。晋楚しんその権益ライン上にあるていは常に脅かされ二面外交でなんとか生きている。そうなれば、民が国に依存しないため、下々に到るまで自立心が強い。この商人も、己一人で生きているように各国を渡り歩いていた。

 王族それぞれと商いし、なおかつ虜囚の荀罃にまで顔を出すのであるから、大商人と言って良い。

「私は自由になる財もない。衣は虜囚としての保障だ、ありがたく頂くが、他はけっこう」

 常に言い渡すと、商人はあっさり引き下がる。そして、

「最近、このような話を聞いたのです」

 と雑談して帰る。その雑談、情報こそが万金に値する。商人はそれがわかって、断られる商品を持ち込み、荀罃もそれを素直に受けて話を聞いた。

 当初、荀罃は戸惑った。己は何も返せず、商いとしても良いことはない。何か腹の奥にあるのかといぶかしんでいたが、次第にその棘も解けた。商人は、若い身の上で虜囚になった晋の貴族を本気で慮り、心配していたのだ。思いやりと侠気おとこぎはこの時代の商人に見受けられる一面であった。

 この鄭人のおかげで、荀罃は、にいながら中原ちゅうげんしんの状況を知れるようになった。

 そして、今。商人は常のように笑み、商品を断られた後、語り出す。

 大敗から立ち直り、周辺蛮族を駆逐させたこと。そして、父がけいになったこと。

 荀首じゅんしゅは卿の弟であるが、傍系として後ろに下がり続けるつもりであったろう。そのような氏族は多い。頭が二つあるのは、災いの元である。が、兄は弟を別の家として自立させ、互いに国を立てていこうとした。

「父の誉れを言祝ことほげぬ、不孝な息子だ」

 荀罃は思わず呟いたあと、己の口を手で押さえる。商人とはいえ、他人の前で弱音を吐いたことに驚いたのである。商人は体をゆすがって、若者を慰めた。

大夫たいふさまがたにとって私は路傍の石のようなもの。石は人の言葉など聞こえませぬ」

 そう、優しさが込められた言葉で語りかけた後、深く拝礼した。

「晋の大夫さま。よろしければ、私がお国へ返しましょう。商いの袋のなかにあなたを入れ、楚を抜ける算段、ございます」

 国へ返す。楚を抜ける。荀罃は、頭を殴られたかのようによろめき、床に手をついた。実際、その言葉の衝撃は大きすぎた。二年目はいまかいまかと待った。五年目を越えたあたりで焦燥に懊悩した。いまや、諦めがあった。

 帰れぬ、とまではいかない。老いさらばえた己が、もはや知る者など一人もいない晋へ戻る。荀氏じゅんしは仕方無く受け入れる。そうして日の当たらぬ小屋の一室で、皆に忘れられながら死ぬのであろう。そういった未来を考えるほどの、諦めがあった。

「帰れる……」

 目を見開きながら呟く。

 春の嵐、夏の雨。秋は穏やかで冬は乾いて痛い。黄砂に埋もれそうな場所から飢えた虎狼のように身構え、他者を襲い貪る、懐かしい祖国。

 郷愁で目が眩みそうになったとき、荀罃の心にもうひとつの杯が現れた。あふれんばかりに満ちた激情を、そそぎ分けていく。こぼれぬ二つの杯は、荀罃に理を思い出させた。

「……私は大夫だ。こそこそと袋の中に潜み、だまし出し抜いて帰るなど、できない。もし発覚すれば、私は卑しい恥知らずとして永遠に語り継がれる。無事戻ったとしても、卑しさは変わらない。父祖にも誰にも、顔向けできぬ」

 静かに、ゆっくりと吐き出した言葉は、重く、乾いていた。叫び出したいほど帰りたいという思いを、丁寧にぶちぶちと潰しながら答えた。

 商人が、しかし、と言いかけた時、荀罃は手で制した。

「だが、十年目になれば、汝に願おう。あと一年、私は大夫として帰ることを待ちたい」

 二つに分けた杯でも、情が波立っていた。理で押さえても、焦がれるような望郷に耐えようがない。せめて、一年は耐えようと思った。九年耐えたのである。あと一年くらい、耐えられるであろう。

 荀罃は勝った。九年前の盤上遊戯、そして今、己の情に勝った。


 彼はこの年、晋に返された。

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