虜囚となった
人が飛び越えることもできぬ城壁に王宮は囲まれている。出入りは門のみであり、出入りは常に監視されている。また、王宮を出たとしても、今度は都市である。楚の都は他の国と同じく高い城壁があり、そして張り巡らされた掘に囲まれている。唯一出入りできる門が厳しく検問されているのは言うまでもない。
そして
基本、
「
と押しかけることもあった。楚は勇士を極めて好む。盤上遊戯で
「喜んで承ろう」
荀罃は、必ず応じた。王族が礼儀正しい者でも横柄な者でも、すべからく同じ態度で応じる。楚は王と王族によって統治されている。王族から臣に降りた氏族もいるが、楚の場合はこれも王族と言って良い。そして、互いに牽制しあっている。政変に巻き込まれぬためにも、そして虜囚としても、王族の気まぐれを必ず受け、そして平等に接した。
幾年経ったかわからぬ日であった。春だというのに風は柔らかく、黄砂もない。晋にとって春は強風が吹き荒れ黄砂舞う季節である。
荀罃は車上での弓遊びを誘われ従った。御者の操る馬車の上から的を狙うのである。こういった誘いがたびたびあるため、荀罃の腕は
カッと矢が的の中央付近に刺さる。ど真ん中から若干ずれていた。
「惜しい!」
「お見事!」
両方の声があがる。馬車が止まると、荀罃は一礼をして降りた。王族にまぎれて太子がいた。幼児だった太子は、すっかり少年であった。荀罃は黙って拝礼したが、声はかけなかった。向こうから声が無ければ僭越である。太子も、何も言わぬ。彼は遊戯後のひとときなど、とっくに忘れているのであろう。
「晋人よ。我が父から聞いたのだが、汝の父はなかなかに凄まじいらしいな」
一人の楚人が声をかけてきた。荀罃よりいささか年が若い。
「……
荀罃が謙遜をもって返すと、そうではない、と乗り出して強く言われる。
「あの、
楚人は真っ直ぐと言うべきか、無神経と言うべきか。荀罃は気を悪くもせず、先を促した。
「汝の奪還が難しいと見たとたん、我が楚の王族二人を捕縛し、老将を一人討ち取ったのだ。有象無象ではなく、戦場で選び、確実に三将を狩った」
荀罃の奪還ができぬと冷静に情をねじ伏せ、高貴な人質を死体込みで三つ取る。それらを突きつけ、荀罃との交換を
虜囚としての務めを思い出したから、という
そうして、部屋で一人泣いた。
父は、息子を全く諦めていなかった。生きて返すという強い意志がある。そして、己の息子の対価は楚の将三人であると言い切ったに等しい。未熟な嗣子であるのに、父はそこまでの価値だと皆に見せつけたのだ。
荀首のいない生活はもう何年か。これから何年か。己は父の死に目に会えるのか、物言わぬ父を目の前に哭礼ができるのか。そういった焦燥を覚えつつ、荀首の愛情に、荀罃は感極まっていた。
必ず帰らねばならない。しかし、父の息子として誇れるよう、大夫として堂々と帰らねばならなかった。
そして――
とうとう、
王族それぞれと商いし、なおかつ虜囚の荀罃にまで顔を出すのであるから、大商人と言って良い。
「私は自由になる財もない。衣は虜囚としての保障だ、ありがたく頂くが、他はけっこう」
常に言い渡すと、商人はあっさり引き下がる。そして、
「最近、このような話を聞いたのです」
と雑談して帰る。その雑談、情報こそが万金に値する。商人はそれがわかって、断られる商品を持ち込み、荀罃もそれを素直に受けて話を聞いた。
当初、荀罃は戸惑った。己は何も返せず、商いとしても良いことはない。何か腹の奥にあるのかといぶかしんでいたが、次第にその棘も解けた。商人は、若い身の上で虜囚になった晋の貴族を本気で慮り、心配していたのだ。思いやりと
この鄭人のおかげで、荀罃は、
そして、今。商人は常のように笑み、商品を断られた後、語り出す。
大敗から立ち直り、周辺蛮族を駆逐させたこと。そして、父が
「父の誉れを
荀罃は思わず呟いたあと、己の口を手で押さえる。商人とはいえ、他人の前で弱音を吐いたことに驚いたのである。商人は体をゆすがって、若者を慰めた。
「
そう、優しさが込められた言葉で語りかけた後、深く拝礼した。
「晋の大夫さま。よろしければ、私がお国へ返しましょう。商いの袋のなかにあなたを入れ、楚を抜ける算段、ございます」
国へ返す。楚を抜ける。荀罃は、頭を殴られたかのようによろめき、床に手をついた。実際、その言葉の衝撃は大きすぎた。二年目はいまかいまかと待った。五年目を越えたあたりで焦燥に懊悩した。いまや、諦めがあった。
帰れぬ、とまではいかない。老いさらばえた己が、もはや知る者など一人もいない晋へ戻る。
「帰れる……」
目を見開きながら呟く。
春の嵐、夏の雨。秋は穏やかで冬は乾いて痛い。黄砂に埋もれそうな場所から飢えた虎狼のように身構え、他者を襲い貪る、懐かしい祖国。
郷愁で目が眩みそうになったとき、荀罃の心にもうひとつの杯が現れた。あふれんばかりに満ちた激情を、そそぎ分けていく。こぼれぬ二つの杯は、荀罃に理を思い出させた。
「……私は大夫だ。こそこそと袋の中に潜み、
静かに、ゆっくりと吐き出した言葉は、重く、乾いていた。叫び出したいほど帰りたいという思いを、丁寧にぶちぶちと潰しながら答えた。
商人が、しかし、と言いかけた時、荀罃は手で制した。
「だが、十年目になれば、汝に願おう。あと一年、私は大夫として帰ることを待ちたい」
二つに分けた杯でも、情が波立っていた。理で押さえても、焦がれるような望郷に耐えようがない。せめて、一年は耐えようと思った。九年耐えたのである。あと一年くらい、耐えられるであろう。
荀罃は勝った。九年前の盤上遊戯、そして今、己の情に勝った。
彼はこの年、晋に返された。