目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話 器を作る

 三巡目である。仕切り直しであるから、巡という言葉はふさわしくないかもしれないが、三度目というよりは肌感覚が近いだろう。

 荀罃じゅんおうは、己の手首をそっと触って脈を測る。もう、何度このしぐさをしたであろうか。そのたびに、数をかぞえた。いち、に、さん、し、ご。数は少しずつ多くなっている。焦りにくわえて酔いで息が荒かった。浅い呼吸はさらに焦りを呼び、判断を狂わせる。

 落ち着け。平静になれ。酒など、まやかしと思え。

 身体的影響を振り払おうと、荀罃は何度も数をかぞえ、息を整える。

 酔いで錯乱し、無様な負けを迎えるなど、己の矜持が許せるはずがない。集中を保ち、一度の失敗も許さず、出目を信じるしかない。天は全身全霊で祈るものにようやく応えてくれる。ただ待つだけのものには、一顧だにしない。

 そして、泥酔し昏倒すれば、父祖に詫びても許されることはないであろう。前後不覚の己が皮を剥がされ解体されるなど、みっともないどころではなく、天地にも黄泉こうせんにも居所などない。豚の餌になったほうがマシというものだった。

 荀罃は、己の掌を爪で傷つくほど拳を握ったあと、サイコロを振った。痛みは酔い覚ましであり、気合いを入れたつもりでもある。幼稚と思えば笑え、とも思う。楚王そおうは荀罃の自傷に気づいたようだが、何も言わなかった。

 互いの差し手は、やはり特徴的である。攻撃をとる楚王と、守勢を好む荀罃。むろん、荀罃も攻め手となれば果敢であるが、冒険よりも堅実を選んでいた。

「やはりお前はかわいげがない。そういった者は、余裕がなくなる。杯に酒をいっぱいに注ぐと、傾いた途端にこぼれる。余裕があれば、こぼれない」

 楚王が酒杯を掲げて笑った。荀罃が出した出目である。己の手番をひとつ損したことでもある。その酒杯はぎりぎりまで継がれていたらしく、楚王の顎をつたって酒がぼとぼと落ちた。

「このとおりだ。衣も汚れる、酒ももったいない。お前は、完璧を求め失敗し、成功を求め墓穴を掘った。俺が思うに、我が廟に捧げられれば、そのとがもぬぐえるのではないか」

 戯れの言葉に、荀罃は息を止めて耐える。捕虜になったのは未熟ではなく性質のせいだと決めつけられ、死んだほうがマシだと嗤われる。これは、遊戯をする楚王のゆさぶりであり、遊びである。なぶっているのではなく、冷静さを奪おうとしているのだと、思い、屈辱と怒りをなんとか耐えきって息を吐いた。

「王の言葉、訓戒として謹んで我が身のものといたしましょう。私は未熟なものです、未だ余裕を知らず。いつか我が君の元へ戻った時には余裕をもって虜囚の罪をあがない、処されます」

 酔いでふらつく視界をふりきって、荀罃は拝礼した。荀罃が晋に帰れるかなどわからない。しかし、大敗の末に捕虜となった身である。帰れば罪を問われて処刑されることも珍しくはない。

 目が据わり生真面目に応える荀罃を見て、楚王が好ましそうに笑った。

「そう、真面目にとるな。これは酒を呑みながらの遊戯だ。適当に聞き流せ。さて、俺の手番だが……お前に酒を呑ませるのも一興か」

 楚王の手からサイコロが落ちていく。チロチロ、チリン。荀罃の気力を考えれば、この三巡目が最後の決戦である。それ以上は、心も体も折れてしまうに違いなかった。

 二巡目とは違い、均衡状態が続いた。互いにふくろうが成らず、魚同士の食い合いが一度起きたくらいである。盤上の穏やかさとは逆に、荀罃の緊張は高まっていく。

 ――仕切り直しは、もうできぬ。

 荀罃じゅんおうは出目が出る度に注意深く動いた。梟が出ぬままの消化試合でもう一度、となれば、集中がもう続かない。楚王そおうには戯れであっても、独特の圧があった。集中力が無くなれば、恐怖や焦りとともに、楚王の圧にも負ける。

 それは、荀罃が楚王個人に屈服するということだった。

 この盤上で、勝たねばならないと、荀罃は強く思い、奥歯を噛みしめる。きしきしと音が鳴った。息の浅さに気づき、手首を触り数をかぞえる。ななつまで数えて、ようやく落ち着いてくる。数は増える一方であった。

「おっと、『白』だ」

 楚王が己の出目を示しながら、弾んだ声で言った。駒をひとつ動かし、酒を命じる。荀罃の前に、ふちまでいっぱいにそそがれた酒が置かれた。それを手にとって呑もうとすると、袖に少しこぼれた。このまま揺れるふりして減らしてやろうか。一瞬考えたが、それは妙案ではなく姑息である。卑劣な発想だと荀罃は振り払い、口を開いた。

「杯をもうひとつ頂けませぬか。からの杯です」

 戸惑う小者に、楚王が顎でしゃくった。してやれ、ということである。小者は言われるがまま、荀罃の前に杯を置く。

 荀罃は酒をこぼさぬよう持ちながら、置かれた杯に半分ほど流し入れた。

「……何をしている?」

 不審さを隠さぬ声で楚王が問うた。脇息にもたれ、頬杖つきながら、うさんくさそうに見てきている。荀罃は、二つの杯をかかげて、見せた。

「こぼれそうなほど入った酒も、二つに分ければ余裕というものです。私が思うに、人の好む隙というものは、生まれつきあるものではなく、作るもの。あなたさまの仰るかわいげ、ですか。これは、己をもうひとつ作れば良い。余裕ある心は、育てるのではなく、己で作る」

 うっとりと酒を眺めながら、荀罃は言い切り、二つの杯を開けた。この時、彼はやけくそだったのかもしれないし、真理にたどりついたのかもしれない。どちらにせよ、かなり酔いがまわっていた。

 ふわふわとした風情で、荀罃は盤上を見る。

「……先ほどの手で梟と成りましたか。楚王とあろうかたが、遅い」

 楚王が梟と成ったということは、またサイコロをふり、動かしていたはずだが、その記憶が薄い。荀罃は眉をしかめた。言葉もろれつがまわっていない。楚王がくつくつと笑い、己の顎を指でとんとんと叩きながら口を開く。

「その言葉、無礼きわまりないが、今は遊戯だ。許す。お前の手番だ」

 荀罃は頷いた。己の駒は魚にひとつ奪われている。ここから梟にも取られれば、勝ちが薄くなるか泥仕合である。サイコロを二つ回した。場にある己は五つの駒。楚王の元に一つの駒。己も楚王から奪った駒があるが、これも魚どうしの食い合いであった。

 荀罃は一つの駒を避難させた。これで一つは、梟に食われにくくなる。そして、次に『方』のマスに駒を入れ、横から縦に変える。もう一度サイコロを振り、出た目の数だけ梟を動かした。

「お前にしては早い」

「その言葉、お褒めのものとありがたくいただきます」

 荀罃はふらつきながら拝礼した。酔いと緊張で嘔吐感が強い。それでも、意地と根性で大夫としての儀礼を行う。礼が無くなっても、荀罃は負けだと思った。貴族としての立ち振る舞いを失えば、荀罃は存在意義を失う。息が浅くなってきたが、手首をとらなかった。その代わり、もう一つの己を考える。余裕があり、空洞の中になんでも受け入れる己。――もう一つの杯。

 楚王は、荀罃の拝礼を諧謔かいぎゃくと受け取ったようで、なかなか良くなってきた、と言った。

 相手にサイコロを渡しながら、荀罃は盤上を見た。勝機が、ある。出目次第で、二手先に己が勝つ。しかし、そのためにはまず楚王の出目が悪くなければならぬ。そして何より、己の出目に奇跡が起きなければならない。

 チン、チリリン。

 荀罃の耳に、サイコロが碗を駆ける音がした。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?