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第7話 隙を罠とせよ

 本来、『やりなおし』というものは妙手みょうしゅとは言えない。荀罃じゅんおうは己もふくろうとなって粘る方法はあった。しかし、駒の配置などから分が悪いと、早々にドローを目指した。

「落ちぬ砦を性懲りも無く攻める青二才かと思えば、守りを考え生き延びる。若者が優秀なのは良い」

 楚王そおうが『ふりだし』から駒を二つ進めつつ言う。本気で褒めているようであった。集中し真面目にがんばっているのは良い心がけだ、とはやはり教導でもしているつもりなのか。荀罃は不快を隠さず、サイコロを振った。駒は双方、楚王を越えてマスを進めていく。ひとまず荀罃は息をついた。初手から奪われてはどうしようもない。

「その程度で有利になったと思っている?」

 楚王が覗き込みながら笑った。荀罃は安堵した己が恥ずかしくなり、からかってくる楚王にも腹立たしくなる。

「始まったばかりです。有利不利、いまだ見えぬ局面です」

 どこか慇懃無礼さを感じさせる声音で、荀罃は返した。楚王が鼻をならし、嘲弄の顔を見せた。荀罃は少しだけ瞬きしたあと、楚王の出目を見ながら、己に余裕が出てきたことに気づいた。

 ふっと、心のどこかが溶けかけた雪のように崩れる。この楚王。けいの方々が恐れ、しんを大敗させた王と己は対等に渡り合っている。自分はなかなかにできるではないか。王といっても、所詮南蛮の首長にすぎない。怖れるほどでもない――。

「お前の番だ」

 楚王がサイコロを渡してきた。荀罃は受け取りながら、楚王の目を見る。猛々しい虎を思い起こすその瞳にはがあった。荀罃は指先を振るわせながら、サイコロを受け取り、碗を見る。この碗に転がるさいの目が、荀罃の来し方を示すことを思い出す。

 冷たい汗がぶわりと、全身から流れる心地であった。己はあろうことか、遊戯ていどで慢心していたのである。運だけで左右されるサイコロの出目。楚王の強運。捕縛された不運を背負った荀罃。そういったことを忘れ、たかだか楚王の油断をついただけで、己の才を誇った。

 腹の肉がぶよぶよになったような弛緩があった。荀罃は、サイコロをかまえながらぐっと碗を睨み付け集中と緊張を思い出す。全ての出目に意味があり、駒は己の手足そのもの。賽の目に命を賭けるのであれば、爪の先、髪の一本に到るまで神経を張り巡らせろ。

 荀罃の背、腹が引き締まるように筋肉が動く。楚王にとって遊戯であるが、荀罃にとっては戦場であり託宣たくせんである。虎が気まぐれに弄んでいる羊が己である。その爪と牙から逃れるために、全てに注視し、模索しろ。

 ちりんちりりん。ちりんちりりん。

 ふたつの出目に合わせ、荀罃は駒を動かした。

 盤の上を複数の駒が行き合う。互いが食い合わなければ、計十二個の駒がマスを進んでいくのである。さぞ、ややこしいことであろう。が、そうならない。全ての駒が場に出ていれば、ふくろうに成った方が勝ってしまう。五の魚と一の梟の勝利である。サイコロの出目次第とはいえ、互いの進路上に位置し、食い合いを狙う。荀罃じゅんおうは己のマスに飛び込んできた楚王の駒を取った。魚の魚捕りである。

 楚王そおうは次の手番で梟となった。上手いこと『方』のマスにたどりつくのだから、本当に運が良い。が、荀罃が駒を一つ取ってしまったために、勝利条件に満たない。

「お前の守りが固いのか、晋人の守りが固いのか」

 楚王の魚が失われたのは、彼自身の出目による。その駒を荀罃の魚に食わせたのは、現状『方』へたどりつく可能性が一番低かったからだ。低いという言い方が悪ければ時間がかかると言うべきか。他は出目一度の圏内にあった。しょうもないことで攻め手を崩すくらいなら守りを捨てるのが楚王の方針なのであろう。

 結果、さっさと『方』のマスに止まり、梟を作ったのであるから、判断は間違っていない。荀罃は素早く己の駒を見る。『方』への距離、梟との距離、そして楚王の魚との距離。知らず、手首を触る。少しだけ脈が早いように思えた。目を閉じる。

 いち、に、さん。

 ゆっくり数え、再び目を開けた。どんなに考えても出目次第である。しかし、考え抜くことは有用であろう。天は示すのみであり、それがどういうものかを考えるのが人間であった。

 サイコロを振る。碗で跳ね、くるくる回転し、チロリチロリンと音を奏でる。最初の出目は悪くなかった。荀罃は碗に二度目のサイコロを落とした。

 チンチロリンリン。

 音が止まり出た目は、こちらも良かった。荀罃は迷わずひとつの駒を動かし、楚王の魚に食わせた。

「……ほう。その魚を『方』へ近づける算段もあったろうに」

「太極に到る前に、梟に狩られましょう」

 楚王の言葉に荀罃が返すと、もうひとつ駒を手に取り『方』へ近づけた。

「お前は成人してまもない、二十歳そこそこに見える。それでその守りに徹するのは、かわいげがないと言われるぞ。人はかわいげがないと死ぬ。にえになるにせよ、しちになるにせよ、かわいげというものは大切だ」

 成熟した大人の言葉に、未熟な若者は首をかしげた。かわいげ、つまり愛嬌というものがさほど重要とは思えなかったし、贄になってしまえば愛嬌もくそもない。

 荀罃がよほど不思議そうな顔をしたのであろう。楚王が耐えきれぬように声をあげて笑った。手を振り笑い、真面目なやつだ、と言っては笑う。荀罃は憤慨しなかったし、不快とも思わなかった。それを思うほど余裕などない。楚王は何も賭けていないが荀罃は命も体も死後の名誉さえも賭けている。さて、楚王はなんとか笑いを収めながら口を開いた。

「今の顔はかわいげというものだ。はくどのは中が詰まりすぎて、共におるものは苦しくなる。中には腹立たしくなるものもいる。俺は、そういったものも愛すが、余人はかわいげが――つまり隙がないと、愛さぬ。隙は甘さではなく罠だ。お前が質となれば生きるに必要、贄になれば粛々と死すのに必要なものだ」

「……なぜ、そのような訓戒を私めになされるので?」

 荀罃は、薄氷を履む思いで聞く。楚王への恐怖からではない。己が弛緩せぬよう、引き絞るよう務めるほど、針の音さえ大きくなるような緊張が常にあった。

「酒を呑みながら賭博を楽しんでいるは、若者に説教したくなるものだ」

 ニヤリと笑い、楚王がサイコロを振った。荀罃はその様子を見ながら、奪った楚王の駒を強く握りしめていた。

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