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第5話 地の声

 荀罃じゅんおうが出目に合わせ、二つの駒を動かす。比較的『方』に近い駒が一つできあがった。もう一つも『方』を狙ったものだろう、と楚王そおうは思った。

「ここぞという時の出目は大事だ。それは天の声でもある。おのが軍を良きものとし、地勢を調べ、敵を知り尽くす。そうして最後に天の声という。出目も同じ」

 若者を教導する大人のように語りかけながら楚王がサイコロを転がす。碗の中でチリンチリンと鳴りながら、止まった。その数を荀罃が確認したあと、再び楚王がサイコロを碗に転がした。

 ふくろうをマスの上で滑らすように動かしながら、楚王が口を開く。

「出目二つに駒二つを動かす。が、梟は出目二つを合わせ、動くことができる」

「つまり、一つの駒しか動かせません」

 荀罃が絞り出すように静かな声で即座に返す。楚王は頷きながら、荀罃の魚を狩った。『方』に近い駒だった。

 これで、荀罃の駒は四つである。さらなる劣勢であった。楚王は二度、梟を動かした。荀罃が取られた二つの駒の場所には二度と行けない。移動範囲が狭まっていくところに、荀罃の勝機がある。荀罃は己の場を確認した。全ての駒が。特に一つが、極めて危ない。

 サイコロを振り、出目に合わせて動かす。はっきり言えば、良い出目であった。荀罃は前回動かした駒を進め、最も危険なもう一つを『角』と呼ばれる場所へ進めた。『方』が駒を変化させる特殊なマスであれば、『角』は駒の場を変えるマスである。『角』から離れた『角』へ駒を動かす。本来、反時計回りに動く駒が、大きく『後退』した。ボードゲームで言えばジャンプマス、もしくはワープマスといったところか。

「ほう。その駒をそう動かすか。しかし、その後は出目次第だぞ」

「しかし、最も『方』へ近くなりました。梟がばんを二羽、飛ぶとなればどちらが強いか」

 感心した楚王の声に、荀罃が挑むように返した。

「思ったより腹が座っている」

 楚王が素直に褒めると、サイコロを振った。一度目は数字、二度目は『白』であった。

「まず、動かそう」

 楚王は迂回路で一旦『方』へ戻り、方向を変えて一つ駒を進める。マスの自由が無いため、こうでもしないと荀罃の駒を狩りにいけないのだ。

「それでは、御酒をいただきます」

 荀罃はそそがれた杯を両手で持つと、一気に飲んだ。辛く、少し強い。胃に落ちるころには熱さがあった。ふっと息を吐くと酒気の香りが漂う。思わず目の上を揉み、もう一度息を吐いた。

「なんだ酔ったか」

「いささか」

 楚王のからかうような声に、荀罃はく応える。

「晋人は酒が弱い」

 脇息にもたれかかり、頬杖をつきながら楚王が笑う。そう言う彼も目元が少々赤く、それなりに酒を飲んでいた。

「我が国は周に御酒を教わりました。酒作りにも作法がありますれば」

 荀罃は拝礼しながら言った。楚の酒は下品で下等だから悪酔いする、ということであり、慇懃無礼そのものであった。今まで黙って見ていた臣どもがどよめき、

 なんという無礼か!

 殺せ!

 今からでも贄に!

 と騒ぎだす。

「王よ! その非礼な晋人しんひとの腹をすぐにかっさばきましょうぞ!」

 誰かが鋭く言った。周囲からの圧迫が荀罃を襲うが、だからどうした、という開き直りがあった。家臣の怒号全てより楚王の軽口のほうが潰れそうなほど圧が強い。

 その楚王が脇息に拳を叩きつけて叫び返す。

「俺は! この遊戯でにえしちか決まると言った! 俺に食言せよと、言葉をひるがえせと誰が言った、出てこい! その舌を食らってやる、俺の前に来い!」

 一気に場が冷え、静かになる。否、楚王だけは、早く出てこい、と怒鳴っていた。寛容な王であるが、剽悍ひょうかん楚人そひとを率いる王でもある。臣どもは、王の激しさを思い出し、萎縮し怯えた。誰も、出て行けぬ。舌を食うと言うのであれば、本当に引っこ抜いて食うにちがいない。

「王よ。今の声は民、すなわち地の声です。楚を侮辱され怒らぬ民がおられましょうや。しかし、王と晋人は天の声を待つ身です。民の声より天の声こそ、重きもの。高きから低きへ全ては流れます。王が天の声を知り、民に教えれば、民も安んじるというものです」

 若い巫覡ふげきが、粛々と言上した。楚王はその言葉が気に入ったようで、許す、と大きく言うと、

「さて、お前の手番だ」

 と屈託無い笑みを見せた。荀罃は、その笑みに獣の牙を感じながら、サイコロを振った。

 出た目は一つは極めて小さく、ひとつは極めて大きい。ことわざで言うと帯に短くたすきに長し、というものである。むろん、当時にこのことわざは無い。

 荀罃じゅんおうは、幾度か動かしていた駒に大きな出目を使った。その駒は、ふくろうが一度二度で来ないような場へ進んだが、『方』のマスを通り過ぎてしまった。小さな出目で、『角』へ飛んだ駒を動かす。若干、『方』へ近づいた。よほど大きな目が出ない限り、たどり着けそうであった。

「堅実だな」

「家風です」

 睥睨するように眺める楚王そおうに荀罃が間髪をいれず返す。即答しているのは、荀罃の青さと度胸、そして恐怖のためである。怖れを悟らせないために、前のめりで返答している部分はあった。

 楚王は運がいいとはいえ、毎回良い出目というわけではない。一が出て、次に四が出る。

「どちらか揃えば良いのが、こういうのが困る」

 荀罃は、深く息を吸うと吐いた。一の目が二つ、四の目が二つは、もう一度振ることができる。賽の目がものをいうゲームであるため、振る数が増えるほうが良い。

 楚王は梟を一つ進めたあと、別の駒を進めた。

「……ですか」

 荀罃は呻くように言った。盤上にある荀罃の四つの駒のうち、一つは『方』に近づき梟を目指している。もう一つは孤軍のように遠くを回っている。あとの二つは動けていない。その合間を縫うように、楚王の駒が動いた。このゲームは前述したが、魚駒が後から同じマスに止まれば、前にいた魚に狩られる。荀罃の魚二つの前方に移動した楚王の魚は、嫌な障害であった。このマスを通過する出目を出さねば、梟に襲われる場のままである。が、同じマスに止まれば荀罃の駒はやはり取られる。良い出目でないかぎり、二つは動かしにくくなる。

 全ての数値を足して梟を動かすと思っていた荀罃は、眉をしかめる。同時に、底冷えする焦燥が襲う。死の恐怖が首を締め付けるように息が苦しくなる。手首をすかさず握り、脈を測りながら数をかぞえる。ひとつ、ふたつ。ふっと息を吐いた。力が良い意味で抜ける。

「それでは、私の手番です」

 サイコロをとり、碗に落とす。出目は良いとは言えない。双方、『方』のマスへ入れない数値であった。超過するのである。荀罃は孤軍の駒を動かした後、楚王の魚に近いものをひとつ動かした。ギリギリ、楚王のマスの手前で止まるものだった。

「あと一あれば、食えたものが」

 楚王が、荀罃の駒を指さす。

「あと二つあれば、あなたの前に来ていた。そうなれば、次に私が狩る立場でしょう」

 荀罃は、次のマスを指さした。荀罃のいるマスに楚王が飛び込めば、再び駒の数は同じとなる。あとは梟になっているかどうかだけの問題であり、荀罃は『方』を狙って駒を一つ置いている。

「互いの出目は良くない。天はどちらに言祝ことほぐか。さて」

 楚王が機嫌良さそうに肩を揺らしながらサイコロを振った。

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