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第4話 天に愛された王

 この盤上遊戯の決着は以下のどちらかである。


 ・相手の駒を全て奪う。

 ・ひとつの駒を『ふくろう』とし、場にある自軍の駒が五個とする。


 当時、鳥は川を下れば魚に、魚は空へ向かえば鳥になると思われていた。この遊戯はその価値観を投影している。

 基本的に手持ちはで、反時計回りにしかマスを進めない。が、中央にある『方』のマスに入ればとなり、反時計回りでなくとも動く事ができ、他の魚駒を狩れる。

 となれば、全ての駒が梟になれば良い、となるが、この遊戯において、梟駒は場に各人。また、梟駒は一度通ったマスを使えない。最終的に梟は飛べなくなる。そうなると、相手の梟駒に狩られ消す方が良い。そうして、新たな梟駒ができることに賭け、サイコロの出目に頼む。この攻撃的な梟は使い捨てを考えて動かすわけである。

 互いのサイコロの目にしたがい、荀罃じゅんおうが先手となった。先攻後攻について、この遊戯はさほど問題ではない。サイコロを二回振り、駒を二つ、進める。双六と同じで進む場所は一方向であり、マスも――現代人から見ると複雑ながら――決まっていた。

「軽易解。物事は簡単に解決できる、か。良い卦だな」

 荀罃の駒のひとつを指して、楚王そおうが笑った。占いとして使った場合の場所であった。占いであればここで終わりであるが、遊戯である。

 元々、焦っていたところに、しょうもない軽口を投げかけられる。不快と怒りをかきたてるに十分だった。荀罃は怒鳴りつけたいのを必死に耐え、頬を痙攣させながら睨み付けた。楚王が、堅い堅い、と笑う。たしかに、荀罃は年のわりに堅苦しいところがある。

 逆に楚王は立場のわりに柔らかい。その柔らかさの奥に鋭さがあるのを、荀罃はびりびりと感じていた。対面しているだけで底知れぬ怖ろしさがある。王の貫禄というものか。

 楚王もサイコロを振り、駒を進める。互いの出目はかぶらなかった。荀罃は内心落胆した。楚王があとから荀罃と同じマスに止まれば、その駒を荀罃が奪える。魚同士でも駒の奪い合いができるのである。軽易解という卦になんの意味があったのか、と不快となり、荀罃は軽く首を振った。たかが遊戯で出た卦に縋っていたと気づき、恥ずかしかった。

 互いにサイコロを振りながら駒を進める。出目によって場の駒を動かす場合もあれば、新たな駒を出すこともある。

 チリンチロリン。

 カツ、カッカッ。

 碗で象牙のサイコロが転がり、木の盤の上で駒が進む。楚王が荀罃の手に頷き、時にはそこを動かすか、と笑うが、荀罃はそれどころではない。さいの目に左右される駒の動きは理屈ではなくままならぬ。勝ち筋を狙おうにも、出目は思い通りにならない。楚王の出目ひとつひとつに息を飲み、己の結果で一喜一憂する。合間に酒も飲まされる。しんの酒より若干強く辛く、胃が重くなっていく。

 自分の命が少しずつ削られている心地で、胃液がせり上がってきそうだった。その恐怖、焦り全てを押し殺し、表情を消しているのは荀罃の矜持、否、大夫としての意地である。

 サイコロを振り、楚王が笑った。

「これで、梟だ」

 駒の一つを、『方』へ進める。『方』の中にあるマスは四つ。つまり、そのマスに進めるチャンスは四回である。互いに一度目のチャンスは出目により通り過ぎていた。

 楚王が持っていた駒を縦に置く。そうなると、魚の姿が梟になる。職人の真骨頂であろう。横向きに見れば魚に、縦に見れば梟に見える駒だった。魚眼が、獲物を狙う梟の目となり、荀罃を貫くようであった。

 荀罃は、手元にある黒い駒を見て、息をつく。賽の目の助けにより、荀罃は楚王の駒をひとつ奪っていた。今、場にある楚王の魚は四つである。勝利条件のひとつは潰していた。

「良いことを教えてやる」

 楚王が歌うように口を開く。荀罃は脂汗をかきながらその顔を見る。

「俺はこの遊戯、負け知らずだ」

 サイコロの出来は良く、偏りは無い。出目に左右されるゲームであるため、忖度しようがない。勝とうとして勝ちようがないように、負けようとしても負けようがないゲームである。

 つまり、楚王は天に選ばれた豪運ということだった。

 必ず勝つから、楚王は遊戯を出してきたのか。それとも、そこも含めて、荀罃の運命を占おうと言うのか。

 は、は、はっ。小さく息が漏れ出る。

 己の息が浅い。荀罃じゅんおうは、震える手で己の手首を触る。脈が速かった。自軍が崩壊して大敗、己は捕虜となっている。どう考えても運が良いとは言えぬ。腋の下を冷や汗が流れ、目の奥が痛い。身の底に恐怖が降り積もっていく。それは凍った雪のようでもあった。

 目の前の王は、即位前にさらわれようが生還し、即位後に異民族が襲ってこようがそれを屈服させ、凶を吉にしてきた。才だけではない、器だけでもなく徳だけでもここまでの至高とならない。凄まじい強運の持ち主。こういった人間を、天に愛されたもの、と言う。

 そのような王にとって、遊戯などおのが掌の上と言わんばかりであった。

『数をかぞえろ』

 脳裏に父の声が響く。父――荀首じゅんしゅは何事にも動じない男である。感情が豊かな兄を影から支え、目立つことなく静かに戦場を駆ける男でもあった。荀罃は演習で焦って指揮を間違えると、必ず荀首に諭された。

 ――己が焦っているとき、怖じたときは呼吸が浅くなるものだ。まず、脈をとりながら、ゆっくり数をかぞえろ。

 戦場でそのような余裕などあるのでしょうか、と返せば、無ければ死ぬだけだ、と言われる。こう書くとなんと冷たい親であろう、と思われるが、荀首は荀罃を溺愛している。いつも丁寧に教え、教養と徳、そして覚悟を全霊で伝える。荀罃も荀首の心が伝わり、真面目に務める。ただ、父に応えたいという思いが強く、時に焦る。

 荀首は、荀罃が同じ間違いを犯しても、同じ問いをしてきても、毎回応じた。

 頭を冷やせと言われてもなかなかできやしない。息を整えようとして、逆に整わずさらに焦ることもある。

 だから、脈で己を測り、数をかぞえて心を鎮めろ。きっと荀首が行ってきた方法を荀罃に教えたのだろう。

 荀罃は今、ようやく己の脈を測りながら、心の中でゆっくりと数をかぞえた。戦場では一度もしなかった。父の教えが身に溶けていなかったのだと今さらながら思う。

 いち、に、さん。四は必要なく、荀罃の冷や汗は引いていった。息が少しずつ整い、己の心に火がともった。しかし、脈はまだ速い。恐怖は足を掴んでいる。

 荀罃の前で、楚王が成った梟を見せつけるように指で押さえると、サイコロを手に取る。

ふくろうになれば、もう一度

 楚王そおうはゆっくりと言い、碗をサイコロで鳴らした。その声は自信にあふれており、強者以外の何者でもない。

「……良い出目だ」

 不敵な笑みを浮かべると、梟を荀罃の駒へ持っていく。そうして、を捕ると、己の前に置いた。

 荀罃の駒は五つになった。楚王の駒も梟あわせて五つである。盤上を見やれば、己の駒は『方』より遠い。一つ二つの手番で、同等になるとは思えない。

「お前の手番だ」

 楚王の差し出すサイコロを受け取り、荀罃は碗に落とした。

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