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第2話 敗戦

 車右しゃゆうが前に出て矢を受けたとき、荀罃じゅんおうは己の失態を知った。


 会戦という用語がある。一定地域に双方が大兵力を集結し行われる、大規模かつ決定的な戦闘を言う。春秋時代、南北の大国、晋楚しんそ間で三度の会戦があった。そのうち二度目はしんの惨敗であった。味方が敗退する中、せめてに一矢報いたいとした荀罃はいつのまにか楚軍に囲まれていたのである。

 ――これ以上は危険です、撤退してください。

 助言する車右の言葉を振り切ったのは荀罃である。その言葉が正しかったことを車右は主を庇って死ぬことで証明した。御者も矢で射ぬかれ、絶命している。荀罃は、己で兵車へいしゃを駆り、包囲を突破しようとした。立て直すにしても逃げるにしても、まずこの場から離れねばならない。

 手綱をとり楚軍の隙を見つけ、馬を走らせたところだった。兵車がぶつけられ、一人の男が飛び移ってきた。

「ち!」

 馬の足が止まったわけではない。荀罃は手綱をとりながら片手で剣を抜き、一閃、ごうとしたが、相手はで腕ごと剣を弾いてきた。鈍い音とともにぶちぶちとした痛みが襲い、荀罃は反射的に腕を押さえた。弾かれた銅剣は、兵車を越え地に落ちていく。そのまま楚人そひとは荀罃を殴りつけ手綱から引きはがした後、羽交い締めにしながら、馬を御して兵車を止めた。なんという余裕か、と荀罃は悔しさと共に舌を巻いた。

「この旗、お前は荀氏じゅんしか。けいの子か。良い拾いものをしたようだ」

 楚人が磊落に笑いながら、荀罃を後ろから組み敷き兵車の床に押しつける。荀罃がもがくと体重をかけ、戈の持ち柄を再度振るい、背中を打った。荀罃は痛みにさけびそうになったが、唇を噛み斬って耐え、なんとか口を開く。

「私は、卿の子ではない」

 卿、つまり大臣は荀罃の伯父である。そこまでは言わず、

「たいしたものではない」

 と言った。楚人は少し考えるそぶりを見せた。小者であるなら殺してしまおうか、とでも思ったのであろう。が、

「しかし卿の氏族なのであろう。やはり良い拾いものだ」

 と言って、荀罃の腕を手早く縛り上げると、手勢と共に荀罃を己の兵車に放り入れた。楚人の兵車が意気揚々と走っていく。晋軍がどんどん遠くなる。

 荀罃は、生け捕りとされた。いまだ二十そこそこの若者にとって、初陣でもあった。そのまま初めての屈辱と悔恨となった。

 勝利した楚軍は、隊列を乱すことなく南へ帰っていく。荀罃は罪人用の馬車に放り込まれ、他の捕虜と共に連れて行かれた。捕まった中で、最も身分の高いものは荀罃だった。

「ああ。母さんが心配しているだろう、俺はどこに売られるんだろう」

 歩兵と思われる男がぶつぶつ呟いている。捕虜は、奴隷として売られていくのが常識である。荀罃もどこかに売られる可能性はある。が、卿の氏族と知られており、交渉の道具にされる可能性もあった。

 奴隷にされるにせよ、道具になるにせよ、捕虜は人とされない。まあ、この時代、奴隷から王にいたるまで、人権など無いのであるが。

 数日かけた凱旋の旅の果て、たどりついた楚の都は晋と違って湿気が多かった。吹いてくる風に砂は混じっておらず、森の匂いが混じっている時があった。土で作られた壁の文様や様式の違いに、捕まった晋人しんひとは怯えた。荀罃は怯えなかったが、趣味ではないと思った。鳥や人面の意匠を凝らした外壁や柱は、ゴテゴテとして品がないとも思った。

 捕まった晋人は選別され、売れそうなものは生かされ、売れなさそうなものはそのまま殺された。荀罃は殺されなかったが、売られることもなく、再び馬車に押し込まれた。

「勝利の儀に、荀氏の介添えが欲しいと、我が王の仰せだ」

 迎えにきた楚人が楽しそうに言った。宴でさらし者になるのかと、荀罃はうんざりした。この青年は、いまだ世間知らずだったと言って良い。捕虜というものが、分かっていなかった。

 楚王そおうは、荀罃を一瞥したあと、猛々しい笑みを浮かべ闊達に言った。

「初めまして、そしてさようなら。お前を贄とし、その血肉を祖霊に捧げる」

 にえ――。

 荀罃じゅんおうは、言われた意味がわかり、楚王そおうを見た。あまりの言葉に驚愕が襲い、腹の奥がずり落ちるような恐怖におののく。下を向いていては耐えられぬ。平伏せねばならぬ身であったが、礼儀をかなぐり捨て頭をあげ、楚王を凝視しながら唾を飲み込む。想像もしなかった己は、うかつでしかない。異民族を贄にするなど、しんもしていることだった。

 楚王は、荀罃が悲鳴も上げず、項垂れることもなく、果敢に睨み付けてきていることに感心をした。楚王りょ諡号しごう荘王そうおうは楚随一の名君であり、この時代を代表する天才の一人である。革新を愛し、政治軍事に優れ、臣に対して心の広さと不正を許さぬ厳しさを合わせ持つ、カリスマそのものと言って良い。この時期、三十路であったろうか。とりあえず、ここは楚王で通そう。

「……晋の中軍ちゅうぐんの将は荀氏じゅんしおさ、その弟は下軍かぐん司馬しば。今回、下軍は我が楚に最も蹂躙された。民の弱さはいたわるものだが、大夫の弱さは罪悪でしかない。さて、弱き下軍の司馬の息子、よ」

 楚王がいっそ軽薄な声音で、呼びかけた。

 その瞬間の、嫌悪、汚辱、恥辱、赫怒かくどをどう表せば良いのであろうか。荀罃は怒声をこらえるため、爪を立てて掌を傷つける。か、と小さく呻いた後、歯を食いしばって楚王を睨み付けた。視線で殺せるのであれば、荀罃は楚王を殺しきっていたであろう。それほどの、憎悪に満ちた目つきであった。

 低く唸るような声が喉奥から出る。

「許し無きながら、呼びかけられたゆえ、このおうより申し上げる。我がいみなを呼ぶにあたいするは、我が君と我が父のみ。覚悟のうえのお言葉か」

 確かに晋は弱かった。己のいた下軍は総崩れであったから最も弱く、主君の命を果たせなかったから罪はある。ゆえにそこは良い。が、名を呼ばれるという屈辱はいかようにも許せなかった。脳が沸騰し、はらわたが煮えくり返る。贄になれ、という言葉など、天の果てに飛んでゆく。獲物に襲いかからんとする猟犬のような顔つきで、荀罃は睨み付けた。飛びかからなかったのは、彼の精一杯の矜持である。感情のままに暴れるのではなく、理性を以て戦い、息の根を止めてやりたかった。

「贄に主君も父もない。お前はえびすだ。我が楚に随わぬ国々の親玉、我らの外敵、すわなち夷という」

 楚王が、噛んで含めるように言った。まるで、講義をしているような様子であった。周囲の臣より失笑が漏れる。楚を蛮夷ばんいだと触れ回っているのは晋である。その晋こそ、野蛮人だと楚王は教えてやっているのである。楚の人々も溜飲が下がるというものだったが、捕虜一人辱めてすっきりするのは、器の大きい楚王らしくない。

「生け捕りの戦いに敗れた夷は贄としてびょうほふる」

 言いながら、楚王は荀罃をぴったりと指さした。荀罃は怒りを散らすように大きく息を吸い、吐いた。諱を呼ぶという恥辱で惑乱させ、犬のように屠るつもりか、とも思った。それでは、せめて冷静になり、人として殺されたい。しかし、そう思えば、やはり怖ろしさが背骨を滑り落ちていく。

 贄であるからひと思いに殺されはしない。その恐怖とともに、懊悩が襲う。父祖より貰った身を潰し、皮をなめされ、敵国の太鼓になる。不孝この上ない。さらに、死後も皮のない体をさらして黄泉をさまようのだ。

「罃よ。お前は、古来からの取り決めにより贄とし、祖霊に捧げる。その皮を以て鼓を作り、その血を以て鼓の彩りとしよう。骨は廟に捧げられ、肉は宴に捧げられる」

 生きたまま皮を剥がされ、血を抜かれながら家畜のように屠られる。解体され、骨は祖霊を祀る祭壇で、肉は楚王の宴で、それぞれさらしものにされる。荀罃は名を再び呼ばれた屈辱と、想像を絶する死の恐怖に顔を青ざめながら目を見開き、奥歯が軋むほど歯を食いしばった。何度も息を吸い、吐くため、鼻の穴が大きく広がる。それでも、下を向いてはならぬと、楚王を睨み付けた。贄にするなら、言葉で嬲らずさっさとすればよい。このような、陰湿な男を英雄然とする楚など早々に滅ぶ、とまで思い、楚王を睨む。

 さて。楚王はとても楽しそうであった。楚という国は、陽性の質があり、代々の王は諧謔を好むところがある。

「少々……いや、かなり趣味が悪かった、許せ。しかし、軽重くらいは計らせろ。さて、我が臣がそちらの虜囚になっていることもある。お前を贄にするか、しちにするか、遊戯で占おうではないか。お前は、その資格があると見た、はくどの」

 屈辱をきちんと覚え、節度を持ち恥辱に耐える。恐怖に耐え、命乞いする卑しさ無し。若さゆえに生の感情を出してくるが、楚王はそういった青年が嫌いではない。

 茫然とする荀罃の前に布が敷かれ、盤上遊戯が並べられていく。

「さあ、楽しませてくれ」

 玉座から降りてきた楚王が、荀罃に対峙して、にっかと笑った。

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