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第9話

「見事な弁舌だったな。孔明」

「いえいえ、士元が情報を集め、整えてくれたおかげです」

 会議が決した翌日、長江のほとりで龐統と諸葛亮は並んで腰を下ろしていた。釣竿を垂らし、のんびりとした時間を過ごしながら、言葉を交わし合う。

 目の前では忙しなく軍船が行き交っている。決戦に向けて兵力を移動させているのだろう。周瑜は本日から水軍の指揮を執り始め、全体に檄を飛ばしている。

 それ故に龐統と諸葛亮は半ば放っておかれる形である。

 ただ、暇なのは良いことである。二人は平穏を満喫するべく釣りをする。諸葛亮は釣り糸に気を配りながら、ちら、と龐統を見た。

「それにしても、周瑜殿には大分、気に入られているようですね。士元。挨拶すると、随分親しみを込めて接されましたよ」

「ああ、仕えないかと熱心に乞われているんだ。だから恐らく俺の親友の孔明にも良い印象を持ってもらおうとしているんじゃないか?」

「ああ、将を射んとする者はまず馬を射よ、という奴ですか。基本ですが有効です」

 諸葛亮は軽く笑っていたが、少し気にするように訊ねる。

「――ちなみに周瑜殿に仕える予定は?」

「今のところは。劉備殿との約束もある。劉備殿が荊州を制したら、さっさと戻って平穏を享受する、というのが目標かな」

「確かに、充分に義理を尽くしてくれましたね、士元は」

 しみじみと告げる諸葛亮は少しだけ苦笑を滲ませて言う。

「わざわざ私を呼び出したのも――ついでに言うならば、魯粛殿に私を呼ばせたことも、貴方の計算のうち、なのでしょうね」

「そりゃあな。そうでないと、劉備軍と孫権軍の同盟はならなかった」

 龐統は肩を竦めながら淡々と答える。

 あの議場での立ち回りはやろうと思えば、龐統もできたのである。何せ、彼の語った内容はほとんど龐統による入れ知恵なのだから。

 それをやらなかったのは、面倒くさいのが理由の一つであるが。

 劉備軍の参謀である諸葛亮にやらせる、ということが大事だったのだ。

(俺は劉備軍に所属していない以上、同盟の使者という役割を果たせないし)

 それに周瑜は水軍に自信のある人物だ。劉備軍の同盟は不要、とまで言ってのける可能性があった。だからこそ、諸葛亮が必要不可欠だったのだ。

 果たして諸葛亮が論破したことで自然と同盟のことも織り込み、抱き合わせの形で曹操軍との決戦と、劉備軍との同盟を決定させることに成功した。

 まさに計画通り、といえよう。

「ちなみに士元、一つよろしいですか?」

「ん? 何だ?」

「何故、魯粛殿に私への使者を出させたのですか? 周瑜殿に使者を出させても良い気はしますが……」

 諸葛亮は心底不思議そうな声で訊ねる。思わず龐統は苦笑してしまう。

(本当にこいつは机上で考えているんだな……)

 この場合は周瑜殿がどういう人物であるか、という計算が抜けているのだ。

「周瑜殿に諸葛亮を呼ぶことを提案したら、確実に拒否されていたよ」

 周瑜は誇り高く、自分の有する軍の実力、そして、軍略に自信を持っている人物だ。確実に劉備軍との同盟は考えていなかったはずである。

 そんな彼に諸葛亮を呼ぶことを提案すれば、どう思うか。

 自分の軍が曹操軍と渡り合えない――そう龐統に判断されたと思い、いたく誇りを傷つけられたことだろう。もしかしたら、龐統に失望するかもしれない。

「対して魯粛は、友人のためならば誇りを捨てて頭を下げられる人物だ。同盟の橋渡し役には適任だと思ったんだ」

 何しろ、周瑜の頼みを聞き入れて龐統に会いに来て、策を乞うために真っ先に頭を下げた人物なのだ。前世で学んだ史実でも、魯粛は劉備と孫権の同盟の維持に骨を砕いていた。

 まさに適任――いや、最適とまで言っていい人物だと感じていた。

「なる、ほど……士元はそこまで考えていたのですね」

「一応、な。天下三分の計を考えると、劉備軍に同情的な人物がいた方が良いのだろうし」

「むむむ……敵いませんね。士元には」

 小さくため息をつき、諸葛亮は視線を正面に向けて続ける。

「――私よりも劉備軍の軍師として相応しい気がしますが」

「それは御免だね、そんなことを担当したら忙しすぎて死にかねん。俺はあくまで平穏無事に暮らしたいだけだ」

「その割には、面倒事をよく引き受けてくれますが」

 茶化すような諸葛亮の声に龐統は肩を竦めていると、ふと背後から笑い交じりの声が聞こえる。

「友達想いなの。士元は」

 玲花の声。それに龐統は振り返り――思わず、目を見開いた。

 そこに立っていたのは可憐な装束に身を包んだ女性だったからだ。

 長い髪が長江から吹く風に揺れ、薄っすらと紅が差した唇が弧を描いている。その姿は陽射しで美しく艶やかに照らされていて――。

 思わず、見惚れてしまう。彼女は目をぱちくりさせ、わずかに首を傾げる。

「――士元?」

「あ、ああ……うん、その……」

 言葉がすぐに出てこない。龐統は思わず口ごもっていると、傍らで諸葛亮が小さく噴き出し、軽い笑い声を響かせた。

「いつも泰然自若としている士元も、そんなに狼狽えることがあるのですね」

「……悪いか。孔明」

「悪くはありませんよ。むしろ好ましく思います――とはいえ、私がここにいては無粋ですね。失礼いたします。士元、玲花殿」

 諸葛亮は釣竿を引き上げると、一礼して立ち去ってしまう。あまりにも見事な去り方であり、龐統は動けずにその場に取り残されてしまう。

 その視線の先では、気恥ずかしくなったのが少しもじもじする玲花。

 彼女の姿に目が離せない。いつもとは明確に違う姿で――。

(――いや、そうじゃない、か……)

 ちら、と上げた玲花と目が合い、ふと実感する。

 この姿もまた、玲花の一面であって。

 龐統が目を逸らそうとしてきた、大人びた玲花なのだ。

 彼女の好意は幾度となく感じてきた。だけど、そのたびにごまかしてきた。この居心地のいい家族のような関係を壊したくなくて。

 だけど、玲花はこうして踏み出してきた。恥ずかしがりながらも足を踏み出し、また好意を伝えようとしている。

 またごまかすのは簡単だ。でも――。


『相手がどんな一面を見せてきたとしても、貴方らしく向き合えばいい。それが何よりの答えだと思うのだが』


 周瑜が告げた言葉が脳裏を過ぎる。気づけば龐統は前へと歩み出し、手を伸ばしていた。そのまま、そっと彼女の身体を抱きしめる。

「――っ……」

 息を詰まらせ、軽く身体を強張らせる玲花。その華奢な身体の感触を確かめながら、龐統は小さく声を掛ける。

「綺麗になったな。玲花。俺が、目を離せなくなるくらいに」

「……し、げん……」

 微かな声がこぼれ、彼女の身体がわずかに震える。それから彼女の腕がそっと龐統の背に回される。それから湿った声が返ってくる。

「――やっと、見てくれた」

「うん……悪い。目を逸らし続けていたな」

「ううん……それだけ、私が未熟だったから。だけど、やっと届いた」

 安堵と嬉しさが滲む、感極まった声。こんな声は初めて聞く。

 その声にそっと身体を離し、向き合って目を見つめる。

 笑顔も、泣き顔も、嬉しそうな顔も、辛そうな顔も、寝顔さえも見てきたけど。

 今浮かべている玲花の顔は、今までに見たことがない――。


 恋する、乙女の顔だ。


 上気した頬と潤んだ瞳――真っ直ぐに龐統を見つめる玲花はそっと龐統の顔に手を添える。そのまま目が合わせていると、彼女は甘い吐息をこぼして訊ねる。

「ね、士元――」

 瞳と態度から伝わってくるのは、もはや隠そうとしない好意。

 乞うような声と共に彼女は瞳を閉じ、顔を近づけてくる。それを前にして龐統は目を細めて手を彼女に伸ばし――。

 唇を人差し指で押さえた。

「……むぅ?」

 拍子抜けしたように玲花は目を開け、やがて不機嫌そうに唇を尖らせる。その表情は幼さが入り交じっていて少しだけおかしい。

 思わず笑い返しながらも、龐統は穏やかな声で告げる。

「今すぐその気持ちに応えたいところだが――少しだけ、待ってくれるか。玲花」

「ん……なんで……?」

 切なそうな声に少しだけぐっと胸に来てしまう。それを表情に出さないように堪えながら、龐統は彼女の軽く頬を撫でて言葉を続ける。

「俺たちも道はまだ半ばだ。乱世から未だ離れることができず、中途半端に関わっている身。そんな半ばで玲花の気持ちは受け止めきれない、気がする」

(むしろ、この状況が続いているといずれ、玲花を本格的に巻き込む気がするし)

 玲花の出自はかなり特殊で、訳ありだ。

 それを知るのは今のところ、龐統と徐庶だけ。だが、それが迂闊に世間に知れ渡ってしまえば、乱世は彼女を放っておかない。必ず巻き込まれ、二度と抜け出せないだろう。

 だからこそ、龐統もきちんとこの乱世にけじめをつけたい。

 友と明日を生き抜く筋道を立ててから、無事平穏に暮らしたいのだ。

「できることなら、平穏をきちんと手にしてから、玲花の気持ちを受け止めたいんだ――だめ、かな」

 その気持ちを込めながら、穏やかに龐統は玲花に訊ねると、彼女は不服そうにしていたが、やがて彼の肩に額を押し付け、ぐりぐりと擦ってくる。

「……士元の、ばか」

「……え?」

「私のこと、気遣ってくれているでしょ。私が、あの人の娘だから」

 見抜かれている。さすが龐統の教えを受けた玲花だ。苦笑をこぼしながら頭に手を置き、龐統は軽くぽんぽんと撫でてやる。

「いや、まぁ……別にそれだけじゃないけど」

「じゃあ、なに……?」

「その、改めて玲花と向き合う時間が欲しい、というか」

 そう言いながら思い返すと最近、忙しなかったことを思い出す。

 無論、玲花と過ごす時間も多かったが、それでもしっかり向き合えたかと言えば、正直曖昧だ。襄陽で暮らしていたときのように夜っ引いて話した記憶もない。

「家族としてではなく、玲花と向き合いたいんだ――どうかな?」

 その言葉に玲花は言葉を詰まらせ、やがて身体を離すと、じとっとした目を龐統に注いでくる。やがて深いため息と共に仕方なさそうに眉尻を下げた。

「――そう言われたら、断れないよ。士元」

「悪い、ありがとう。玲花」

「お礼はいい……全く、士元って本当に変な人。士大夫らしくない」

「んー、玲花にも言われるかー……」

 苦笑をこぼしてしまうが、それは仕方のない話だろう。

 この時代の人々は儒学を基にした教えが多いが、前世が日本人である龐統はその記憶に仏教と神道の教えが根付いているのだ。そういった価値観の相違が大きい。ちなみに、諸葛亮や徐庶は教養深いため、『もしかして士元は浮屠の信者では?』と言われたこともある。

 いずれにせよ――。

「そういうところももう少し、玲花に知って欲しいかな」

「ん、士元のことなら何でも聞かせて」

 間近な距離で微笑む彼女は昔のような笑顔で――だけど、頬を染めて可憐でもあって。

 龐統は愛おしい気持ちのまま、彼女の前髪を掬い上げながらそっと唇で触れる。

「あ……士元……」

「少しだけ、前払いだ」

 顔を真っ赤にする玲花に笑いかけると、龐統はそっと身を離した。それから釣竿の元に戻って片付けをし、再び玲花の傍へ。

 その手を取って引くと、彼女は顔を真っ赤にしながらついてきてくれた。


「――おっと」

 屋敷に戻り、玲花と二人で廊下を歩いていると、向かうから歩く人影が目に入った。それを見て慌てて玲花は龐統の手を離す。

 龐統は釣竿を預けると、歩いてくる彼に恭しく一礼した。

「これは――お戻りでしたか。周瑜殿」

「ああ、先生。少し前に戻ってな、ぜひとも諸葛亮殿を交えて先生とお話しようと思っていたのだ。無論、曹操軍に対する戦略についてで――ごほっ」

 周瑜は拝礼と共ににこりと微笑むが、その言葉の途中で咳がこぼれる。口元を抑える彼を見上げ、龐統は微かに眉を寄せる。

(――なんだ、あまりにも顔色が悪いような……)

 顔面の血の気がない、というか、あまりにも真っ青で唇の色も淀んでいる。

「周瑜殿、お体の加減は大丈夫ですか?」

「いやなに、皆心配するが問題はない――っ」

 笑って言いかけた周瑜の声が詰まった。直後、彼は口元を抑えて顔を背ける。げほ、ごほ、と湿った咳が激しくなる。その姿に嫌な予感が駆け抜ける。

「玲花、誰か呼んで来てくれ。それと医者の手配を――」

「む、無用――ごほっ」

「玲花ッ!」

 周瑜の声を遮って鋭く促すと、玲花は弾かれたように頷いて駆け出す。龐統は周瑜を支えるべく傍に寄った瞬間、ごほっ、と今までとは違う咳の音が響き渡る。

 直後、周瑜の口元から真っ赤な液体が零れ落ちる。


 ――鮮血。


 それに目を見開いた瞬間、周瑜の身体がぐらりと揺れ、床に崩れ倒れる。

「周瑜殿……周瑜殿ッ!」

 慌てて龐統はその身体を助け起こす。だが、その彼はあまりにも力がない。見上げた彼の瞳は虚ろを見上げ、口元からは鮮血がこぼれだす。

 慌ただしく人が行き交う音を聞きながら、龐統は周瑜に声を掛けることしかできない。


 長江の風は生温かく、血の匂いを孕んでいた。


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