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第8話

 諸葛亮孔明は、転生者である龐統が天才だと思う人間の一人だ。

 常に切々とした梁父吟を歌う妙な癖があるものの、その知見は深く、様々な書物を読んだだけで記憶し、暗唱することができる才能の持ち主である。

 何か計画を立てれば細部まで細かく詰め、徹底して実行する。彼が農夫の時代に指揮した開墾は的確であり、非常に効果的に成果を上げていた。

 欠点があるとすれば、その彼の計画が細かすぎることだ。

 それにはこうあった欲しい、いや、こうなるはずだ、という願望も入り交じるため、時折、それは机上の空論になってしまい、仲間内でも失笑されることはあった。またその計画を担当する人員の感情などは含まずに計算していた。

 こういった性格が恐らく、史実における荊州失陥や馬謖の起用に繋がるのだろうが――。

 それはさておき、裏を返せば、その彼の欠点はこうとも言い換えられる。

 彼は机上の空論においては、最強の軍師である――と。


(さーて、天才軍師さんよ、お手並み拝見と行こうか)

 従者の身なりに扮した龐統は部屋の隅で立ちながら、議場に堂々と立つ諸葛亮を見る。唐突に龐統や魯粛に呼び出された彼だったが、その姿は動じない。

 龐統と顔を合わせるなり、分かっている、とばかりに頷き、わずかな時間で状況を訊ねて把握し、こうしてこの場に足を運んでくれたのだ。

 実に堂々とした態度であり、居並ぶ者たちの名を問い、礼を尽くして回っている。それに感心した眼差しを向ける者も少なくない。

 とはいえ、まだ多くの人物が疑りの目で見ている状況だ。

 その中で孫権が朗々とした声で訊ねる。

「遠路はるばるようこそ来られた。諸葛亮殿。では早速だが、まずは曹操軍の兵力について語っていただきたい」

 諸葛亮はその言葉に頷き、ぐるりとさり気ない所作で議場を見渡す。周瑜、魯粛にも視線を送り、最後に龐統をちらと見てから彼は孫権に視線を戻した。

「では、この議場の皆様に説明させていただきます。曹操軍の軍勢は百万と号してはおりますが、実のところは十八、あるいは十九万と見ています」

「その根拠は」

「劉備軍が客将をしていた荊州の兵力はおよそ八万といったところであり、これが全て降伏致しました。また斥候が確認した、南進する曹操軍の兵力は十五万ほど。合わせればおよそ二十三万です。尤も、荊州軍の一部は曹操が求める兵の練度ではないでしょう。それらを留守居として各地に残した場合、現実的な数字がその程度であると類推します。確実に、二十万は行かないでしょうね」

 諸葛亮は淀みのない口調で説明すると、万座を見渡してさらに言葉を加える。

「無論、推測だけでなく、各地に密偵を放つことで都度、修正をしております。これは確固たる根拠があってこその数字でございます」

「――ほう、なるほど」

 孫権の面持ちが少し心を揺り動かされたように目尻が緩む。

(まぁ、それも無理はないか)

 揚州軍の兵力は各豪族から捻出しておよそ十五万。実際は出し渋る勢力も多いだろうから、八万から十万が限度であろう。それらの兵力で二十万以上を相手するとなると、気後れするが、十九万くらいなら少しは希望を持てる気がするのだろう。

 その揺らぎを見て取ったのか、文官の上座に座る男が孫権を見やり、それから咳払いをして腰を上げる。丁寧な拝礼をしつつも、鋭い眼光が諸葛亮を射貫く。

(孫権軍の文官の筆頭ともいえる、張昭か)

「では問わせていただこう、諸葛亮殿。曹操軍を破る手立てはあるのであろうか」

「無論、ございます」

 諸葛亮は頷くと、議場全体を見渡しながら悠々と語り始める。

「先んじて申し上げた通り、曹操軍は遠征してきた兵と荊州軍を併せたもの。特に水軍は荊州水軍をそのまま流用したものになります。つまり大半は忠誠心を欠く降伏兵。それも日夜の行軍で疲れ切っている現状。劉備軍と孫権軍の兵の質と比べて圧倒的に劣るのは事実です。遠方から射た矢は、薄い絹も破れぬと申します。負ける道理はないでしょう」

 そこで言葉を切ると、諸葛亮は手を挙げて合図する。魯粛は悠然と進み出て、大きな地図を広げる――江夏郡を一帯とした地図だ。

 その一点。江陵を示し、そこから流れる川に指でなぞっていく。

「無論、曹操もそれは承知でしょう。ですので、大軍で威圧する戦術を試みています。我らの諜報網によれば、曹操軍は陸軍で江陵に移動しています。恐らくは江水から大船団で降るつもりでしょう。その川を埋め尽くす軍勢で威圧し、降伏する。弱腰の将士たちがいれば、それを見て怖気つくでしょう」

 諸葛亮はそこで言葉を切り、文官の方を見やる。その嘲るような視線を感じ取り、文官たちが表情を険しくする。張昭はそれを視線で制し、続きを促す。

「ですが、よくよく見ればその軍勢は南の風土や水上戦に不慣れ。まさに張りぼての軍勢であることは一目瞭然。隙はいくらでもあります」

「ふむ――仰ることには一理あるようだ。だが、諸葛亮殿」

 張昭は頷きながらも、隙のない口調で問い詰めるように続ける。

「曹操は稀代の軍略家。その弱点を放置しているはずがあるまい」

「そうでしょう。現に江陵に陸軍を移動させたことがその証左。恐らくは江水沿いに進め、水軍の露払いをする役目を負っていると推測します。そして同時に退路を確保する役目もまた。つまりこれが示すことは曹操が水軍に信頼を置いていないこと」

 理路整然と反論し、諸葛亮は再び地図を示して言葉を続ける。

「であれば、曹操の隙のない戦略も見えてきます。恐らく彼は陸軍を主軸で使おうと考えているはずです。ですが、揚州に陸軍を入れるためには、長江を渡る必要がある。その橋頭堡の確保のために、水軍を用いているのでしょう」

「それだけのために?」

「無論、威圧も兼ねてでしょう。ともあれ、以上が曹操の戦略であると踏まえれば、曹操軍を破るのは至って簡単なこと」

 諸葛亮は地図に視線を向け、江水沿いに指先を動かす。


「まずは南下する船団に対し、三万ほどで耐えず攻撃を仕掛けます」


 諸葛亮が言った通り、曹操軍の水軍はほとんどが降伏兵。

 荊州の船は船足が遅いことが、乗ったことがある龐統たちがよく知っている。何せ、川賊に追いつかれるくらいだったのだから。

 その敵を相手にするくらい、周瑜の部隊だけでも容易いことだ。


「併せて進む陸軍には伏兵を仕掛けて対抗。陸軍は曹操軍の主力であり、精鋭です。深追いは不要。それよりも優先すべきは、兵站線を乱すこと」


 兵站線――つまり補給が乱れれば満足には戦えない。それに不安を覚えた陸軍は後方の守備に注意を払わなければならない。つまり、陸軍と水軍の連携は乱れる。


「そうなれば曹操軍は体勢を立て直すことを優先します。その地点は水軍や陸軍を駐屯できる、拓けた場所――恐らくはここ、烏林。場所が分かれば罠も仕掛けられます」


 糞尿や死骸をばらまき、その上に土でもかぶせればいい。そうすれば自然と駐屯する間に疫病は満ちて行くだろう。傷病者が増えれば戦うこともできない――。


「畢竟、曹操軍は戦わずして逃げます。まぁ、火でもつければ追い打ちになります――この通り、曹操恐れるに足らず」

 諸葛亮はそう言い切ると、しん、と議場が静まり返る。

 その計略は龐統が語った内容とぴたりと一致していた。

(まぁ、揚州を発つ前に諸葛亮とは散々語り合ったから、一致して当たり前なのだが)

 だが、その内容に仔細、細やかな情報を付け加えて捕捉し、説得力のある説明に完成させているのは、さすが諸葛亮といったところか。

 魯粛は感心したように深々と頷く一方、周瑜は少しだけ苦笑を浮かべている。

 今語ったのは机上の空論。恐らく、そのように上手くいけば、武人は苦労していない――そんな雰囲気だ。

 諸葛亮の説明に耳を傾けていた張昭は一つ頷き、では、と低い声で続ける。

「曹操恐れるに足らず――そう仰るならば、何故、劉豫州はむざむざ敗走されたのか」

「敗走ではございません。戦略的撤退です」

 諸葛亮のさらりとした言葉に、張昭は絶句する。

 誰がどう聞いても明らかな詭弁だ。だが、諸葛亮は力強く続ける。

「劉備様の軍勢は少数ながら悉く仁義の兵にございます。であるならば、何故、死地でわざわざ命を投げ打ちましょうか。劉備様の軍勢は貴方がたにそう言われる恥を耐え、捲土重来の機を待つべく命を繋いだのです。対して、貴方がたはどうでしょう」

 そう言いながら諸葛亮は視線を孫権の臣下たちに向け、言葉を重ねる。

「この地は山川沃地広く、兵馬逞しく、長江は険しい。まさに守るに易い地であるにも関わらず、劉備軍と違って一戦もせず、曹操軍の膝を屈しようとしている――少なくとも私には自らの安寧のため屈する惰弱者たちに見えますが、いかに?」

 その談に一部の孫権軍の将士たちが表情を歪める。その様子を眺めながら、思わず龐統は苦笑をこぼしてしまう。

(相変わらず弁が上手いことだ)

 劉備軍が逃げた事実を上手く正当化しつつ、孫権軍が戦わずに降伏しようとしているを指摘し、挑発しているのだ。これには孫権たちの臣下たちもいきり立たざるを得ない。

 張昭は自身の言葉が巧みに利用されたことを悟ったようだ。これ以上、利用される愚を避け、口を噤んで着座する。その様子は諸葛亮に論破されたようにも映る。

(そうなれば、若い者たちが負けてなるものか、と口を開く――かな?)

 龐統は推察した直後、一人の文官が立ち上がって礼をし、口を開いた。

「曹操殿は漢王朝の丞相にて、大義を掲げる御仁であるからに――」

「いえ、違います」

 言葉を途中にして、諸葛亮はぴしゃりと言い放つ。礼を欠いた行動に目を見開く文官に対し、諸葛亮は何食わぬ顔で言葉を続ける。

「曹操は漢室の賊臣である。そのような男を丞相と認めるとは、嘆かわしい」

 やれやれと首を振り、あり得ないことだ、と態度で見せる諸葛亮。文官は顔を真っ赤にすると、荒々しい口調で続ける。

「曹操殿は天子を助け、天下にはびこる賊徒を討ち払い、もはや三分の二を漢王朝に帰している。何故そのような行為を為す者を賊臣と誹るのか!」

「その王朝に帰したという三分の二で兵を肥やし、私腹を肥やしているからです。曹操は相臣曹参から続く、漢王朝に四百年以上一族で仕え、禄を食んできたというのに、その恩義を返そうとせず、ますます増長している。これを賊臣と呼ばずして何という」

「……っ、しかし、そうだとしても漢王朝の丞相であられるのだぞっ」

「いかにも。ただし、ご存知でなければ申し上げるが――皇帝からも逆賊から見なされている男です。その証左に、皇帝から『曹操を討て』と密勅が下っています」

「なに……っ」

 ざわめく孫権軍の武人、文官――それを眺めて龐統は無理もない、と思う。

 その密勅は偽だと断じられ、徹底的に揉み消された内容だからだ。だが、実際に真偽はどうあれ、密勅は実際に下されている。

 その下された人物は龐統や諸葛亮がよく知る人物だ。

「現に我が主、劉備玄徳にその勅令が下されました。知る人はご存知ですが――そうですね、張紘殿がおられると思いますが、ご存知では?」

 諸葛亮の言葉に文官たちが静まり返る。やがて張昭の隣に腰を下ろしていた張紘が立ち上がり、しゃがれた声で肯定する。

「真偽はさておき、そのような密勅が出たことは耳にしたことがある。それに劉備殿が名を連ねていたことも、聞き覚えがある」

 その声に諸葛亮は不敵に笑みをこぼし、龐統は軽く鼻を鳴らす。

(張紘がいるなら、証言してくれるだろうな)

 そのとき、張紘は曹操の下に使者として赴き、孔子の子孫を称する孔融たちと親しく交際したという。彼ならば車騎将軍だった董承たちに下された密勅も知っているはずだ。

 無論、そこに劉備が名を連ねており、それ故に曹操から追われていることも。

「劉備様は皇帝の勅命を受け、曹操を討とうとする使命に邁進しています。そんな逆賊に降伏などできましょうか。命果ててもそれが本望――ですが、貴方がたはどうでしょう?」

 さらりと諸葛亮は言いながら、流し目を文官たちに注ぐ。その眼差しに全員が一瞬呑まれた。上手く議論を誘導し切った諸葛亮の手腕に龐統は苦笑する。

(俺にはできない、というか、そもそも面倒だからな――)

 その丸め込みに感心していると、文官の一人が勢いよく立ち上がる。

「陸績と申します。諸葛亮先生に一つお伺いしたい」

 その言葉に諸葛亮は不敵に笑い、目を細める。

 その姿は余裕に満ちており、まさに稀代の軍師というべき姿だ。彼は悠然とした態度で微笑み、文官全体を見渡して告げた。

「何なりとお聞きしましょう」


 それから文官たちは勢いよく席を立ち、諸葛亮に舌戦を挑んだ。

 だが、諸葛亮は涼しい顔で弁舌を振るい、論破する、議題をすり替える、意見を主張する――。

 劉備の宗族としての出自を疑う者には、曹操の出自や非道を問い返し。

 諸葛亮の真意を問う言葉には、故事を引いて自身の正当性を主張。

 諸葛亮の知恵を疑う者には、学か絶対に必要かと問いかけ。

 では、知恵は不要なのか、という者には、その者の非才をなじる。

 もはや、議場は諸葛亮の独壇場であった。

 滔々と息も切らさず弁舌を振るった諸葛亮は、やがて誰も声を上げなくなったことを感じ取ると、無念そうに首を振ってから孫権に視線を向けて拝礼した。

「――孫権殿、正直なことを申し上げてもよろしいでしょうか」

「うむ、良かろう」

「ここに集うは孫権殿を支えるべく知謀に優れた者たちだと考えておりました。ですが、それにしては些か失望を隠せません」

 その言葉にざわめく文官たち。だが、孫権は手を挙げてそれを制し、視線を諸葛亮に注いで続きを促す。諸葛亮は胸を張って言葉を続ける。

「臣下とは主君のため、民のために己の力を振り絞り、最善を尽くします。武人の方々は戦場で勝利を掴むために命すら賭けます。ですが――文官の方々は軽率に意見を投じるのみであり、命を賭ける気配を感じさせません。故に、言葉が軽いのです」

 その言葉に武人たちの中から、そうだ、という賛同の声がこぼれる。見れば、孫権軍の武人の眼差しは文官たちに注がれている。その気迫に文官たちは押し黙る。

 周瑜も感じ入ったように諸葛亮の弁を見守っている。孫権は頷いて言葉を続ける。

「対して諸葛亮殿、其方の言葉は一つ一つが重い。無理もなかろう、こうして処刑される可能性すら負って、我が陣地に弁舌を振るいに来たのだから」

「我が弁に一片の間違いでもあれば、この首を刎ねていただいて構いません」

 諸葛亮ははっきりとした言葉で言い、孫権は思わず表情を緩めて一つ頷いた。

「劉豫州は良き臣下を持たれた」

「ありがたきお言葉」

 諸葛亮が今一度拝礼し、客座に移動して腰を下ろす。入れ替わりに魯粛が立ち上がり、悠然とした口調で告げる。

「殿、ご決断を。劉備軍と盟を結んで事に当たれば、曹操を討つという勅令の元、我らも一丸となって戦うことができます。議論が尽きた今、決を下すべきだと具申いたします」

「うむ、そのようだな。魯粛」

 孫権はその言葉に頷くと、ぐるりと議場を見渡してから腰を上げる。その蒼い瞳はいつの間にか、強く激しい光を宿している。

「諸葛亮殿の策や言葉は、周瑜を始め、様々な武人が唱えていたことでもある。それらに反論していた者たちはもはや語る言葉がないようだ。もし、何か意見があれば、今すぐ申し出るが良い――ただし、そのときは」

 彼は腰に佩いていた剣を引き抜き、鋭く振り下ろした。彼の目の前にある机が斬られ、木片が宙を舞う。白刃の切れ味を見せつけた孫権は低い声で続けた。

「その命を賭けて、献策するがいい」

 その身に宿した気迫は、遠く離れた龐統からも感じられる。

(へぇ――これは……)

 十年前を思い出す。周瑜に仕えたとき、彼に連れられて一度、孫策に挨拶をしたことがあった。その孫策が見せていた気迫、眼差しとそっくりだ。

 さすが、あの小覇王の弟というべきか。

 その気迫に誰もが黙り込む中、孫権は無言で剣を鞘に納め、武官の列を一瞥する。

「周瑜、程普、魯粛」

「はっ」

 勢いよく立ち上がり、孫権の前に歩み出る周瑜、魯粛、程普。その一番先頭に立つ周瑜に歩み寄り、孫権はその剣を差し出した。

「周瑜を大都督、程普を副都督、魯粛を賛軍校尉に任ずる。もし下知に背くものがあれば、この剣で斬り捨てよ――良いな」

「はっ、仰せのままに」

 周瑜は剣を受け取り、掲げて拝礼する。その手はわずかに震え、その頬は紅潮している。決戦の断に心を震わせているのだろう。

 孫権は全員を振り返ると、はっきりとした言葉で告げる。

「行くぞ、皆の衆――曹賊を今こそ、討ち払うのだ!」


 その声に武人たちの雄叫びが議場内に木霊した。


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