長江は広大で穏やかだった。
時折、軍船や漁船が行き交うばかりであり、鳥の声や風の音ばかりで静かである。久々の静けさに身を委ねながら、龐統は水面に釣り糸を垂らしていた。
隣には玲花。彼女も釣り糸を垂らしていた。視線で船を追いかけ、小さく言う。
「船の形がいろいろ違うね」
「家によって形状が違うらしいからな」
「そうなんだ。そういえば周瑜様の舟も揺れが少なかったかも」
「それも造船技術だろうな。船の形状で揺れも軽減される」
「なるほどね。士元はこういうことにも詳しいんだ」
「昔に書物で読んだんだ」
正確には前世ではあるが。大学の卒業論文では造船技術の進歩について書き、いろいろと調べた。確かこの時代では舵というものが存在しなかった気がする。
そんなことを思い出しながら、龐統は再び無言。玲花も黙って釣り糸に視線を注いでいる。かと思えば、ちら、ちら、と龐統に視線を注ぐ。
普段とは違い、龐統を意識している熱っぽさ――その理由は分かっている。
衣服は普段通りだが、髪の毛が丁寧に結われ、髪飾りも添えられているのだ。
気づいたのはつい先ほど。というのも、二人で誘い合って釣りに来たわけではなく、龐統が釣りをしていたところに、後から玲花が来たからだ。
(……それに触れるべきなのかもしれない、のだけど……)
何気ない雑談が続き、タイミングを逸していたのである。
こういう着飾った女を褒める言葉は、前世から毎度苦労している。思わず遠い目をしていると、玲花は視線を伏せさせ、足元の草を弄り始めてしまう。
その表情は少しだけ凹んでいるような気がして――。
さすがにもう、それを見ているわけにはいかなかった。
「――似合っている」
龐統が言葉を押し出すと、ぱっと玲花は顔を上げる。驚いたように目を見開き、やがてその頬が徐々に朱に染まっていき――やがて、微かに声を震わせる。
「……ん、ありがと……」
掠れた声からは喜色が滲み出ていて、それだけで龐統は安堵する。
(――言って良かった)
玲花が喜んでくれるだけで、言葉にした甲斐があった。
ただ、もう少し言葉の使いようがあったような気もするのだが――。
言葉を続けようとしても、さっぱり誉め言葉が出てこない。視線を彷徨わせると、釣り糸が少し乱れる。それを止めながら、小さくため息をついた。
「――悪い、もっと冴えたことが言えればいいのだけど」
「ううん、大丈夫。伝わっているから」
玲花はふんわりと微笑み、そっと龐統の肩に寄りかかってくる。小さくも温かい感触に少しだけ表情を緩め、玲花の釣竿に視線を向ける。
「そんなに寄りかかっていると、釣れる魚も釣れないぞ」
「大丈夫。もう釣りたいものは、釣れた」
そう言って彼女は釣竿を引き上げる。その釣り糸には針がついておらず、小さく苦笑する。
(釣りたかったのは、俺の言葉か、はたまた――)
俺の気持ちなのか。いずれにせよ、上手く釣られてしまった。
軽く肩を竦めると、玲花は甘えるように寄りかかり続けながら小さく訊ねる。
「士元は、何を釣るつもり?」
「そうだな。そろそろだと思うけど」
玲花の言葉に龐統は直截に答えず、曖昧に告げる。
彼女も理解しているのだろう。何気ない口調で言葉を続ける。
「ここ数日、市井でいろいろ話を聞いたね。お城で連日、会議が続いていることも」
それは恐らく、先日聞いた周瑜の愚痴――。
つまりは、平行線を辿っている会議のことだろう。
迫り来る曹操軍に対して、未だ抗戦か降伏か意見は決していない。さすがにそれは市井にも伝わっているのか、不安の要素が高まっているようだ。
市場の物価は売り惜しみで徐々に高まり、街にも緊張感が伝わっているのが分かる。
「結局、孫権軍はどうすると思う? 戦うの? それとも降伏?」
「さてな。分からないが、それぞれの意見を前に、決断する決め手に欠いているんだろうよ。孫権殿は」
「優柔不断だね」
「そう言うな。事実ではあるんだが――この揚州の政体の弱点でもある」
「……政体?」
「そう、この地は合議制だから」
そう言いながら釣り糸が微かに揺れる。龐統は目を細めると、小さく告げる。
「釣れた」
――策を担う、重要人物が。
「ん、あっ……」
不思議そうに瞬きをした玲花だったが、後ろの気配に気づくと、慌てて距離を取る。龐統は悠々と振り返りながら笑いかける。
「やぁ、魯粛殿」
「はは、気づかれていましたか。龐統殿」
朗らかな声を響かせるのは、一人の大柄の男性だった。身体は筋肉質だから、その目には知性の光が宿っている。
男――魯粛は顎鬚を撫でつけながら少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せる。
「失礼、お二人の邪魔をしていましたかな」
「いえ、お気になさらず」
そう言いながら龐統は釣竿を上げる。その釣り糸に針がついていないのに気づくと、魯粛は苦笑をこぼす。
「なるほど、釣られたのは私――来るのを理解していたのですか」
「ええ、もちろん」
「では、ご用件も?」
「大方は理解しているつもりです。ですが詳しく聞かせていただきたいものです」
龐統の言葉に魯粛は深々と頷くと、手で長江に掛かった桟橋を手で示し、にこりと微笑んで見せた。
「では、私の船の上でゆるりと語らせていただきましょう」
魯粛の船は広々としており、揺れが少なかった。
船酔いを恐れていた玲花も船が出てから揺れが少ないことに気づくと、安心したように龐統の傍で出されたお茶を丁寧に飲んでいる。
その様子を見て表情を緩めながら、龐統は正面の魯粛に視線を向ける。
「それにしても――久しぶりですね。魯粛殿。十年ぶり、ですか」
「ええ、周瑜殿と共に屋敷で酒を飲みながら天下を語り合った日々が懐かしいです」
魯粛のしみじみとした言葉を聞き、玲花がちら、と龐統を見て首を傾げる。
「魯粛殿は士元の同僚……ってこと?」
「一緒に働いたわけではないんだが……」
龐統が少し言葉に迷っていると、魯粛が苦笑い交じりに解説を加える。
「私も龐統殿も、周瑜殿を頼った仲です。そうですな、食客仲間というべきでしょうか」
「確かに、その言い方が相応しいかもしれませんね」
龐統は一つ頷きながら思い起こす。
旅をしていた龐統と徐庶が周瑜の屋敷で食客として世話になっていたとき、魯粛と出会ったのだ。魯粛は袁術の配下だったが、見切りをつけて逃げ、周瑜を頼ったのである。
やがて周瑜も袁術に見切りをつけ、揚州に向かった際、魯粛も同行していた。
つまり、龐統、周瑜、魯粛は短い間とはいえ、旅を共にしていた仲なのだ。
(その後、俺は揚州を離れたけど、魯粛は働き続けていたんだな)
最初は孫策に仕え、その後は後を継いだ孫権に仕えている。また周瑜とも仲が良く盟友であるのは、周瑜自身の口から聞いていた。
となれば、今日の用件は察しがつく。
「今日のご用件は、周瑜殿に関すること――恐らく、周瑜殿に御味方して欲しい、というご相談ではないでしょうか」
龐統が静かに切り出すと、茶を口に運んでいた魯粛は目を丸くした。
「さすがは龐統殿、ご明察です。しかし、どうして」
「先日、周瑜殿から会議についての愚痴は聞かされていましたから」
あの日から、どこかで声が掛かるだろうとは思っていた。だからこそ、龐統と玲花は日々ふらふらと散歩や釣りばかりしていたのである。
こうして魯粛が来たのも、計算通りだ。
「俺から協力を申し出ることを期待していたようですが、残念ながら俺はそうしなかったものですので、今度は直接誰かがお願いに来るだろうとは思っていました。それも恐らく周瑜殿の他に、俺と面識がある人物――つまり、魯粛殿が」
龐統はそう言いながらにやりと笑うと、魯粛は肩を竦めて降参するように両手を上げる。
「そこまで見通されてしまっては、周瑜殿も私も立つ瀬がありませんな」
「そのような駆け引きをせずに、申し出てくれれば良いのですがね」
「では、頼んだら龐統殿は引き受けてくださると」
魯粛の期待を込めた眼差しを見つめ返し、龐統は即答する。
「無論、お断り申す」
「……っ」
肩透かしを食らったように表情を引きつらせる魯粛に、龐統は半眼を向けながら淡々とした口調で訊ねる。
「どうせ、弁舌を振るって文官集団を説得して欲しい――と頼むのでしょう?」
「お見通しでしたか。ははは」
魯粛は愛想笑いを浮かべるが、龐統としては仏頂面を続けるしかない。
(手伝うにしても、そんな面倒事、するはずがないだろうに)
お偉方相手に舌戦を挑むなど、不可能とは言わないが困難だ。龐統が深くため息をこぼしていると、玲花が再び首を傾げながら軽く袖を引く。
「ね、士元――別に文官たちを説得しなくても、孫権殿を説得すればいいんじゃない? 孫権殿が決定すれば、文官たちも従うわけだし」
龐統と魯粛は視線を交わし合い、思わず笑ってしまう。それからきょとんとしている玲花に解説する。
「ああ、帝政とか軍政なら、それで話を済むのだけど」
「残念ながら、我らは合議制であるのです」
孫権は揚州の州牧というわけではなく、官位も討虜将軍、会稽太守――つまり郡レベルの長でしかない。彼はあくまでこの地方の豪族たちの代表という位置づけなのだ。
孫権軍の大半の兵力はその豪族たちの私軍であり、彼らの反感を買ってしまえば、兵力を出し渋られる可能性がある。だからこそ、強気の判断が難しいのだ。
その合議制について二人で滔々と解説すると、玲花は小さくため息をつく。
「面倒な話だね、本当に」
「ああ、だから周瑜殿や魯粛殿は意見を一致させるために根回ししたりなど、いろいろと苦労されているのだろう」
龐統はそう言いながら、ふと思う。
(――史実の周瑜は、どういう風に一致させ、抗戦までこぎつけたのかな)
後世において、三国志の大戦と言えば名前が挙がる赤壁の戦い。
だが、その戦いについて詳しく記された一次史料はほとんどないに等しい。この時代の有力な史料は魏の歴史書だが、負け戦であるためにあまり多くを語らなかったのだ。
つまり、呉書と一部の史料を集めた断片的な情報しかない。
後世の映画などで華々しく語られる赤壁の戦いは、歴史の断片を繋ぎ合わせ、美味しいところだけを切り取ったフィクションに過ぎない。
諸葛亮が呉の家臣団を論破したという話も。
同じく諸葛亮が曹操軍の船団から矢を拝借した逸話も。
龐統が曹操軍に乗り込み、曹操をそそのかして船同士を繋げた計略も。
全てフィクションであると考えた方がいい。
だとすれば、どのように周瑜は孫権を説得し、曹操を打倒する方針に決定させたのか、少し気になるところではある。
(まぁ、この歴史がその通りに進むとは限らないけど)
龐統は意識を戻し、魯粛の方を見やる。彼は丁寧な手つきでお茶のおかわりを入れ、玲花に振舞っていた。続いて龐統にも茶が差し出される。
龐統はそれを受け取り、香りを楽しみながら一口飲み、視線を魯粛に向ける。彼はは無念そうに首を振って告げる。
「周瑜殿の弁舌は多くの文官の心を動かしています。ですが、あと一押しが足りないのです。周瑜殿もそれを自覚し、いろいろと決め手を探しているのでしょう。最近、顔色もよろしくなく、あまり無理はさせたくないのですが」
「孫権殿の配下の文官たちは優秀なんですな」
「ですが頭が固いのですよ。困ったものです」
苦々しさを滲ませる魯粛を見やり、龐統は腕を組みながら目を細めた。
(それなら、いよいよ俺の策の出番か。ここでテコ入れして、何としてでも曹操軍との決戦を決心してもらわないと)
そもそも、諸葛亮、周瑜に恩を着せるのであれば、孫権軍が曹操と戦ってくれないと困るのである。そうでなければ、劉備軍と孫権軍の同盟が成立させられなくなるのだ。
だからこそ、魯粛を待っていた。周瑜ではなく、魯粛を。
(問題は、この男が俺の策を担うに相応しい人物かどうか、だが)
正直、魯粛とはあまり言葉を交わしたことがなく、どういった人間なのか知らないのだ。もしかしたら期待外れである可能性もある。
――少し、試すべきか。
龐統は一つ頷くと、魯粛を真っ直ぐに見つめて声を掛ける。
「魯粛殿。力添えは難しいですが――少し手伝いはできます」
「……ほう、それは?」
魯粛が興味深そうに身を乗り出す。龐統は勿体ぶるようにゆっくりと茶を口に運んで、一服してから訊ねる。
「頭の固い文官たちを動かすことくらいは、できましょう。まぁ、魯粛殿がどうしてもと頼んでくれるのであれば――」
「お願いします。龐統殿」
即決だった。魯粛はそう告げると共に、何の躊躇いもなく頭を垂れる。その姿に思わず龐統は目を丸くし、感心してしまう。
(……ほう、この男は)
魯粛は短い付き合いであるものの、聡明であることは感じていた。
だが同時に、こうして潔く頭を下げられる男であるとは思っていなかった。
(確か、史実の魯粛は任侠に慕われる好漢だったらしいし)
史書では魯粛が若い頃、天下が乱れつつあることを見て取ると、私兵たちを集って狩猟に精を出し、軍事訓練に精を出したという。推測するに、それは畑を失った民たちが食い扶持を稼ぐための措置だったのだろう。
それ故だろうか、魯粛が袁術に見切りをつけた際も、多数の任侠を連れていたのだ。
仲間想いであり、必要があればこうして迷いなく頭を下げられる。
そういった部分が、この魯粛という男の魅力なのだろう。
劉備、周瑜とは違った魅力のある男だ。
(――嫌いじゃないな、そういう男は)
龐統は表情を緩め、自然と頷いていた。
「魯粛殿に貸し一、ということで、御助力致しましょう」
「ま、誠ですかっ!」
がばりと勢いよく顔を上げる魯粛。玲花は仕方なさそうに小さく笑い、龐統に訊ねる。
「それで士元、今度はどういう策で石頭たちを動かすの?」
「そうだね――魯粛殿、ここにいる兵たちは」
「私の信頼のおける私兵ですとも。ご心配なさらず」
魯粛は龐統の意図を汲み、太鼓判を押してくれる。龐統は一つ頷いてから口を開いた。
「会議で意見を一致させるにはいくつか手段があります。そのうち、最も手っ取り早い手段は、大義を作ることでしょう」
「大義……?」
「ふむ、なるほど……例えば、勅令、でしょうか」
玲花はぴんと来ていなかったようだが、魯粛はすぐに理解を示した。龐統は微笑んで頷き、言葉を続ける。
「それが一番いい例ですね。これがあれば会議は一瞬でまとまるでしょう」
例えば、皇帝の名の下で『曹操を討て』と命じられたという大義があれば、豪族たちは全員が意見を一致させるだろう。現に漢王朝では様々な人物に『曹操を討て』という密勅が発せられている。
もし仮に勅令を断ったのならば、全員が朝敵とみなされ、討伐されることになる。豪族はそれを恐れ、団結して曹操を討伐するようになるだろう。
龐統がそう解説を添えると、玲花はふんふんと熱心に首を振る。だが、魯粛は浮かない顔で腕を組み、首を傾げる。
「ですが、そんなに都合よく勅令がありますか?」
「あったら今頃、周瑜殿は苦労していませんからね」
ただ、密勅が下された人物については、龐統に心当たりがある。そして、その人物を活かして覇業を推し進めようとしている親友の存在も。
それは口に出さず、龐統は言葉を続ける。
「大義以外の手段となれば、反対意見を述べる者を一人一人、説得し、意見を統一させるというやり方があります――これを魯粛殿は俺にやらせたかったのですよね?」
龐統が視線を魯粛に向けると、魯粛は気まずそうに視線を逸らして頷いた。
つまり、それは三国志演義で語られる、諸葛亮が孫権の文官たちを次々と論破した一幕を龐統にやらせようとしたのだ。
無論、やろうとすればできなくはないだろうが――。
「――それ、面倒くさくないかな」
玲花がずばりとそれを指摘し、龐統もしみじみと頷いた。
「ああ、とても面倒くさい。少なくとも俺はやりたくない」
「……助力してくださるのではなかったのですか」
魯粛が不満そうな視線を向けてくるので、龐統は苦笑して肩を竦める。
「そのような手段で助力するわけではありませんよ。むしろ、今言った両方の手段を、一手で解決する策を披露させていただきます」
「両方の手段というと、大義を掲げることと、各個論破すること?」
玲花はきょとんとし、魯粛は少し面食らったように瞬きをする。
「そのような魔法のような策があるのですか?」
「ええ――というか、その魔法を成し遂げられる男を俺は知っています。計略というのは、その男を呼び出し、会議の場にぶつけるだけです」
龐統はそう言いながら思わず苦笑する。
(三国志演義はフィクションだけど、それをまさか参考にする日が来るとはな)
だが、彼ならばきっとどんな会議でも論破し、意見を一致させてくれる。彼の親友である龐統はその確信があった。玲花も思い至ったのか、深々と頷いている。
魯粛は困惑を滲ませていたが、すぐに表情を引き締めると恭しく訊ねる。
「して、その人物の名前とは?」
龐統は目を細めると、親友の名をはっきりと告げた。
「諸葛亮孔明――彼宛てに、使者をすぐに出して下さい」