「龐統先生は、玲花殿に手を出されていないようだな」
夜、周瑜と酒を酌み交わしているとき、不意に放たれた言葉に龐統は思わず噎せそうになった。視線を上げれば、周瑜はおかしそうな眼差しを向けてくる。
「おや、龐統先生は肝が据わっているのに、こういった話には弱いか」
「弱いというか……急だったもので、驚いただけですよ。周瑜殿」
咳払いを一つ。呼吸を整えてから周瑜に視線を戻し、龐統は苦笑した。
「――もしかして、小蘭殿から?」
「ああ、小蘭は玲花殿と仲良くなったようでな。女同士の話に花を咲かせているよ。それでそのような話の流れになったらしい」
(ちゃんと親睦を深めているようだな。玲花は)
一安心しながら酒を一口飲み、龐統は言葉を返す。
「お手間をお掛けします。周瑜殿」
「なんの。逆に玲花殿には感謝している。最近は屋敷を空けがちで、小蘭には寂しい思いをさせているからな。同年代の友人ができることも、良いことだ――もしかしたら、境遇も似ているのかもしれないな」
何かを匂わせる一言。龐統はそれに反応せず、軽く笑って流すことにする。
「こちらも玲花に女友達ができることは良いことだと思っていますよ。どうも、自分では女の機微を分かってやることが難しくて」
「だから、手を出さない、と?」
「はは、そんなところですよ――自分は臆病でして、いろいろ考えてしまうのです」
龐統の言葉に、周瑜は酒を口に運びながら少し目を細めた。
「――龐統先生は女性も大事にされるのだな」
「というよりも、玲花だから、ですが」
龐統もまた酒を口に運ぶ。口当たりの軽い酒で、すいすい飲めてしまう。その酔いもあり、少しだけ口が軽くなる。
「玲花が幼い頃から面倒を見てきました。俺の手から離れても生きられるように様々な学問を教えています。極端な話ですが、宮廷で働ける自信もあります」
「なるほど、だが、玲花殿は龐統殿にずっと付き従っているようだが」
「少し甘やかして育て過ぎましたかね」
冗談めかして言うと、周瑜はおかしそうに笑い声をこぼす。いつもの丁寧な笑みではなく、少年のような無邪気な笑いだった。
「はは、龐統先生ともあろう方がそのような下手な冗談を仰るとは」
「誰にも得手不得手はありますよ」
「では先生はこういった話が苦手だと?」
「苦手というか……少し戸惑っています。どのように接したものか、と。正直に言えば、玲花のことは妹や娘のように思っていましたから」
襄陽の頃は穏やかな生活ばかりであり、日常の延長だった。だから好意を感じても、家族という印象があった。だから、ゆるゆるとごまかしてきたのだが。
先日の市場の散歩を経て、今一度、玲花の好意を意識するようになっていた。
「どうしようかと、年甲斐もなく苦悩する日々ですよ。周瑜殿」
「年甲斐もなく、とはな。先生はまだ三十路手前でしょうに」
「それでも、ですよ」
転生前の歳と累計すれば、もう六十になるだろう――それだけにこの気持ちはなかなか持て余しがちだ。苦笑を一つこぼし、龐統は首を振る。
周瑜は少しおかしそうに笑っていたが、ふと目を細めて柔らかく言う。
「まぁ、それでも結局のところ、先生は玲花殿に向き合うのだろう?」
「――それは、そうなのですが」
「ならば、そうすれば良いのでは? 相手がどんな一面を見せてきたとしても、貴方らしく向き合えばいい。それが何よりの答えだと思うのだが」
周瑜の言葉に少しだけ龐統は目を見開く。
(――この人も、そういうことを言うのか)
なんというか、少し意外だった。周瑜とはこういった色恋の話をしたことがなく、どこか生真面目な雰囲気がしていたから。
周瑜は苦笑すると、龐統の盃に酒を注ぎながら告げる。
「柄でもないことを申し上げた。今度はもう少し真面目に考えておこう。先生に有意義な助言ができるように」
「いや、良いお言葉でした。胸に刻んでおきます。周瑜殿」
「それなら良かった。まぁ、その一方で私も悩みは尽きないわけだが」
周瑜はそう言いながら視線を逸らし、酒をまた口に運ぶ。
笑い話の延長――と、捉えることもできる。
だが、その瞳の光がわずかに変化したのを龐統は見逃さなかった。だから、それを詳しく聞かずに軽く笑いながら言葉を返す。
「周瑜殿ほどの人ならば、たちまち解決できると思いますよ」
「いやはや、知恵が足りずに困っていることばかり。私も先生ほどの知恵があれば、と悔やむばかり。これも得手不得手、かな」
さり気ない言葉――だが、その裏側に隠された意図は見える。『もし俺でよろしければ、お手伝いしますよ』――その言葉を恐らく引き出したいのだろう。
そうやって恐らく、孫権軍の内情に龐統を巻き込むつもりなのだ。
だからこそ、龐統は冗談めかした口調で言葉を返す。
「かもしれませんな。俺は玲花と向き合うことで精一杯であり、お力になれず申し訳ない」
やんわりとしたお断り。それには気づいているだろうが、周瑜はあくまで愉快そうに笑いをこぼしながら、おどけた口調で言う。
「とはいえ、まぁ、愚痴だけでも聞いていただければ。龐統先生」
(随分、食い下がるな……)
察するに、それだけ窮しているのだろう。今すぐ龐統の助力を欲するほどに。
少し迷ったが、小さく吐息をつきながら龐統は目尻を下げる。
「……聞くぐらいでしたら、喜んで」
文字通り、聞くだけ、だと示す。ここが妥協点だろう。
周瑜もそれを察してくれたのか、ほっとわずかに瞳が安堵で綻んだ。だが、それも一瞬、すぐに彼は少し酔ったような口調で愚痴をこぼし始める。
「実は曹操軍を討ち払う軍を出すにも一筋縄ではいかず、まだ殿が決意されないのです。軍内も割れていて、抗戦派と降伏派に――」
つらつらと語る言葉は少し軍事機密に触れそうな内容だ。迂闊に突っ込んで聞くことはできそうにない。龐統は内心で冷汗をかきながらも、ふと思う。
(しかし、まだ会議が割れているのか――)
孫権軍と劉備軍の同盟の仲立ちをする以前に、戦うか降伏するかで揉めているようだ。周瑜だけでは意見を一致させることは難しかったようだ。
正直、少し計算が外れたことにはなるが――。
(まぁ、それならそれでやりようはある、か)
むしろ諸葛亮、さらに周瑜に恩を着せることができる機会になるかもしれない。それを思い描きながら、龐統は少し目を細めた。
情報は今ので充分。あと一つ必要なのは、あと一人だ。
(その人が釣れるまで、待つしかないな)
思考を巡らせていると、周瑜は疲れたように吐息をこぼし、苦笑をこぼす。
「――すまない。先生。とりとめのない愚痴を」
「お気になさらず。それよりも大丈夫ですか。数日前に比べると、大分顔色が――」
「いやなに。会議が済めば少しは楽になるとも――ごほっ」
軽く咳き込む周瑜。ややその咳が重いのが気になる。
一瞬、脳裏に過ぎるのは周瑜の死因だ。史実では彼は病死している。
だが、それは赤壁の戦い――荊州争奪戦の後だ。まだ早い。
(まさか、な)
わずかに過ぎる嫌な予感を、頭を振って退ける。それから龐統は笑いかけた。
「――今日のところは酒を楽しみましょう。周瑜殿」
龐統は手を伸ばして酒を注ぎ、周瑜は盃を掲げて笑い返した。
「それもそうだな。龐統先生。先生もどうぞ」
盃を掲げ合って酒を口にする。それから話すのは他愛もない男同士の会話だ。
それを口にしている周瑜は心の底から楽しそうで、無邪気だった。