「龐統様と玲花様は、その、ただの主従なのでしょうか」
そう小蘭に訊ねられたのは、昼下がりのこと。
彼女は様々な着物を玲花に見せながら、さりげない口調で訊ねてきたのだ。
この場に龐統はなく、奥で周瑜と話し込んでいる。つまり、玲花と小蘭が二人っきりのことだった。玲花が思わず目をぱちくりさせると、小蘭は申し訳なさそうにはにかんだ。
「すみません、好奇心が。無粋な詮索なら申し訳ございません」
「――ううん、気にしないでください。小蘭さん」
玲花は苦笑しながら首を振り、ふと思う。
(小蘭さんとこういう話になったの、初めてかも)
宴席の場ではどうしても当たり障りのない話になり、どこか遠慮があった。小蘭もそれを感じ取っていたのか、遠慮がちな雰囲気が続いていたのである。
小蘭もきっと悪い人ではないのだろう。
綺麗な人であり、龐統、玲花に対しても分け隔てなく接してくれる。特に玲花に対しては何くれと面倒を見てくれていたのだ。
正直、静けさを好む玲花としては放っておいて欲しいと思っていたのだが。
(――士元と一緒に、のんびりできないわけだし)
内心で嘆息を一つ。とはいえ、昨日の外出で士元から小蘭と仲良くなるように頼まれている。その頼みもあり、今日はさり気なく着物が欲しいことを匂わせ、小蘭と二人きりになる機会を設けたのだ。
玲花は着ている服を脱ぎながら、一つ考えて内心で頷く。
(少しくらい、身の上話をしておいてもいいかも)
玲花の出自に触れることは、龐統も玲花も極力避けている。
だが、それ以外を話すことは特に何も思っていないし、龐統自身も止める気はないようだ。小蘭と親しくなるためにも、少しくらい話してもいいかもしれない。
彼女は服を畳みながら、軽い口調で口を開いていた。
「士元とは河北で出会ってからずっとに一緒にいるから、そう感じるのかもしれません。もう八、九年といったところですかね」
「じゃあ、出会った頃はまだ――」
「若かった、というか幼かったですよ。私も」
そう言いながら玲花は彼との出会いを少しだけ振り返る。
まだ幼い玲花を匿っていた豪族の屋敷に食客として訪ねてきた龐統と徐庶。その姿はどちらも薄汚れていたが、真っ直ぐな瞳が印象的だった。
それに龐統は幼い玲花だからといって態度を変えず、柔らかく接してきた。
やがて、豪族の頼みを聞き入れ、止める徐庶を制してまで、玲花を旅の供に加えてくれて。一緒に旅をするうちに、彼が語る言葉に聞き惚れていったのだ。
だからこそ、徐庶の家ではなく、龐統の家で共に暮らしてきたのだから。
「いろいろ、士元から教わってきたんです。大切なことも――この、気持ちも」
「……素敵ですね、そういうのは」
くすりと笑う小蘭は着物を着るのを手伝ってくれる。甲斐甲斐しい手つきを感じながら、玲花は話題を変えるように訊ねる。
「そういう小蘭さんは、周瑜様とはその……仲良し?」
適切な言葉が見当たらずに訊ねると、小蘭は困ったように首を傾げながらも頷いた。
「まぁ、最初の出会いは怖くて、不安でしたけど」
「そう、なのですか?」
「ええ、私と姉のいた場所に孫策軍が攻めて来て、私たちは捕虜になったんです。それから周瑜様に見初められて、こちらに送られて」
「あ……」
つまりは選択の自由もなく、強引に攫われるようにして妻妾にさせられた、ということだ。思わず玲花は言葉を噤むと、小蘭は明るい声で暗さを払拭するように続ける。
「でも、周瑜様は私のことを大事に扱ってくださいました。丁寧に贈り物を下さり、言葉を尽くして話し、音曲を教えていただきました。財も与えて下さり、こうして衣服を潤沢に用意していただいています」
「そう、だったんですね……」
「はい、今、私は幸せです――でも」
一息。少し絞ったような声で、小蘭は囁いた。
「なんだか、玲花様が羨ましい、です……」
「小蘭さん……」
わずかな震えを帯びた声からは、どこか羨望を感じさせて。
小蘭の微かな本音を聞き取れた気がした。
玲花は少しだけ口を噤んでいたが、軽く首を振り、唇を尖らせながら言う。
「でも――士元の接し方も考え物ですよ。優しいですけど」
「そう、なのですか?」
「はい、こんなに気持ちを出しているのに、何も手を出されません」
「――え、もしかして一切?」
「一切合切、です」
玲花は小さく嘆息し、布で覆われた自分の胸に触れる。そこはもう充分大きくなり、女らしさを感じさせる。だけど、龐統は相変わらずであって。
「……こんなに真剣なのに、ね……」
胸に秘めた気持ちがほんの少しだけ、愚痴のようにこぼれだす。
小蘭は前に回り込み、玲花の着物を整え続けながらふんわりと微笑んだ。
「本当に龐統様を好いていらっしゃるのですね」
「……そうです、けど」
正面から言われると気恥ずかしい。思わず視線を逸らすと、小蘭は視線を降ろして手を動かしながら小さな声で続ける。
「昔、周瑜様から酒の場での愚痴を聞いたことがあります」
「……愚痴、ですか」
「ええ、惜しい人材を野に放ってしまった、と」
直感する。それはきっと、龐統のことだろう。耳を傾けると、彼女は言葉を続ける。
「いろいろ聞きました。軍略についての意見や、部隊の編成についての意見、儒学の解釈について――舌戦では勝てたことがないとかも。だけど、周瑜様が何より重要だったのは、様々な知識を有しながら、他の人から違った視点で意見すること、だったようです」
「違った視点……」
「ええ、龐統様は士大夫らしくない、と」
士大夫とは儒学を修めた上で、人々に仰がれるに足る徳業を備えている人物のことだ。この人の多くが推挙され、後漢の官僚を担ったとされる。
とはいえ、末期は宦官や外戚の専横でそうも言っていられなくなったようだが。
(けど、士元は儒学にとても詳しいけど)
何せ、水鏡先生を師事し、様々な学問を学んでいた人だ。その龐統から玲花もまた儒学を学び、徹底的に叩き込まれている。
内心で首を傾げていると、小蘭はふっと表情を緩めて言葉を続ける。
「士大夫よりも幅広い視野や教養で物事を見ており、それ故に人には計り知れない何かを見つめているような気がする――そう周瑜様が仰っていたのが印象的でした」
「へぇ……」
それは龐統のことを買っていた諸葛亮や徐庶からも聞いたことがない言葉だった。
思えば、彼らは龐統の若かりし頃の親友。少なからず影響を与え合っており、龐統のその視野に慣れ過ぎていたのかもしれない。
だから、その言葉は新鮮味があり、だけどどこか納得できる言葉だった。
(そういう視点から見ているから、士元は勝ち馬を見切れるのかも)
ふとしみじみ思っていると、小蘭の瞳が悪戯っぽく輝いていることに気づく。
「もしかしたら、龐統様は玲花様を計り知れない何かを通して見て、愛おしんでいるのかもしれませんよ」
「そう、なのでしょうか……?」
「少なくとも、龐統様は私や使用人に接するときよりも、玲花様には心を許しているように見えます。礼儀正しさよりも、親密さを見せているような」
小蘭の言葉に玲花は思わず振り返る。
(そう……かも……)
龐統はどんな相手にも礼儀正しい。丁寧な所作で、時々、堂々としていて。
砕けた態度を見せるのは徐庶や諸葛亮――そして、玲花だけなのだ。
つまり、玲花だけは特別な女性、ということで少しは嬉しい。
嬉しい、のだけど――。
「……でもそれなら、もっと特別扱いしても……」
思わず玲花が唇を尖らせると、くすりと小蘭はおかしそうに笑った。
「そればかりは龐統様に聞かないといけませんよ。何はともあれ、言葉で聞くのが一番ですから。お手伝いが必要なら、させていただきますよ。玲花様」
「……小蘭さん、すみません」
「いえ、お気になさらず。そのためにもいろんな服を試してみましょう。玲花様」
そう告げた彼女は服を整え終えると、部屋の隅から鏡を持ってくる。くすんだ表面の鏡には着飾った自分の姿が映っていて――。
思わず、少しだけ目を奪われてしまう。
「――服が代わるだけで、こんなに……」
「印象が変わりますよ。もちろん、男の人からの視線も」
小蘭は微笑み、もう一度玲花の傍に戻ってきて肩に手を掛ける。
「おめかしして、龐統様の本音、引き出してみませんか?」
その言葉は甘い誘惑で――思わず、玲花はこくんと頷いてしまっていた。