柴桑は揚州の辺境であり、何なら荊州に一歩足を踏み入れている場所である。
長江の傍に城が設けられ、拠点と化しており、孫権軍の精鋭たちが日々そこで調練している場でもある。その近くには街もあり、充分に栄えた立地なのが魅力だ。
その街並みに惹かれ、その日、龐統はふらりと街に足を運んでいた。
「随分栄えているね、士元」
「ああ、本当に」
お供はいつものように玲花だ。質素ながらに可憐な服に身を包み、一本に結った髪を揺らしながら機嫌良さげに傍を歩き、市を見渡している。
この地は直接の戦火から離れていたこともあり、充分栄えている。目抜き通りの両脇には屋台を彷彿させる商店が立ち並んでおり、様々な商品を商人たちが売っているようだ。玲花は楽しそうに眺めながら歩き、表情を緩ませている。
その様子に龐統はひっそりと吐息をこぼした。
(――最近、玲花が不機嫌そうだったからな)
原因は分かり切っている。毎日のように小蘭が気を利かせ、玲花に構い倒しているからだ。さらに夜には豪華な食事に、音曲や舞踊で持て成してくれる。
だが、龐統も玲花も長らく田舎暮らしが性に合っていた人である。最初こそ楽しんでいたものの、もはや喧騒に飽いていた。さりとて無下にできないのが辛いところ。
昨日の夜なんかは、玲花の作り笑いが微かに引きつり始めていた。
そこで限界を察した龐統は街へ連れ出したのである。同じ喧騒とはいえ、外の方がまだ気を使わずに済むだろう、と配慮して。
(とはいえ、人はついているみたいだが)
監視か、あるいは護衛のつもりか。背後の気配を感じつつ、視線を玲花に向けて訊ねる。
「玲花、街はどうだ?」
振り返った彼女は無表情。だが、目は楽しそうに笑っている。
「賑やか。だけど、悪くないね」
「そうか、それなら良かった」
「ん、こうして士元とゆっくり回れるし」
そう言いながら玲花は少し寄り添うようにして、上目遣いで微笑む。珍しく率直な甘え方に一つ苦笑し、龐統は肩に手を回した。
「あ……」
「もう少しこっちでもいい――たまには、だけどな」
「……ん、いつもこれくらいがいいのに」
「たまにしないと、際限なく甘えてくるだろうが」
特に襄陽郊外で二人、田舎暮らしをしていたときは、それなりに気を使っていた。距離感を誤らないように、それなりに慎重だったのだ。
しかも玲花は最近、好意を隠さなくなってきた。一線を踏み越えたとしても、彼女は拒まないだろう。だからこそ、慎重なのだ――あるいは、臆病なのかもしれない。
だけど、今は少しだけ歩み寄る。
「今日は特別だ――玲花には世話をかけているし」
「ううん、なんてことはないよ、士元。貴方と一緒にいるためだもの」
そう告げる玲花の表情はほんのりと色づいていて。
その揺れる瞳に思わず吸い込まれそうになり――思わず視線を逸らす。むぅ、と彼女は不満そうな声をこぼしていたが、それを流しつつ龐統は声を掛ける。
「じゃあ、服でも買うか? この前、ご褒美の約束、したよな」
「ご褒美なら、もう少し防御を緩めてもいいのに」
「残念だが、こういう駆け引きは苦手でね。慎重になりたいんだ」
苦笑しながら肩を竦めると、玲花は仕方なさそうに吐息を一つ。それから軽く腕を引きながら、軽い口調で言う。
「着物は小蘭さんがくれるそうだから、いいよ。その代わり、一緒に歩きたい」
「そんなんでいいのか?」
「そういう、他愛もない時間が欲しい。最近は宴会で忙しい上に、士元は何か企んでいるみたいだし」
「分かるか?」
「分かる。もう何年の付き合いだと思っているの」
そう言いながら身体を軽くぶつけ合わせてくる玲花。それから、ちら、と遠慮がちに玲花は龐統を見上げて訊ねる。
「……企み事について、聞いていい?」
屋敷の中で聞かないあたり、玲花は弁えている。だが、監視の気配は気になる。
(あまり聞かれたくないな……)
龐統の微かな視線の動きを見て取ったのか、ふむ、と玲花は頷いて手を引く。
「士元、少しお買い物」
「ん、なんだ?」
「ん、っと……これ、一緒に食べよ?」
指を差したのは一軒の果物を売る店。龐統は頷きながら歩み寄り、懐から巾着を取り出す。店主に声をかけ、果実を二つ買って片方を玲花に渡す。
受け取った玲花は頷くと手を引き、市から脇道に逸れる。それから少し拓けた空地へ。そこはおあつらえ向けに大きな切り株がある。
「あそこで食べよう。それで、お話」
「ん、そうだな」
確かにそこで小声で話せば問題ないだろう。龐統は頷くと、玲花と共にその切り株に歩み寄り、並んで腰を下ろす。龐統は軽く果実を齧ると、甘い果汁が口に広がる。
玲花は両手で果実を持ち、小さく齧り始める。目だけはこちらに向いているのを確かめ、龐統は何気ない口調で切り出す。
「周瑜殿は、俺を仕官させたがっているようだ」
「だろうね。直接言っていたし、歓迎ぶりを見ると」
「とはいえ、俺もそれに易々とその言葉に乗るつもりはない」
「そうなんだ。悪くない選択肢だとは思うけどね。大分、厚遇してもらえそうだし」
玲花はそう言うつつも、どこか納得したような素振り。ちら、と彼女は龐統を見やって小さく唇を動かした。
「周瑜様はもしかして、勝ち馬ではないと考えているの? 勝ち馬選びの鳳雛先生」
「はは……まぁ、それも理由の一つだな」
史実では周瑜は若くして病死する運命にある。間違いなく勝ち馬ではないだろう。
だけど、それ以上に大きな理由が龐統にはある。
それは――。
「志を、感じないんだ」
「……志?」
「ああ。劉備殿なら漢王朝復興。孔明なら劉備殿を覇者へ押し上げる、とか。そういった目標、立派な志がある。だけど、周瑜殿にはそれが感じない。似た何かは感じるが……」
龐統は言葉を濁しながら説明する。分かりにくい説明だったかもしれないが、玲花は果たして何かに思い至ったのか、果実に視線を落として言う。
「……確かに時々、周瑜殿って時々、ぞっとするほど怖い目をするよね」
「怖い目?」
「ん……私のお父さんが野望を語るとき、同じような目をしていたかも」
(……玲花の父、か……)
その人物を久々に思い出し、小さく吐息をこぼす。
どこか腑に落ちる気がする。彼女の父も、周瑜も大切な物を奪われたのだから。
しばらくの沈黙。龐統と玲花は無言で果実を齧る。
果実を半分ほど食べてから、玲花は小さな声で訊ねる。
「周瑜殿を頼らないなら、どうするの? いずれ、孔明殿のところに戻る?」
「そうなるだろうな。だからこそ、彼に恩を売ることを考えている――すなわち」
一呼吸置き、龐統はできるだけ押し殺した声で告げる。
「劉備軍と孫権軍の同盟の、仲立ちだ」
元々、諸葛亮が龐統を揚州に差し向けたのは、その思惑があったからだ。元々、曹操に降ることを良しとしなかった周瑜の元に龐統が行けば、曹操に勝つための知恵を求める。
果たして、周瑜はその通り龐統に知恵を求め、龐統も勝算を語った。
今のところは諸葛亮の思惑通り、事は運んでいる。
近いうちに孫権軍の議論も決するだろう。抗戦か降伏、どちらになるかはともかくとして。
だがその中には今のところ、劉備軍が介在する余地はない。
(周瑜も当然、孫権軍だけで曹操軍を撃退することを考えているだろうし)
仮にもし、孫権軍だけで曹操軍を撃退した場合、荊州制圧の主導権は周瑜に渡ることになる。そうなれば劉備軍は荊州を制圧できず、拠点を確保できない。
すなわち、それは諸葛亮が唱える天下三分の計――荊州と益州を制し、天下の第三勢力となる計画は潰えることになってしまうのだ。
劉備軍としてはなんとしてでも同盟を結び、合同で曹操軍を撃退せねばならない。
荊州を制圧する、口実を作るためにも。
「んん……でも……」
そこは理解しているのだろう。玲花は一つ頷きながらも難しそうな顔だ。
彼女は迷うように視線を彷徨わせながら、果実を一齧り。
そして、遠慮がちに訊ねる。
「それ、無理じゃない? 士元。だって劉備軍は敗残の軍なんだよ?」
「そう、そこが難しい点だ。兵力も孫権軍に劣る」
劉備軍の兵力は良く見積もって一万。龐統は実情を知っているので、それ以下だと分かっている。辛うじて彼に味方する劉琦が二万の兵力を持っているのが救いか。
何なら義勇軍レベル。同盟は愚か、孫権軍の端に加わることすら難しいのだ。
「劉備軍から言い出しても絶対に一蹴されて、交渉にもならないな」
「じゃあ、どうするつもり? 士元」
ぱくぱくと果実を食べながら玲花は首を傾げる。龐統は小さく笑って言う。
「劉備軍から提案せず、孫権軍から同盟を提案させればいい」
そうすれば、どこからどう見ても対等な同盟だ。ああ、なるほど、と玲花は一つ頷いたものの、次の瞬間は首を大きく傾げた。龐統の肩に彼女の頭がぶつかる。
「でも、それはどうやって――?」
「ま、それは腕の見せどころだな。とはいえ、好機は直に来るはずだ」
龐統は果実の残りを口に放り込みながら、小さく笑ってみせる。
「何せ、周瑜殿の熱心な働きかけがあるからな。それを躱しながらのらりくらりだ」
「んぐ……その出方次第、ということだね」
玲花も最後の果実を食べきり、こくこくと頷いてから訊ねる。
「ちなみに私にできることは?」
「そうだな、今回は小蘭殿に目一杯甘えるようにしてくれれば」
「……それでいいの?」
「ああ。ある程度、恩を着せたという自覚があれば、周瑜殿も言い出しやすいだろうし」
小蘭から報告を受ければ、それなりに説得力もあるだろう。
(それにたまには、玲花にお洒落を楽しんでもらうのもいいかもしれないし)
滅多にない機会だ。それを活用するのもいい。龐統はそう思いながら頷いていると、玲花は探るような目つきで見ていたが、やがて一つ頷いた。
「分かった。そうする」
「ん、頼んだ。玲花」
そう言って軽く彼女の頭を撫でてから龐統は立ち上がる。玲花も立ち上がると、彼の隣に並びながら小さく囁いた。
「それはともかく、今日は目一杯、羽を伸ばそうね。士元」
「ん、それもそうだな。行こうか。玲花」
そう声を掛けると、玲花は何気ない仕草で龐統の手を握ってくる。小さな掌がすっぽりと収まり、彼女は少しだけ気恥ずかしそうに微笑む。
龐統は驚きつつも、小さく吐息をこぼすとその掌を握り返す。
「仕方ないな、全く」
「そう言いながら付き合ってくれるよね。士元は」
「まぁ、悪くはないからな」
「素直じゃない人」
くすりと笑う玲花に目を細め、龐統は内心で仕方ないだろうとぼやく。
(ここまで近しくなると、失うのが怖くなるんだから)
つくづく、臆病だ。そう自嘲しながら玲花の手を握り返す。
その手は小さくも確かに温かかった。