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第4話

 柴桑は揚州の辺境であり、何なら荊州に一歩足を踏み入れている場所である。

 長江の傍に城が設けられ、拠点と化しており、孫権軍の精鋭たちが日々そこで調練している場でもある。その近くには街もあり、充分に栄えた立地なのが魅力だ。

 その街並みに惹かれ、その日、龐統はふらりと街に足を運んでいた。

「随分栄えているね、士元」

「ああ、本当に」

 お供はいつものように玲花だ。質素ながらに可憐な服に身を包み、一本に結った髪を揺らしながら機嫌良さげに傍を歩き、市を見渡している。

 この地は直接の戦火から離れていたこともあり、充分栄えている。目抜き通りの両脇には屋台を彷彿させる商店が立ち並んでおり、様々な商品を商人たちが売っているようだ。玲花は楽しそうに眺めながら歩き、表情を緩ませている。

 その様子に龐統はひっそりと吐息をこぼした。

(――最近、玲花が不機嫌そうだったからな)

 原因は分かり切っている。毎日のように小蘭が気を利かせ、玲花に構い倒しているからだ。さらに夜には豪華な食事に、音曲や舞踊で持て成してくれる。

 だが、龐統も玲花も長らく田舎暮らしが性に合っていた人である。最初こそ楽しんでいたものの、もはや喧騒に飽いていた。さりとて無下にできないのが辛いところ。

 昨日の夜なんかは、玲花の作り笑いが微かに引きつり始めていた。

 そこで限界を察した龐統は街へ連れ出したのである。同じ喧騒とはいえ、外の方がまだ気を使わずに済むだろう、と配慮して。

(とはいえ、人はついているみたいだが)

 監視か、あるいは護衛のつもりか。背後の気配を感じつつ、視線を玲花に向けて訊ねる。

「玲花、街はどうだ?」

 振り返った彼女は無表情。だが、目は楽しそうに笑っている。

「賑やか。だけど、悪くないね」

「そうか、それなら良かった」

「ん、こうして士元とゆっくり回れるし」

 そう言いながら玲花は少し寄り添うようにして、上目遣いで微笑む。珍しく率直な甘え方に一つ苦笑し、龐統は肩に手を回した。

「あ……」

「もう少しこっちでもいい――たまには、だけどな」

「……ん、いつもこれくらいがいいのに」

「たまにしないと、際限なく甘えてくるだろうが」

 特に襄陽郊外で二人、田舎暮らしをしていたときは、それなりに気を使っていた。距離感を誤らないように、それなりに慎重だったのだ。

 しかも玲花は最近、好意を隠さなくなってきた。一線を踏み越えたとしても、彼女は拒まないだろう。だからこそ、慎重なのだ――あるいは、臆病なのかもしれない。

 だけど、今は少しだけ歩み寄る。

「今日は特別だ――玲花には世話をかけているし」

「ううん、なんてことはないよ、士元。貴方と一緒にいるためだもの」

 そう告げる玲花の表情はほんのりと色づいていて。

 その揺れる瞳に思わず吸い込まれそうになり――思わず視線を逸らす。むぅ、と彼女は不満そうな声をこぼしていたが、それを流しつつ龐統は声を掛ける。

「じゃあ、服でも買うか? この前、ご褒美の約束、したよな」

「ご褒美なら、もう少し防御を緩めてもいいのに」

「残念だが、こういう駆け引きは苦手でね。慎重になりたいんだ」

 苦笑しながら肩を竦めると、玲花は仕方なさそうに吐息を一つ。それから軽く腕を引きながら、軽い口調で言う。

「着物は小蘭さんがくれるそうだから、いいよ。その代わり、一緒に歩きたい」

「そんなんでいいのか?」

「そういう、他愛もない時間が欲しい。最近は宴会で忙しい上に、士元は何か企んでいるみたいだし」

「分かるか?」

「分かる。もう何年の付き合いだと思っているの」

 そう言いながら身体を軽くぶつけ合わせてくる玲花。それから、ちら、と遠慮がちに玲花は龐統を見上げて訊ねる。

「……企み事について、聞いていい?」

 屋敷の中で聞かないあたり、玲花は弁えている。だが、監視の気配は気になる。

(あまり聞かれたくないな……)

 龐統の微かな視線の動きを見て取ったのか、ふむ、と玲花は頷いて手を引く。

「士元、少しお買い物」

「ん、なんだ?」

「ん、っと……これ、一緒に食べよ?」

 指を差したのは一軒の果物を売る店。龐統は頷きながら歩み寄り、懐から巾着を取り出す。店主に声をかけ、果実を二つ買って片方を玲花に渡す。

 受け取った玲花は頷くと手を引き、市から脇道に逸れる。それから少し拓けた空地へ。そこはおあつらえ向けに大きな切り株がある。

「あそこで食べよう。それで、お話」

「ん、そうだな」

 確かにそこで小声で話せば問題ないだろう。龐統は頷くと、玲花と共にその切り株に歩み寄り、並んで腰を下ろす。龐統は軽く果実を齧ると、甘い果汁が口に広がる。

 玲花は両手で果実を持ち、小さく齧り始める。目だけはこちらに向いているのを確かめ、龐統は何気ない口調で切り出す。

「周瑜殿は、俺を仕官させたがっているようだ」

「だろうね。直接言っていたし、歓迎ぶりを見ると」

「とはいえ、俺もそれに易々とその言葉に乗るつもりはない」

「そうなんだ。悪くない選択肢だとは思うけどね。大分、厚遇してもらえそうだし」

 玲花はそう言うつつも、どこか納得したような素振り。ちら、と彼女は龐統を見やって小さく唇を動かした。

「周瑜様はもしかして、勝ち馬ではないと考えているの? 勝ち馬選びの鳳雛先生」

「はは……まぁ、それも理由の一つだな」

 史実では周瑜は若くして病死する運命にある。間違いなく勝ち馬ではないだろう。

 だけど、それ以上に大きな理由が龐統にはある。

 それは――。

「志を、感じないんだ」

「……志?」

「ああ。劉備殿なら漢王朝復興。孔明なら劉備殿を覇者へ押し上げる、とか。そういった目標、立派な志がある。だけど、周瑜殿にはそれが感じない。似た何かは感じるが……」

 龐統は言葉を濁しながら説明する。分かりにくい説明だったかもしれないが、玲花は果たして何かに思い至ったのか、果実に視線を落として言う。

「……確かに時々、周瑜殿って時々、ぞっとするほど怖い目をするよね」

「怖い目?」

「ん……私のお父さんが野望を語るとき、同じような目をしていたかも」

(……玲花の父、か……)

 その人物を久々に思い出し、小さく吐息をこぼす。

 どこか腑に落ちる気がする。彼女の父も、周瑜も大切な物を奪われたのだから。

 しばらくの沈黙。龐統と玲花は無言で果実を齧る。

 果実を半分ほど食べてから、玲花は小さな声で訊ねる。

「周瑜殿を頼らないなら、どうするの? いずれ、孔明殿のところに戻る?」

「そうなるだろうな。だからこそ、彼に恩を売ることを考えている――すなわち」

 一呼吸置き、龐統はできるだけ押し殺した声で告げる。


「劉備軍と孫権軍の同盟の、仲立ちだ」


 元々、諸葛亮が龐統を揚州に差し向けたのは、その思惑があったからだ。元々、曹操に降ることを良しとしなかった周瑜の元に龐統が行けば、曹操に勝つための知恵を求める。

 果たして、周瑜はその通り龐統に知恵を求め、龐統も勝算を語った。

 今のところは諸葛亮の思惑通り、事は運んでいる。

 近いうちに孫権軍の議論も決するだろう。抗戦か降伏、どちらになるかはともかくとして。

 だがその中には今のところ、劉備軍が介在する余地はない。

(周瑜も当然、孫権軍だけで曹操軍を撃退することを考えているだろうし)

 仮にもし、孫権軍だけで曹操軍を撃退した場合、荊州制圧の主導権は周瑜に渡ることになる。そうなれば劉備軍は荊州を制圧できず、拠点を確保できない。

 すなわち、それは諸葛亮が唱える天下三分の計――荊州と益州を制し、天下の第三勢力となる計画は潰えることになってしまうのだ。

 劉備軍としてはなんとしてでも同盟を結び、合同で曹操軍を撃退せねばならない。

 荊州を制圧する、口実を作るためにも。

「んん……でも……」

 そこは理解しているのだろう。玲花は一つ頷きながらも難しそうな顔だ。

 彼女は迷うように視線を彷徨わせながら、果実を一齧り。

 そして、遠慮がちに訊ねる。

「それ、無理じゃない? 士元。だって劉備軍は敗残の軍なんだよ?」

「そう、そこが難しい点だ。兵力も孫権軍に劣る」

 劉備軍の兵力は良く見積もって一万。龐統は実情を知っているので、それ以下だと分かっている。辛うじて彼に味方する劉琦が二万の兵力を持っているのが救いか。

 何なら義勇軍レベル。同盟は愚か、孫権軍の端に加わることすら難しいのだ。

「劉備軍から言い出しても絶対に一蹴されて、交渉にもならないな」

「じゃあ、どうするつもり? 士元」

 ぱくぱくと果実を食べながら玲花は首を傾げる。龐統は小さく笑って言う。

「劉備軍から提案せず、孫権軍から同盟を提案させればいい」

 そうすれば、どこからどう見ても対等な同盟だ。ああ、なるほど、と玲花は一つ頷いたものの、次の瞬間は首を大きく傾げた。龐統の肩に彼女の頭がぶつかる。

「でも、それはどうやって――?」

「ま、それは腕の見せどころだな。とはいえ、好機は直に来るはずだ」

 龐統は果実の残りを口に放り込みながら、小さく笑ってみせる。

「何せ、周瑜殿の熱心な働きかけがあるからな。それを躱しながらのらりくらりだ」

「んぐ……その出方次第、ということだね」

 玲花も最後の果実を食べきり、こくこくと頷いてから訊ねる。

「ちなみに私にできることは?」

「そうだな、今回は小蘭殿に目一杯甘えるようにしてくれれば」

「……それでいいの?」

「ああ。ある程度、恩を着せたという自覚があれば、周瑜殿も言い出しやすいだろうし」

 小蘭から報告を受ければ、それなりに説得力もあるだろう。

(それにたまには、玲花にお洒落を楽しんでもらうのもいいかもしれないし)

 滅多にない機会だ。それを活用するのもいい。龐統はそう思いながら頷いていると、玲花は探るような目つきで見ていたが、やがて一つ頷いた。

「分かった。そうする」

「ん、頼んだ。玲花」

 そう言って軽く彼女の頭を撫でてから龐統は立ち上がる。玲花も立ち上がると、彼の隣に並びながら小さく囁いた。

「それはともかく、今日は目一杯、羽を伸ばそうね。士元」

「ん、それもそうだな。行こうか。玲花」

 そう声を掛けると、玲花は何気ない仕草で龐統の手を握ってくる。小さな掌がすっぽりと収まり、彼女は少しだけ気恥ずかしそうに微笑む。

 龐統は驚きつつも、小さく吐息をこぼすとその掌を握り返す。

「仕方ないな、全く」

「そう言いながら付き合ってくれるよね。士元は」

「まぁ、悪くはないからな」

「素直じゃない人」

 くすりと笑う玲花に目を細め、龐統は内心で仕方ないだろうとぼやく。

(ここまで近しくなると、失うのが怖くなるんだから)

 つくづく、臆病だ。そう自嘲しながら玲花の手を握り返す。

 その手は小さくも確かに温かかった。


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