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第3話

「遠いところからようこそお出でくださいました」

 周瑜が駐屯する街、柴桑――。

 そこの一角にある屋敷に辿り着くと、門で一人の女性が待っていた。丁寧に頭を下げてから微笑む小柄な女性を前に、周瑜が進み出ながら告げる。

「私の妻妾の橋小蘭です。小蘭、龐統先生と玲花殿だ」

「お初にお目にかかります。どうぞおあがりください」

 周瑜の妻妾――小蘭は微笑んで告げ、家へと案内してくれる。その後に続きながら、ふむ、と龐統は目を細めながら歴史を思い起こす。

(橋小蘭――つまり、小橋、か)

 三国志の時代は女性の地位が低く、明確に史書へ名が刻まれた女性は圧倒的に少ない。甘夫人、麋夫人など、名字だけで記されることの方が多い。

 橋家の娘である彼女もまた例外でない。彼女たちの名は伝わらず、姉である方が大橋、妹である方が小橋と記されたのだろう。

「そういえば――小蘭殿とは皖城で出会われたとか?」

 龐統は何気なく周瑜に訊ねると、彼は一つ頷いて苦笑をこぼした。

「皖城を落とした際、捕虜の中に彼女がいたのですが――恥ずかしながら、一目見て惚れてしまいまして。口説いて妻妾に迎え入れてみれば、孫策もまた彼女の姉を妻妾にしており、驚いたものです」

「そうだったのですか。なかなか情熱的ですね」

「若さの至りですよ。かくいう龐統先生は――」

 周瑜はそう言いながら玲花を見て言葉に迷う。龐統は軽く肩を竦めて苦笑した。

「玲花とは何もありませんよ。彼女はただの従者です」

「ですです。士元は手を出す根性もないので」

「悪かったな、根性なしで――失礼、躾のなっていない従者で」

 いけしゃあしゃあと抜かす玲花に龐統は軽く言い返してから、周瑜に軽く詫びる。周瑜は軽く笑って首を振り、手を先に示して告げる。

「お二人の関係はゆっくりと食事をしながら聞きましょう。龐統先生にはいろいろとお伺いしたいこともありますので」

「お手柔らかにお願い致します。周瑜殿」

 苦笑しながら部屋に入る。そこにはすでに食事の膳が設けられていた。招かれるままに席につくと、周瑜も席について手を叩いた。

 侍女たちが出てきて盃に酒を注いでくれる。周瑜はその盃を手に取ると、にこやかに告げた。

「まずはゆっくりとお食事を楽しんでいただきましょう。龐統先生」


「ところで先生、曹操軍についてお訊ねしたいのですが」

 その話題に触れたのは食事を終え、茶を一服しているところだった。

 玲花と小蘭は打ち解け、女同士の話に花を咲かせる一方、龐統は周瑜から真剣な顔で質問を受けていた。龐統は茶を口に運び、唇を湿らせてから頷いた。

「何なりとお訊ねください。察するに、南進してくる軍について、でしょうが」

「お察しの通りです。現在、曹操軍は南進しており、孫権軍に対して賢明な判断を求める書状が届いています。軍内は二つに割れています。一つは和議を結んで臣従する道、もう一つは徹底抗戦あるのみ」

「なるほど。周瑜殿はどちらのご意見ですか?」

「悩ましいところです。私としては孫策が拓いた地、基盤をむざむざくれてやるのは業腹だと考えています。ですが、抵抗して民を巻き込むことも抵抗があります。それ故に、龐統先生が評する曹操軍の規模を聞きたいと思っています」

 周瑜は真っ直ぐな言葉で告げ、その瞳には戦意が宿っている。勝算があれば確実に抗戦するであろう眼差しだ。龐統は少し思考を巡らせてから、口を開いた。

「忌憚ない意見を言わせていただいてもよろしいですか」

「無論。お聞かせください」

「曹操軍は水軍、陸軍を合わせておよそ二十万の兵力がいます。将士、参謀も優れた者ばかりです。聞いた話では襄陽、江陵を拠点に地盤を固め、着実に南進の計画を進めている。それを力技で押しとどめるのは至極困難です。仮に揚州まで立ち入られれば、曹操軍自慢の騎馬隊が各地を蹂躙し、多勢に無勢、敗北は必至です。そうなる前に降伏するは手です」

「――なるほど、道理ですね」

 龐統の理路整然とした言葉に、周瑜は真剣な顔で頷いてみせる。

 一聞すれば、それは抗戦を戒める言葉のように聞こえるだろう。だが、周瑜の表情は揺るがない。恐らく、龐統の言葉に含んだ意を汲んでいる。

 果たして彼は静かな口調で訊ねる。

「では、揚州に入られる前に曹操軍を押しとどめることができれば、いかがですか。我らは勝てると考えますか」

(やはり、その戦術の可能性には気づいているのか)

 むしろ、それしか可能性としてはあり得ないだろう。

 もはや歴史を振り返るまでもない。地形と情報を総合すれば、曹操軍の動きが手に取るようにわかる。それを踏まえれば、断言できる。

「勝算はあります。むしろ、決戦に賭けるならば、そこでしか勝算はありません」

「でしょうね。彼らが大軍であるならば」

 龐統と周瑜の視線が交錯する。周瑜の促す視線に頷き、龐統は言葉を続ける。

「曹操が水軍で南進するならば、進路は二つ。襄陽から南下する漢水からの進路、あるいは江陵から東進する江水からの進路です。どちらを選ぶかは自明ですね」

 揚州へと繋がる二つの河川――漢水と江水に進軍ルートは絞られる。さらに言えば、荊州の水軍のほとんどは江陵に集中している。

 つまり、曹操軍が進んでくるのは、江水でほとんど確定だ。

「水軍は防げるとして、問題は陸軍、騎馬隊ですが――」

「騎馬隊は長江に阻まれて荊州内では自在に動きづらいという点があります。それを活かせるようにするには、どこから長江を渡らねばならない」

「となれば、見えましたな。曹操の戦術が」

 周瑜は不敵な笑みを浮かべ、龐統は肯定するように頷いた。

「恐らく曹操軍は江水から水軍を進め、どこかで橋頭堡を確保するでしょう。そこから陸軍を渡し、騎馬隊を揚州に入れるつもりです」

「ならば、我々にも勝算はあります。経路や来る場所が分かっているのならば、寡兵でも戦えます――ですが、念のため、もう一つお伺いしたい。龐統先生」

「何なりと」

「曹操軍は確実に江水から南下すると思いますか」

 その懸念は理解できた。何しろ襄陽から下ってくる戦術も執れるのだ。

 曹操は常に意表を衝く戦いを得意とする。江水を進むと見せかけ、少数を襄陽から南下させ、奇襲を仕掛けてくるということも考えられるだろう。

 だが、龐統は断言できる。はっきりと。

「確実にあり得ません」

「――その理由は?」

「いくつかあります。まずは、時間的な問題です」

 曹操軍は荊州を制圧したばかりであり、地盤に不安がある。時間を掛け過ぎれば、曹操に不満を覚える豪族が反乱を起こす可能性があるのだ。

 加えて河北でも不穏な気配があると聞く。そんな中、漢水を時間をかけて南進するのが愚策だ。

「二つ目に江夏郡は劉備軍が駐屯していること」

 漢水の進軍経路上には、劉備軍がいる。進めば彼らとぶつかることになる。孫権軍とぶつかる前に消耗することは避けたいはずだ。

「最後に――これは威圧のための軍事行動であること」

 曹操軍としては孫権軍を無傷で屈させるのが好都合だ。そのために敢えて大軍を率いて威圧しているのだ。軍を割いてしまえば、威圧効果が半減してしまう。

 龐統は指折り数え上げ、周瑜を見つめてはっきりと告げる。

「以上のことから、曹操軍が漢水を使うことはありません。仮にあったとしても劉備軍が抵抗し、無傷では通さないはずです」

「……なるほど、さすがは龐統先生だ。では、最後に一つ」

 周瑜は一息つくと、真っ直ぐな視線で見つめてくる。

「江水を進んだ曹操軍は、どこに橋頭堡を設けますか」

 それはあまりにも分かり切った質問だった。

 歴史を振り返るまでもない。地形を鑑みれば一目瞭然だ。だからこそ、周瑜も確信を込めた眼差しで見つめているのだ。

(だったら――余興に一つ)

 龐統は不敵に笑いながら、周瑜に訊ねる。

「ここは互いに文字を書き、それで示し合わせませんか」

「それは面白い案ですね。では――」

 周瑜が手を叩き、従者を呼んで筆と木簡を持ってこさせる。龐統と周瑜は素早く木簡に筆を走らせると、頷き合ってくるりと返す。

 果たして、書かれた文字は両者共に同じであった。


『烏林』


 そして、この対岸は後の世で赤壁と呼ばれる場所となる。

 それは史実通りに――つまり、赤壁は地理的状況、軍事的状況から選ばれた必然の決戦の場だったのだ。

「ここしかないでしょうな。大船団を並べて拠点化できる場所は」

「そして陸軍が駐屯できる充分な広さもあります。ご明察です。先生」

 龐統と周瑜は視線を合わせて思わず笑い合った。周瑜はそれから龐統に向き直ると、深々と頭を下げて告げる。

「ありがとうございます。先生。おかげで腹が決まりました」

「曹操軍と戦うように、孫権殿に申し出るのですね」

「ええ。ここまで戦術が読み切れているのであれば、必ず勝って見せます。先生のお言葉で確信致しました。明日、殿に申し上げます」

「ここに逗留する返礼になったのなら、幸いです」

「充分すぎますとも」

 にこりと笑みを見せた周瑜は、少し未練を滲ませながら言葉を続ける。

「その……できれば、先生に引き続きご意見を賜りたいところですが……」

「はは、自分のような非才には荷が重い話です」

 龐統は軽く笑って首を振り、断る。周瑜は残念そうに眉を寄せて頷いた。

「――分かりました。気が代わりましたらいつでもご連絡ください。我が君に仕えていただけるのであれば、厚遇を約束します」

「ありがたいお言葉ですが、自分には勿体ない話です」

 龐統はあくまで固辞する。いくら厚遇されるとはいえど、友人と敵対する可能性がある人物に仕えたいとは思わなかった。

(それに孫権は晩年、耄碌するからな……)

 前世の史実が確かならば、孫権は晩年、皇太子を三男にしたものの、四男を溺愛するなど後継者の選定で多くの過ちを犯した。それを諫言した陸遜の言葉を疎んじるなど、長年の忠臣の言葉も信じられなくなっていた。

 そこまで長生きするかは分からないが、平和に生き続けるのを目標とするならば、孫権を主君にするのは避けるべきだろう。

(この時代で平和に暮らすのは、難しいな……)

 龐統はしみじみと思っていると、周瑜が呼んだ従者が声を掛けてくれる。

 どうやら部屋まで案内してくれるらしい。同じく席を立った玲花と軽く頷き合い、二人で部屋を辞する。その姿を周瑜は穏やかな表情で見送っていた。


   ◇


「小蘭」

 龐統と玲花が去った後、周瑜は妻妾の名を呼ぶ。はい、と彼女は答え、静かに主の元へと歩み寄り、酒を注ごうとする。

 だが、周瑜はそれを手で制すると、真っ直ぐな目で彼女を見た。

「玲花殿とは何を話した?」

「他愛もないことでございます。龐統様と過ごした旅のこと、あとは龐統様の愚痴でしょうか。随分と可愛らしい子でしたわ」

 玲花はおかしそうに口元を押さえてくすくすと笑う。周瑜も釣られて目尻を緩めていたが、軽く顎を撫でながら真剣な表情になる。

「――将を射んとする者はまず馬を射よ、かな」

「それは……つまり?」

 周瑜の言葉の意を察しかね、問い返す小蘭に周瑜は苦笑する。

(龐統先生なら、この一言で全てを察するのだろうが)

 子女である小蘭にそれを求めては酷というものだろう。周瑜は思い直すと、丁寧な口調で説明をする。

「私としては先生を我が幕下に迎えたい。だが、彼が固辞している以上、その周りの者を引き込むことを考えたいのだ。つまり、玲花殿の心をこちらに引きつけたい」

「なるほど、そういうお考えでしたか」

「うむ。見ると玲花殿は普通の侍女にしては礼儀正しく、所作が丁寧だ。恐らくは良家の出身だろうが、訳あって龐統先生の元にいるに違いない」

 周瑜は目を細めて淡々と見解を示すと、小蘭は真剣な顔でこくこくと頷く。

「では、私の役目は――」

「できるだけ、玲花殿の傍にいることだ。できれば友といえるくらいに心を通じ合わせ、ここにいたいと思わせるのだ。そのためならば、財は惜しまない。私財を投じてくれ」

「かしこまりましたわ。周瑜様」

 小蘭はたおやかに一礼するのを見つめ、周瑜は一つ頷いて微笑み――不意に咳をこぼす。湿り気を帯びた咳に小蘭は心配そうにその背に手を添える。

「周瑜様、大丈夫ですか? 最近、咳が――」

「いや……問題ない。最近、働きづめだからな」

「では、今日ばかりは少し休みましょう。周瑜様」

 そう言いながら小蘭は熱を分かち合うように傍に寄り、流し目を向けてくる。妖艶な仕草に惹かれたように、周瑜は手を伸ばして肩を抱き寄せる。

「そう、だな……小蘭の言葉に甘えるとしよう」

「では、部屋に行きましょう。良い茶も入ったのですよ」

 小蘭は微笑みながら、細い指先で周瑜の頬に触れる。その柔らかい仕草に周瑜は束の間、軍事のことを忘れる。曹操のことも。龐統のことも。

 その彼の姿を小蘭はうっとりと見つめ、妖しく微笑み続けていた。


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