「まさか、揚州に入って真っ先に周瑜殿にお会いできるとは思いませんでした」
周瑜が率いる軍船の船室。そこに招かれた龐統は腰を落ち着け、玲花と共に周瑜と向かい合っていた。彼は微笑みを見せると、茶を口に運んでから告げる。
「最近はよく川の巡視に出ているのです――そこでたまたま川賊を見たので、治安維持として出動したまでです。私こそ龐統殿を助けられるとは思っていませんでしたよ」
「何はともあれ、助かりました。周瑜殿」
「いえいえ、何の。孫権様に仕える者として当然のことをしたまでです」
朗らかに笑う周瑜の笑顔は爽やかであり、一つ一つの仕草が様になっている。その姿に引きつけられる者も少なくないだろう。
劉備とは違った魅力を持つ男、それが周瑜だ。
龐統もお茶を口に運ぶと、横に座る玲花が軽く袖を引いてくる。
「――昔に聞いた話だと、士元って確か周瑜様の功曹……?」
「ああ、昔雇っていただいた方だよ。周瑜殿は。今から十年前でしたか」
「ええ、まだ孫策が生きていた頃ですよ。いろいろと龐統殿には世話になりました」
「一年だけも短い間ですがね」
彼と出会ったのは寿春でのこと。当時、周瑜は袁術に召し出されており、龐統は徐庶と共にその食客として館に逗留していた。やがて周瑜は袁術に見切りをつけ、揚州へと向かうことを決める。そこで龐統は徐庶と別れ、周瑜と共に揚州に行くことを選んだのだ。
それから一年の間は、彼の元で功曹として雇われ、様々な手伝いをしていた。
(そういえば、揚州に行くとき、魯粛も一緒だったな)
周瑜と共に後世の史書に名を残す人物のことを思い出し、周瑜に訊ねる。
「そういえば魯粛殿はお元気で?」
「ええ、共に殿と仕える日々ですよ。龐統殿は、揚州を発った後はいずこへ?」
「道中で元直――徐庶と合流して、河北を巡りましたよ。丁度、その頃は曹操軍と袁紹軍が衝突しており、いろいろと見聞きできるかと思いまして」
「ほう、左様でしたか――いかがでしたか? 曹操軍は」
軍人である周瑜としてはやはり、気になるのだろう。微かに身を乗り出す気配に小さく苦笑し、龐統は軽く首を振って見せる。
「世間の評判通りであり、あまり語れることはありません。周瑜殿であれば、大分情報を集められ、分析されているのでは?」
「無論、そうです。とはいえ、龐統殿のご意見もぜひ拝聴したい。是が非でも」
強い熱意を感じさせる周瑜の言葉に、思わず龐統は目を瞬かせる。
(……こんなに熱い人だったか? 周瑜は)
周瑜はどちらかというと冷静な男だった印象だ。情報を集めることに余念はないが、常にそれらを客観的に分析する落ち着きもある。
彼に雇われていた頃も龐統の意見に耳を傾けるものの、必要以上に聞き出そうとはしなかった。職を離れる際もあまり引き留めず、その温度感が心地よかったのだが。
龐統が怪訝に思っていることに気づいたのか、周瑜は口を噤み、視線を伏せさせる。
「失礼――意気込んでしまいました。また龐統殿のご意見を聞けると思うと、少し興奮してしまい」
「……いえ、お気になさらず。私の意見など参考になりますまい」
「まさか。参考になります。いえ、すべきでした。過去の私は」
周瑜はきっぱりとした口調で告げ、真っ直ぐに龐統を見つめる。
「十年前、龐統殿は私の元を去る前に忠告してくれました。孫策の危うさを」
その言葉にふと思い出す――確かに周瑜にはそのような忠告をした。
小覇王、孫策。孫権の前に、揚州一帯を制していた男であり、その性格はまさに果断だった。瞬く間にこの一帯を制した手並みからもそれは明らかだろう。
その一方で人の選り好みは激しく、龐統のことはあまり気に入られていなかった。
龐統はさしてそのことを気にしていなかった。周瑜の元にいるのは一時だけだと割り切っていたし、何より歴史を知る彼は分かっていたのである。
――やがて、孫策が暗殺されることが。
それを阻止しようとは、龐統は考えていなかったが、一方で良くしてくれた周瑜には好感を抱いていただけに、忠告を残しておいたのである。
孫策はもしかしたら、暗殺されるかもしれないと。
「孫策は急激に領地を拡大し、支配下に収めた。それだけに様々な人々から恨みを買っている。やがて彼らに殺される可能性があることを龐統殿は指摘してくれました。私も思い当たる節はありましたが、まさかそうなるまいと思い、気にも留めませんでした。ですが、実際に彼は許貢の食客に殺される運命を辿りました」
周瑜は視線を微かに伏せさせ、表情に憂いを滲ませる。その美しい顔が陰り、わずかに瞳の後悔の色が過ぎる。悔しそうな顔に龐統は内心で嘆息する。
(――その気持ちは察して余りあるな)
何しろ孫策は周瑜を強く厚遇しており、周瑜もまたその恩義に報いるべく、彼の元を一度離れたものの、すぐに復帰してその覇業を補佐していた。
その二人の関係性は深いことは史実でも、実際に話しても伝わってきた。
だからこそ、龐統は周瑜を悲しませまいと忠告を残したのだが、その甲斐はなく、孫策は殺された。周瑜は深く嘆息していたが、やがて顔を上げると真っ直ぐに龐統を見た。
その瞳には激しい炎のような光が宿っており、思わずその気迫に呑まれる。
視線が交錯する中、周瑜ははっきりとした言葉で告げる。
「あの後悔の後、ふと思い返せば龐統殿の言葉は逐一、どれも的を得ていることに気づきました。孫策のことはもちろん、孫権様の資質についても、曹操軍がいずれ南下してくることも――全て的中しています。それ故に決めていました。龐統殿がこの地に再び足を運ぶことがあれば、これまで言葉に耳を傾けなかったことを詫び、今一度その知を貸していただけるように、平身低頭お願い奉ろうと」
そして、周瑜は深々と頭を垂れて龐統に告げる。
「どうかもう一度だけ――私のことを支えてくれませんか。龐統先生」
その態度と言葉に、龐統は思わず言葉を詰まらせる。
胸からじわじわと熱いものが込み上げてくる。
周瑜は様々な人が認める武人だ。尊敬に値する人物なのは、仕えていた龐統が良く知っている。そんな人が頭を下げ、乞うている。
その事実に胸が震えないはずがない。応えたいという想いもある。
十年前の龐統であれば若さに任せて、すぐに頷いていただろう。
だが、今の龐統は違う。様々な人に出会い、学んできた。
大事な友人もいる。それに――。
ちら、と視線を隣に向ける。そこには玲花が穏やかに茶を口に運んでいた。小さな唇から吐息をこぼした彼女は龐統の視線に気づき、眉を寄せる。
(応えたなくていいの? 士元)
そう言いたげな眼差しに龐統は一つ苦笑。視線を周瑜に戻して穏やかに告げる。
「お顔を上げて下さい。周瑜殿」
その言葉に周瑜はゆっくりと顔を上げる。真意を探るような眼差しに、龐統は目を細めて見つめ返して言葉を続ける。
「周瑜殿のお気持ちは伝わりました。以前、厚遇を賜った身、できる限りであればお応えしたいと思います。ですが、その前に一つ――よろしいでしょうか」
「何なりと。龐統先生」
背筋を正した周瑜を見つめ、龐統は静かに訊ねる。
「貴方の目指す場所、志をお伺いしたいのです。
「……志、ですか」
「はい、貴方はこの乱世で何を志し、何を為そうとしているのかを問います」
戸惑う周瑜に、龐統はそう告げながら思考を巡らせる。
周瑜は気持ちのいい男であり、好ましく思っている。だが、歴史の流れはこの先、彼と劉備軍が敵対する可能性を示している。
史実ならば赤壁の戦い後、周瑜は荊州の一部、江陵や襄陽を制圧し、曹操軍が混乱している隙をつき、益州を制圧しようと目論んでいた。その計略は諸葛亮が打ち立てている天下三分の計とは両立しない。いずれは益州を巡り、対立することになるだろう。
史実では彼は病死し、対立は免れた。だが、この歴史ではどうなるか分からない。
だからこそ、今のうちに彼の真意を確かめたかった。
(元直や孔明と対立することになるのは、避けたいからな――)
平穏を目指すが同時に、仲間たちが傷つくのも避けたい。龐統はその意思を込めて周瑜を見つめると、彼はゆっくりと口を開いた。
だが、その言葉を遮るように足音が響き渡る。眉を寄せると、扉が叩かれた。
「殿、柴桑が見えてきました」
扉の外から声が響き渡る。周瑜は視線を向け、鋭く声を返した。
「よし、着岸の準備だ。今行く」
「はっ」
兵士の声が遠ざかる。周瑜は腰を上げると、にこりと笑みを見せた。
「失礼。一旦、部隊の指揮を執ります。お二人はこちらでお待ちください。すぐに迎えに来ます。我が屋敷で歓待させていただきましょう」
「それはかたじけないです。ゆるりと待たせていただきます」
龐統は軽く頭を垂れると、周瑜は一礼して船室から出ていく。静けさが訪れた部屋で玲花がお茶で唇を湿らせてからぽつりと告げる。
「士元はあの人に仕えるつもり?」
「仕えるかどうかは分からないが、悪い人ではないぞ」
「ん、それは分かる。けど――何だか危うい気がする」
その言葉に龐統は否定せずに無言を貫く。
それは周瑜と話して薄々気づいていたことだ。十年前の冷静だった周瑜とは違い、瞳には激しさを秘めていた。だが、龐統の志を問う言葉には戸惑っている。
何かちぐはぐさを感じるのだ。
(――気のせいだと、いいのだが)
龐統はそう思いながら茶を飲み干す。その味はわずかに渋く感じられた。