果てしなく広々とした水面。
川の先は果てが見えず、川の両脇には断崖絶壁。高くそびえる山々には雲がかかり、どこが幻想的だ。これが長江――中国が生み出した神秘の景色だ。
(この景色はいつ見てもいいものだな……)
しみじみと思いながら景色に見入っていると、ふと膝の上で呻き声が響いた。風情が台無しになるような、地獄の底から響くような声だ。
「士元……水ぅ……」
「はいはい」
思わず苦笑をこぼしながら、龐統は景色から膝元に視線を向ける。そこでは膝を枕にした少女がぐったりとした様子で寝そべっていた。
その顔色は真っ青であり、気分が悪そうだ。龐統は瓢箪を手に取ると、栓を抜いて彼女の口元に運ぶ。彼女は口をつけて少し飲むと、うう、と呻いた。
「気持ち悪いよ、士元……」
「我慢だ。玲花。これはいわゆる船酔いという奴だからな」
「船酔い……?」
「ああ、床の揺れで身体が混乱していると起こる。地面は揺れないものだからね」
龐統はそう言いながら壁に背を預け、視線を辺りに向ける。
今、二人が乗っているのは中型の船。周りには小型の舟が並び、護衛するようにゆったりと進んでいる。江夏郡に駐屯する劉備が用立ててくれたもので、行き先は当然、揚州。孫権軍の本拠地だ。
(まさか、こんな風に揚州にまた訪れるとはな)
玲花の方を気遣いながら、思考を過去に向ける。
龐統が劉備と非公式の会談を経て、揚州へ向かうことを決断した三日後。
襄陽、江陵に潜んでいた密偵から動きが伝えられた。
曹操軍、南進開始。荊州水軍を併呑した曹操軍が動き始めたのだ。
その総数は二十万。陸軍、水軍と分かれて多方面から進軍を始めたという報告を聞くと、諸葛亮はすぐさま龐統に告げた。
『南進を始めたということは、すでに孫権軍に降伏勧告の使者を送ったはずです。それで万が一にも、孫権軍が降伏してはなりません。すぐに発ってください。士元』
『承諾した。だが、せっかちなことだな。急がんでもいいだろうに』
龐統は笑いながら了承し、こうして舟に乗って川を下っている。
悠長にしているのも、もちろん理由はある。
孫権はともかく、あの男が曹操にすぐに屈するとは思えなかったからだ。
(さて、元気にしているかな。彼は――)
龐統は視線を舟の先に向ける。続いていた峰々は徐々に低くなっている。もう揚州に入ったところだろうか。川底も浅いところがあるようだ。
ゆったりと艪が水を掻き、進んでいく音に耳を澄ませる。
ふと、その音に人の鋭い掛け声が交じった。
「警戒しろ。舟が近づいてきている」
「軍船か?」
「いや、違う。川賊かもな」
龐統はその声に視線を細め、手近にある剣を引き寄せる。玲花はゆっくりと身体を持ち上げ、辺りを見渡して目を細める。
「士元、あの舟」
「ああ、見えている」
物陰から現れたのは三隻の小舟だ。真っ直ぐにこちらに向かっている。身体を布で隠しており、不審なことこの上ない。警護の兵たちが警戒心を強め、艪を増やして速度を速める。瞬間、迫っていた小舟が布を取り払い、荒々しい声を放った。
「川賊だ! 弓!」
警護の兵たちが声を上げて弓を取り出し始める。玲花も素早く立ち上がり、荷物から弓を取り出した。龐統は舌打ちしながら矢筒を取り出す。
「まさか、賊が出るとはな」
「話には聞いていたけどね。迎撃に加わるよ」
「――大丈夫か? 船酔いは」
「そんなこと、言っていられないでしょ。それに士元は弓が下手なんだし」
玲花は軽口を叩きながら弓に矢をつがえる。舟の床に片膝をつき、体勢を安定させながら弓弦を引いた。ぴたりと姿勢が制止した直後、矢が音を立てて真っ直ぐに飛ぶ。
矢は川賊の舟の側面に突き立つ。矢が届くと思っていなかったのか、川賊たちは慌てて木の板を出し、盾代わりにし始める。
「お見事」
龐統は賞賛しながら代わりの矢を差し出す。対して玲花は舌打ちして首を振り、舟の床を軽く踏み慣らした。
「揺れがなければ、一人は持って行けたのに」
「あまり気負うな」
「ん……でも、まずいよ。士元」
玲花の口調にはわずかな焦りが滲む。ああ、と龐統は頷きながら剣の柄に手を掛ける。
向かい来る川賊の船足があまりにも早い。ぐんぐんと距離を詰め、こちらに向かってきている。警護の兵士はそれを阻むべく矢を放っているが、ほとんどが盾に防がれている。
(このままだと接舷されかねない――)
龐統が懸念を抱く一方で、玲花は深呼吸を一つしてから再び矢をつがえる。集中力を高めた彼女はじっくりと狙いを定めると、再び矢を放った。
空を切って宙を駆けた矢が川賊の舟に吸い込まれ、艪を漕ぐ男に当たる。
直後、手に当たったのか艪が吹き飛び、一隻の速度が乱れる。
(見事、だが……)
他の二隻は近づき、警護を固める小舟まで近づいていた。
兵士たちは槍を持って撃退しようとするが、直後、その川賊が槍を掴んで引っ張り、兵士を川に叩き落とす。残った兵士たちが怯んだ隙に川賊は舟に飛び乗り、剣を振るって暴れ回し、血飛沫を舞い上げる。
瞬く間に制圧される警護の舟。他の舟が助けに向かおうと寄せるが、川賊の舟はすぐに離脱しており、距離を取っている。かと思えば、次の舟に狙いを定めて接近。
今度は直接、中型の船――つまり、龐統の乗っている船に近づいている。
玲花はさせじと矢を放つが、艪にはなかなか当たらず、盾に遮られ続ける。
(戦うしか、ないか――)
龐統が覚悟を決め、迫り来る川賊を睨みつけ――。
直後、どこからか太鼓の音が響き渡った。
その音に川賊たちの顔色が変わる。怒鳴り声が響き渡り、慌ただしく辺りを見渡す川賊。つられて龐統も視線を巡らせ――気づく。
下流の方から、いくつかの舟が急速に接近していることに。
川賊の舟の艪が止まり、逆方向に動き出す。龐統の船から距離がすぐに離れていくのを、玲花は睨みつけていたがやがて吐息と共に肩の力を抜く。
「助かった、ようだけど、一体何が……?」
「彼らのおかげだよ」
龐統は視線で下流からの舟を示す。彼らは飛ぶような速度で水面を駆けると、龐統たちの船を追い越し、川賊の舟を追いかけていく。
その距離は瞬く間に近くなり、やがて接舷。兵士たちが次々と飛び込むのが見えた。
(川賊の舟も大分早かったが、それ以上か――)
さすがは最大級の水軍を有する部隊だ。感心しながら龐統は視線を下流に戻す。そこには中型の船が悠然と距離を詰めて来ていた。
掲げている旗は『周』の文字――舳先に立つ美青年も見覚えがある。
やがて船が横並びになると、跳躍して彼は身軽にこちらの船に飛び乗ってきた。長い髪が風になびき、切れ長の瞳が龐統を捉えて綻ぶ。
龐統は目を細めると拝礼と共に、挨拶の言葉を返した。
「お久しぶりです。周瑜殿。数年ぶりになりますか」
「ええ、龐統殿。またこうしてお会いできるとは」
そう答えた青年――周瑜の笑みは数年ぶりにも関わらず、変わりなく爽やかだった。