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第0話

 目の前には大地を埋め尽くすほどの軍勢があった。

 太鼓の音に合わせ、陣形を目まぐるしく変える兵士たち。時折、陣形を乱した兵士は校尉に怒鳴られ、慌てて陣形に戻る。中には棒で打たれている兵もいる。

 だが、大分動きは良い――いや、マシになったというべきか。

 その動きを椅子に腰かけ、頬杖をつきながら見ている男がいた。

 周りに並ぶ武将と比べると圧倒的な小男だ。だが、その眼差しは誰よりも鋭く、そして冷たい。この男こそが乱世の奸雄、曹操である。

 曹操は値踏みをするように軍の動きを見据え、唇を歪める。

「――多少は動けるようになったな。徐晃よ」

「はい、急な調練ではありましたが」

 脇に控える偉丈夫、徐晃が淡々とした声で答える。

「さすがに最初は腑抜けすぎて失望しましたが、見せしめを作ることで全体が引き締まった印象です。とはいえ、実戦は経験していないので、どこまで動けるかは分かりません」

「構わん。荊州の軍を当てにはしておらん」

 曹操はひらひらと手を振って答えてから黙考する。その主君の横顔を見やり、徐晃は静かな口調で訊ねる。

「恐れながら――丞相、もう南進を再開しますか」

「ああ。もう良かろう。劉備たちにこれ以上、時間を与えると何をしでかすか分からん。疾く討ち払い、荊州と揚州を平定せねばならん」

「ですが、本軍はまだ体勢を立て直せず、荊州軍もこの体たらく。あと一年は――」

「待てんのだよ。徐晃」

 曹操が低く、だが力強い言葉で遮る。それに徐晃が言葉を噤むと、曹操は手を挙げて合図を送る。それと共に前に進み出たのは一人の参謀――程昱だった。

 もう初老に差し掛かるこの男の顔は襄陽の日々で大分老け込んでいた。

 それでも淀んだ瞳には爛々と輝く光が宿っている。

「程昱、北の動向はどうなっている」

「荀彧殿、荀攸殿から逐一報告を受け取っていますが、よろしくありませんな。恐らく、あれは影だったのでしょう」

(……北? 影……?)

 程昱の言葉に徐晃は頭を捻る。

 北というのは分かる。恐らく冀州一帯をはじめとした河北のことだろう。曹操軍が袁紹軍を討ち、残党を追い払ってからは荀攸が駐屯して軍政に当たっている。

 それを洛陽にいる荀彧が物資や兵を送るなどの対応をしているはずだ。

 だが、影とは一体――。

「ふん、だとすれば公孫康は強かな者だ。いずれ除かねばならんな」

 曹操の言葉で徐晃は目を見開く。まさか、という予感が頭を過ぎる。

 公孫康は冀州よりも北、幽州の遼東郡を治めている太守である。彼は曹操軍に領地を追い出された袁紹の遺児たちを匿っていた。だが、曹操の手紙を受け取るや否や、その遺児の首を刎ねて曹操に送り、恭順を誓ったのだ。

 時流を読み、曹操に逆らう愚を悟っていたのだろうが――。

(その送ってきた首が影武者――影、だったということなのか?)

 だとすれば、袁紹の遺児たちは生き残っていることになり、虎視眈々と捲土重来の機会を狙っていることになる。

 顔色を失う徐晃をちらと見て微かに頷いた程昱は淡々と言葉を続ける。

「黒山賊の張燕や龔都も暴れており、荀攸殿は手を焼いている様子。このままだと北が乱れてしまいますな。丞相」

「左様――だからこそ、時間を掛けていられないのだ。徐晃。早急に揚州を降し、軍を再び北に向けねばならん。荀攸は何とか持ちこたえているうちにな」

 曹操はそこまで告げると、ふと思い出したように程昱に訊ねる。

「そういえば、程昱――郭嘉の容体はどうだ」

「おお、そうでした。丞相。それが郭嘉殿は持ち直した様子で」

「そうか、そうか」

 曹操の表情が緩む。徐晃もまたその言葉に思わず胸を撫で下ろした。

(郭嘉殿、良かった……)

 袁紹軍討伐で多くの功を上げた参謀、郭嘉は重い病に陥っていた。一時は生死を危ぶまれていたが、折しも名医として名高い華佗が現れ、治療を施したのだ。

 他の医師たちは匙を投げたらしいが、華佗は一目見るなり病巣を見抜き、神業染みた手腕で手術を施したという。それは誰もが見たことのない技法であり、だという話だった。正直、誇張され過ぎて疑っていたのだが――。

 どうやら華佗の手腕は確かだったらしい。曹操は目を細めて一つ頷いた。

「郭嘉が回復したならば、河北を任せよう。奴ならば柔軟に対応できる」

「ですな。その間に我らは迅速に、ですが確実に、揚州を制圧せねばなりますまい」

「で、あるな。ならば――そろそろ始めるか」

 その言葉と共に曹操の威圧感が増す。その気配を察し、彼の背後で寡黙に立っていた武将、許褚が手を挙げた。調練の太鼓の音が鳴り止み、武将たちが曹操の前で拝礼する。

 それを見渡してから、曹操は低い声を響かせる。

「まずは程昱――揚州の孫権に挨拶の手紙を送れ。文面は任せよう。ただ、賢明な判断を促すような文章を送れ」

 つまりは、降伏勧告。曹操軍の傘下に降れ、と通告するのだ。

 その意図を汲み取った程昱が、御意、とはっきり答えて頭を垂れる。

 曹操の視線が素早く動き、徐晃の隣にいる武将に向けられる。

「孫権軍はともかく、劉備軍は降伏しないだろう。連中は徹底的に叩かねばならない。その対応は文聘に任せよう。荊州軍を率い、江夏郡に居座る劉備軍を叩け。容赦はするな」

「承知いたしました。我が全身全霊を以て」

 荊州軍の降将、文聘ははっきりとした声で答える。そして、曹操の視線が徐晃に向けられる。背筋を伸ばした彼に対し、曹操ははっきりとした声で命じる。

「仮に孫権、劉備が連合して抗う場合は、我が軍の全力を以て叩く――水軍の指揮は徐晃に一任する。連中が歯向かうというのならば――徹底的に叩き潰せ」

「御意!」

 主からの命に心の底が熱くなり、気迫が滾ってくる。それに突き動かされるように、徐晃が肚の底から声を轟かせた。

 曹操は不敵な笑みをこぼすと、椅子から立ち上がって宣言する。


「さぁ――南進を始めよう。諸君」


 その言葉と共に、歴史が大きな音を立てて動こうとしていた。


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