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第9話

「――ふむ、さすがは龐統先生、確かな知見があるようだ」

 諸葛亮の屋敷の一室。そこにて龐統は劉備、諸葛亮、徐庶と酒を酌み交わしていた。天下の情勢を当たり障りのない程度で語ると、劉備は深々と頷いている。

 龐統は酒を口に運びながら、小さく目を細めた。

(――さすが劉備玄徳。一門の人物であるのは事実だな)

 語ったのはわずかな話ばかりだ。天下の情勢から、英傑たちの評価など。

 龐統が口にしたのは、諸葛亮にも語ったことがある分析だ。だが、劉備は一つ一つをしっかり耳を傾けた。深々と頷いて共感しつつ、それでいてさり気ない部分に質問する。それは人柄であったり、家族であったり、何気ないエピソードだ。だが、その着眼点に驚かされる。

 それは龐統が出会った様々な英傑にはなかった視点だからだ。

(他の英傑たちは自身と比較した評価や、儒教的な評価を聞きたがったのだが)

 どうやら別の視点から、英傑たちを見極めているのかもしれない。

 人が好い徐庶が好みそうな人物であることが、充分に伝わってきた。

 劉備は酒を口に運んでから、真っ直ぐに龐統を見つめて言う。

「元直から聞いていたが、様々な場所を旅してきたようだな」

「ええ、元直に頼り切りではありましたが」

 そう言いながら徐庶を見やる。聞き手に徹していた徐庶は苦笑を浮かべ、軽く首を振ってみせる。

「士元に助けられた部分も多いよ。自分は口下手だから」

「そうかな。まぁ、いずれにせよ元直には感謝している。旅に連れ出してくれ、いろいろな知見を得られたのだから」

 だから、と龐統は手を伸ばして徐庶の盃に酒を注ぎながら笑う。

「今回の手助けで、貸し借りはもうなしだぞ」

「はは――個人的には、士元に貸しができたと思っているんだけどな」

 徐庶は少しだけ嬉しそうに笑い、盃を持ち上げて酒を口に運ぶ。龐統は盃を持ち上げて応じると、視線を諸葛亮に向けて半眼になる。

「お前には貸し、だけどな」

「はは、手厳しいですね。士元――まぁ、覚えておきます。近いうちに返せるようにしましょう」

 諸葛亮はにこにこと微笑みながら酒を口にする。相変わらず食えない男だ。徐庶はその二人のやり取りに抑えた笑いをこぼしている。

 龐統は小さく吐息をこぼすと、視線を劉備に戻した。

「失礼。話が逸れましたね」

「いや、気にするな。先生と孔明、元直が仲良いのが伝わってきた。ちなみに元直と先生はどこを旅して回ったのかな」

「そうですね。交州、揚州、徐州、豫洲――河北も一通り巡ったか」

「そうでしたね。長安や涼州の方はまだ行ったことはないですね」

 龐統と徐庶は視線を交わして思い起こす。ふむ、と劉備は少し目を細める。

「なるほど、揚州にも」

 その目が不敵に光った、気がした。

(――なんか嫌な予感がするな……)

 具体的には面倒事を押し付けられそうな気がする。龐統は視線を逸らしながら盃に口をつけると、諸葛亮がぽつりと告げる。

「やはり、適任かもしれませんね。士元が」

「うむ、頼んでみるか。孔明」

 嫌な予感が加速する。龐統は表情を引きつらせると、立ち上がろうと膝を立てる。

「失礼、そろそろ――」

「まぁまぁ、士元」

 不意に背後に気配が立ち、ぽん、と肩に手を置かれる。振り返ればいつの間に、徐庶の姿が後ろにあった。肩を押さえられ、立ち上がれなくなる。

(こいつ……っ!)

 龐統が徐庶を睨みつけると、徐庶は気まずそうに視線を逸らし、悪い、と口を動かした。視線を正面に戻せば、劉備と諸葛亮が真剣な眼差しを向けていた。

「士元にとっても悪い話ではありません。聞いてもらえますか」

「強引に引き留めてよく言うよ」

「申し訳ない。龐統先生――だが、貴方が適任なのだ」

 劉備はそう告げると深々と頭を下げて言葉を続けた。


「頼む――揚州に、行ってくれないか」


 その言葉で龐統の頭に紫電が走った。

 この後に控えるであろう、曹操との決戦――赤壁の戦い。

 それに向けて何を考えているのか、劉備と諸葛亮の思考が読めてしまった。

「――孫権軍との、同盟か……っ」

 思わず呻くと、諸葛亮は真面目な顔で頷いて言葉を続ける。

「いかにも。我々だけでは曹操軍に抗し得るだけの軍が足りません。曹操軍に対抗するには、揚州の孫権軍に協力を求めなければなりません」

「だが、諸葛亮の密偵の情報によれば、孫権軍の陣容は主戦派と降伏派で分かれているという。万が一にも、孫権に降伏されたら我々は挟撃されることになる」

 諸葛亮と劉備の弁は説明されずとも理解できた。

 それは転生前に読んだ三国志の歴史に等しい流れである。

 だが、大きく違うのは――。

(それは諸葛亮、お前の役目だろう……っ!)

 思わず龐統は諸葛亮を睨みつける。

 劉備軍と孫権軍の同盟を説いたのは、諸葛亮だと言われている。

 無論、それは三国志演義――創作が入り交じった作品の記述であり、確かな史実ではない。だが、同盟を説きに行くならば適任は龐統ではなく、諸葛亮か徐庶だ。

 何故なら、龐統は現時点では劉備軍に属していないのだから。

(それともなし崩し的に俺を劉備軍に組み入れる気か……?)

 人の気持ちをないがしろにするのであれば、見損なったにも程がある。

 憎々しげな龐統の視線に気づき、諸葛亮は慌てて首を振って見せる。

「いえ、貴方に同盟を説かせるつもりはありませんよ。そんな大任をお任せするほど、私たちは恥知らずではありません」

「じゃあ、何をさせるつもりなんだ」

「殿が仰ったとおりです。揚州に行く――もっと言えば、貴方が仕えていた相手の元へと行っていただければ、と思います」

 諸葛亮は一呼吸置き、その人物の名前を口にする。

「周瑜公瑾――貴方は彼の功曹でしたよね」

「……それは……そうだが……」

 だが、それは十年近く前。まだ孫策が生きていた頃の時代だ。

 その頃の功曹――小役人のことを、周瑜は覚えているのだろうか。

 眉を寄せていると、諸葛亮は一呼吸を置いてから静かに言葉を続ける。

「もちろん、彼の元に向かわなくても構いません。ですが、貴方はいずれにせよ、ここから離れようと考えていた。恐らくは揚州か交州のどちらかに――違いますか?」

 その言葉に思わず龐統は黙り込む。肩に手を置いた徐庶が静かに言葉を継ぐ。

「これから江夏郡を中心に起きる戦いを想定すれば、戦火を避けるにはそのどちらかになるからね。そして、士元――君は交州の士燮を好ましく思っていない。ならば実質的に選択肢は一つになる」

「揚州を訪ねる際に、周瑜を訪れてくれればいい。それだけです、士元。どうか頼まれてくれますか。もちろん、路銀も出します」

 諸葛亮と徐庶の言葉に、龐統は思わず絞り出すようなため息をこぼす。

(――考えを読まれている、か)

 さすがに長い付き合いの友人だ。龐統の思考を読み切り、その上で提案してきたようだ。考えが誘導されているようで癪だが――。

「――孔明、元直」

「はい」

「周瑜殿に元に行ったとして、劉備軍と孫権軍の同盟を説くわけではない。周瑜殿に何か訊ねられたら正直に答えるぞ。例え、兵力についても」

「ええ、正直に話して下さい。ありのままの実情を話して結構です」

 当然とばかりに頷く諸葛亮。龐統は微かに舌打ちすると、黙っていた劉備が口を開いた。

「すまないな。龐統先生――このようなことを配下でない貴方に頼むのは、筋違いだと思う。だが、これは私に対する貸しだと思ってくれて構わない」

 申し訳なさそうな表情を見せる劉備だが、その瞳は真っ直ぐだ。嘘を感じさせない、はっきりとした言葉で続ける。

「貴方が平穏な生活を望んでいることは伺った。だから、これを成し遂げた先に、我々が拠る地を手に入れれば、貴方に望む生活を提供しよう。立派な屋敷も用意する。口約束でしかないが――どうか、協力してくれないか」

 劉備はそう告げて頭を垂れる。合わせて諸葛亮も頭を下げた。

 その真摯な姿に龐統はもはや言葉が出てこない。長々とため息を吐き出すと、絞り出すように告げる。

「――分かった。分かりました。劉備様、その言葉を違えることなきように」

「……やってくれるか。龐統先生」

「ええ。孔明の言う通り、揚州に行く予定だったのは事実ですし」

 それに、と前向きに思考を持ち直し、龐統は言葉を続ける。

「今後のことを考えれば一度、周瑜殿に会うのも悪くないでしょう。彼もまた国を憂う好漢の一人です。有意義な意見を交わせますし、少なくとも戦火からは逃れられそうだ」

 少なくとも揚州に戦火が訪れるのは、孫権が抗戦を決意し、かつ、劉備軍が敗走した場合だ。逆を言えば、劉備が負けなければ揚州は安泰。

 安全地帯で情勢を見守り、劉備に貸しを作る――それが最善手とも考えられる。

「孔明と元直の思惑に乗るのは非常に癪ですが、乗ってあげましょう」

「――悪いですね、士元」

「この借りは必ず返すよ。士元」

 諸葛亮と徐庶もほっとしたように言葉を返す。龐統はそれに無言で盃を上げて応える。劉備は表情を緩めると、龐統の盃に酒を注いで告げる。

「龐統先生の無事を願って、乾杯だ」

「それと劉備様の勝利を願いまして」

 仕方なさそうに笑う龐統と、穏やかに笑いながら不敵な眼差しの劉備。

 二人の視線が交錯し、酒を酌み交わす中で夜は更けていった。

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